そして、誰もいなくなった
2020年4月23日木曜日。
昼過ぎ。
俺は、亜里沙を連れて近所の公園に来ていた。
昼食の時間にかかっているせいか、公園には俺達以外誰もいない。
亜里沙は、「ぜーんぶ ありさのだよ!」と、笑顔で言うと、楽しそうに遊具で遊び始めた。
はあ。本当に可愛いよなあ。
見てるだけで癒されるわ。
ベンチに座って、デレッと亜里沙の遊ぶ様子を見ていると、胸ポケットに入れていたスマホが鳴った。
珍しい。親父の携帯からだ。
何だろう?
「もしもし。どうしたの?」
呑気に電話に出ると、親父の焦った声が返ってきた。
「ああ。優真か。今すぐ帰って来てくれ。母さんが動けなくなった」
ええ!!
何でそんなことに!
俺達が家を出る時、母さんも親父も疲れて寝てたよな?
俺は、「まだあそぶの!」と、泣く亜里沙を何とか宥めすかし、彼女を抱えて飛ぶように家に帰った。
玄関で靴を脱ぎ散らかし、居間に飛び込むと、真っ青な顔で倒れている母と、同じくらい真っ青な顔でその横に座っている親父がいた。
聞けば、親父が寝ている間に、無理をして台所に立ったらしい。
「優真が……、好きなオムレツでも作ろうかと思ったんだけど……、フライパンを持った瞬間……、腰がグキッて鳴ってね……」
脂汗を流しながら、息も絶え絶えに言う母さん。
俺の目に涙が浮かんだ。
滅茶苦茶ありがたいし、嬉しいけど、無理して欲しくなかったよ。
俺が、立てるかどうか聞こうとした時。
ピーポーピーポー
外から救急車のサイレンが聞こえてきた。
音はどんどん近づいてきて、うちの前でピタリと止まる。
ん? と、思って耳を澄ますと、バタン、ドタドタ、と、音がして、ピンポーン、と、インターフォンが鳴った。
え? うち?
驚いて玄関を開けると、そこにはマスクをした救急隊員達が立っていた。
後から聞いたところによると、動けなくなった母をどうしたら良いか、かかりつけの病院に電話で相談したところ、救急車を呼ぶように指示されたらしい。
救急隊員達は、呻く母を手際良く担架に乗せると、素早く救急車に運んだ。
1人、少し違う服装をしている隊員が、父から事情を聞いて、メモをする。
そして、その隊員の「誰か同行して下さい」と、いう言葉に、父が手を挙げ、俺の方を振り向いた。
「優真。済まないが、後は頼む」
「う、うん。何かあったら、すぐに電話して」
「分かった。じゃあ、行ってくる」
財布を掴み、大慌てで玄関に走る親父。
そして、全く状況に付いて行けない俺と、不安そうに人形を抱き締める亜里沙を残し、救急車はサイレンを鳴らしながら走り去っていった。
本当に、あっと言う間の出来事だった。
********
その日の夕方。
キャッキャとはしゃぐ亜里沙と一緒に買い物に行って帰って来ると、疲れた顔をした親父が家に戻って来ていた。
良かった。
帰って来れたのか。
ホッとして周囲を見回すが、母さんの姿がない。
嫌な予感がして、「母さんは?」と、問うと、親父が疲れたように言った。
「……母さんは、入院して手術することになった」
「え!」
「ヘルニアが悪化し過ぎて排泄障害になっているから、手術しないと無理らしい」
「……入院期間は」
「約2週間だ」
2週間!
それ相当じゃん!
「……姉さんと良一さんは?」
「2人とも入院中だ。退院は当分先だろうという話だ」
……てことは、だ。
亜里沙の面倒を見れる人間が、誰もいなくなったってことだ。
俺は溜息をついて言った。
「父さん。姉さんにいつも電話している時間とかあるの?」
「亜里沙が寝る前のおやすみを言うために、毎晩8時半に電話してるな」
「じゃあ、それまでに亜里沙には寝てもらって、俺、ちょっと姉さんと話をするわ」
***********
夜8時。
俺が来てはしゃぎまくったせいか、眠そうに目を擦り出す亜里沙。
お風呂に入りながら船をこぎ出したので、親父が寝かしつけることにする。
2人が寝室にいる間、俺は姉に電話をかけることにした。
プルル「もしもし!」
どうやら電話を待っていたらしく、ワンコール鳴らないうちに勢いよく出る姉。
「もしもし! あ、優真! 実家に帰ってたのね! 亜里沙は?」
なんだ、元気じゃん。と、思いつつ、俺は答えた。
「亜里沙ちゃんなら、8時頃からウトウトし始めてたから、親父が寝かしつけてる」
「そっか。分かった。
……ところでさ、母さんってそこにいる? 何度か携帯鳴らしてるんだけど、出ないんだよね。LINEも既読にならないしさ」
あっけらかんと尋ねる姉。
俺は、苦笑しながら静かに言った。
「母さんは、ヘルニアが悪化して、今入院中だよ。2週間の手術入院だってさ」