実家からのSOS
2020年4月23日木曜日。
この日、振替休日を取った俺は、朝10時過ぎに都内の自宅を出た。
電車に揺られること1時間半。
神奈川県にある最寄り駅で下車。
改札を出ると、ゆっくりと実家に向かって歩き出した。
ちなみに、なぜ俺がここにいるかというと、母からSOSが届いたからだ。
何でも、頑張り過ぎて軽く腰を痛めてしまったらしい。
「お願い。土日だけでも応援に来て」
そう頼まれた俺は、たまっていた有給休暇を2日取り、実家に戻って来た、という次第だ。
『きっと、かわいい孫の亜里沙と一緒に暮らすことに浮かれて、年齢も考えず無理したんだろう。
俺が4日くらい家事を引き受ければ、まあ、何とかなるか』
この時の俺は、こんな風に考えていた。
********
駅から歩くこと10分。
俺は、実家の家の前に到着した。
持っていた合鍵で中に入り、「ただいま」と、大きな声で言うと、家の奥から「おかえり」と、いう、弱弱しい声が聞こえてきた。
あれ? 何か予想以上に元気がないぞ?
どうしたんだ?
靴を脱いで家に入ると、俺は1階の奥にある父母の寝室をノックした。
「母さん? 俺だけど、入っていい?」
「どうぞ。入って」
ドアを開いて中に入り、俺は唖然とした。
疲れ切った母が、力なくベットに横たわっていたのだ。
正月に見た時より5歳くらい老けたように見える。
俺は、思わず枕元に走り寄った。
「母さん! どうしたの!?」
「……ああ。おかえり。優真。母さん、ちょっと頑張り過ぎちゃって、腰をやられちゃったのよ」
いやいやいや。
どんだけ頑張ったらこうなるんだよ。
てか、母さんがこんなんになるなんて、親父は何してたんだよ。
「父さんは?」
「父さんなら、今、亜里沙を散歩に連れて行ってるわ。直に帰って来るわよ」
――――その時。
「ただいまー!」
と、いう、元気な声がして、玄関から物音が聞こえてきた。
バタバタバタ、と、小さな足音がして、寝室に亜里沙が飛び込んできた。
「おばあちゃん! ただいま!」
「おかえり。亜里沙ちゃん。ほら、優真お兄ちゃんが来てくれたよ」
「ホントだ! ゆうまくんだ! わーい!」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべる亜里沙。
うーん。安定の可愛いさだ。
癒されるなあ。
俺が頬を緩ませていると、廊下を歩いてくる音がして、親父が寝室に入って来た。
「優真。よく来たな」
俺は「ただいま」と、言おうと、オヤジを振り返って、絶句した。
疲れ切った表情に、艶の無い肌。
正月の時はピンと張った背筋も、老人のように曲がっている。
母が+5歳なら、父は+10歳だ。
「父さん! 一体どうしたんよ!」
「何がだ?」
「すごい疲れてんじゃん!」
俺の指摘に、親父は、弱弱しく溜息をついた。
そして、苦笑いしながら言った。
「……まあ、こんなところで話も何だ。茶の間に行くか」
********
母を寝室に残して茶の間に行くと、親父がどこからかお菓子を出してきた。
「亜里沙ちゃん、おやつにしようか」
「わーい!」
笑顔で喜ぶ亜里沙。
親父はお菓子の袋を開けながら、俺に言った。
「済まないが、優真はお茶を淹れてくれるか?」
「ああ、うん。分かった」
俺は、お湯を沸かそうと、茶の間の隣にある台所に移動して、首を傾げた。
何だこれ?
見たこともない黒い鉄っぽい素材のフライパンや鍋、ヤカンが、所狭しと台所の床に置かれている。
いつものと違うけど、置いてあるってことは、使っていいんだよな?
俺は黒いヤカンを持ち上げようと手を伸ばし、思わず目を見開いた。
重っ! 何だこれ!
うちにある2kgの鉄アレイより重いぞ!
試しに、ヤカンの隣にあった黒いプライパンを持ってみると、ヤカンほどではないが、普通のフライパンの倍以上重い。
俺が驚いて立ち尽くしていると、様子を見に来た親父が、ボソッと呟いた。
「それは、柚香が運んで来た南部鉄器だ。ミネラルとか鉄分を自然な形で取れて、テフロンより体に良いらしいぞ」
「……まさか、腰の悪い母さんが、こんな重い調理器具使って料理してたの?」
「……柚香が、亜里沙に食べさせる食事を作る時は、全部南部鉄器にしてくれって言ったらしくてな……」
俺は、溜息をつくと、眉間を揉み解した。
段々状況が読めてきた。
俺は親父に尋ねた。
「この他に、姉さんが頼んでいったことってあるの?」
親父は、「ああ」と、頷くと、黙って1冊のノートを差し出してきた。
受け取って見ると、何ページにも渡って、細かい字でビッシリと何か書かれていた。
・お風呂は毎日「エプソムソルト」を入れて入ること
・口にする水は、全て〇〇深層水を使うこと
・醤油はグルテンフリーの「〇〇」を使うこと
・
・
・
書いてあることの半分も理解できないが、これがとてつもなく細かい指示書ということは分かる。
これ、本気でやったら、めちゃめちゃ大変だよな?
まさか、母さん、これやったのか?
チラリと親父を見ると、俺の考えていることが分かったのか、黙って疲れたように頷く。
どうやら、母さんは、親父を巻き込んで、真面目にこの指示書に従ってやったらしい。
そりゃ、疲れ切って一気に老け込む訳だ。
状況が分かり、俺の中に沸々と怒りが込み上げてきた。
……ったく。
あの馬鹿姉は、年老いた父母に何やらせてるんだよ。
孫可愛さに無理することくらい分かるだろ。
怒りを抑えるため、軽く深呼吸すると、俺は親父に言った。
「……俺、今夜あたりに姉さんに電話かけて、一言言うわ」
……しかし、この後、事態は思わぬ方向に進むことになる。