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ずっと昔の話。
私はまだ幼い女の子供で、おばあちゃんと一緒に「白黒写真」という名前の古ぼけたアパートに住んでいた。
お父さんとお母さんはいなかった。多分、私には最初からいなかったんだと思う。女の小さな子供、おばあちゃんというただ二人だけの不思議な家族だった。最初からいなかったから、寂しいとも両親がいる子をうらやましいと思うことも無かった。どうして母や父がいないのか、いなければおかしいじゃないかと聞かれても困る。まるで人生の途中から創り出されたように、私、そしておばあちゃんがいたとしか言いようがないんだから。
まあ、とにかく私はそのアパートに住んでいた。
白黒写真は古くて大きい家の合間にたまに古ぼけたアパートやマンションが建っている、時が止まったような、でもどこにでもある普通の町のはずれのほうに建っていた。傾きかけている、というほどではなかったけれどエレベーターはぎしぎしと言っていたし、よく晴れた日の午後には壁面に影がたくさんできていた。どういうことか分かる。タイルが外れかけているんだ。全体的に日の差し込まないくらいアパートの中庭に差し込む光と、今にも崩れそうなタイルたちが作り出す影は子供心にはけっこう気に入っていた。今考えたら少々怖いけれど。
私がそのアパートに住み始めたのは、幼稚園の年長さんからだから…5歳くらいか。。それまでは別のところに住んでいたらしいんだけど、いかんせんこんな風な人間だから、まったく覚えていない。多分、私を途中から創り出した誰かの作った、私と言う人間の設定の一つで、実際にはどこにも住んでいなかったのだろう。
初めてそこにやってきた(ということになっている)日のことはとてもよく覚えている。春の日差しの中を、おばあちゃんに手を引かれて、いっとう上等なワンピースを着た私が部屋…それからの十年間を過ごした部屋だ…にそうっと足を踏み入れる。つめたいフローリングの床が私の疲れた足を優しく冷やしてくれた。たった1mあまりの身長から見た部屋は、まるで夢の中みたいだった。素晴らしかった、というより、現実味がなかった。
おばあちゃんの趣味であるアンティーク調の家具はあらかじめ運び込まれていて、それがさらに現実味の無さを加速させていた。アパートの部屋は一階で、リビングの隣には小さいけれどけっこうしっかりした庭があった。リビング、ダイニング、キッチン、その隣にふすまで部屋にもできる六畳の和室。そして、リビング側から洗面所とお風呂、トイレ、二つの部屋が廊下から繋がっている、まあまあの広さの部屋だった。
「キミちゃん、これからここで暮らすのよ。楽しく暮らしましょうね。」
「うん!」
おばあちゃんは興奮する私を見て優しく微笑んだ。そして、「そうだ」とつぶやくと玄関を入ってすぐの、まだ見ていない部屋に案内してくれた。
「ここが、キミちゃんの部屋よ。気に入ってくれるかしら?」
おばあちゃんが用意してくれた部屋は、まるで子供の夢と幸せが詰め込まれたような素敵な部屋だった。シンプルでかわいらしい学習机、その上のロフトベッドには天蓋がかかっていて、お姫様が寝るようなベッドになっていた。壁は色褪せたようなうつくしいピンク色に塗られていて、絵を描くのに最適な黒板がかかっている。大好きな絵本と、そのころの私にとって世界のすべてを教えてくれるような存在だった何冊かの百科事典、おばあちゃんが昔読んでいた子供向けの読みやすい本が所狭しとぎっしり詰められた本棚。サーカスのテントのようなおもちゃの折り畳み式テントが部屋の真ん中に置かれていて、かわいらしく飾られた物置の中にはおもちゃがたくさん入っているらしかった。私は飛び上がって、それからおばあちゃんに言った。
「とっても気に入ったわ!ありがとう、大好き!」
これからここで暮らせるなんて夢みたいだった。童話の中や、絵本の中みたいな最高の子供部屋。私はおばあちゃんに抱き着いた。これが最初の日の、私の人生の始まりの記憶。