きえないあのあと
足跡が自然に消えてなくなるということはありえない話です。覚えていますか。君はぼふぼふと音を立ててまっさらな雪を潰してゆきました。なんの躊躇もなく、です。捨て置かれた事実は君を糾弾できる時が来るまでじっと待っています。しかしこうして見渡すかぎり一面は真っ平らである? そうです、そこがおかしいのです。ねえ、雪は等しくこんこんと降り積もってゆきます。だったらどうして真っ平らになるのでしょう。最初にへこんでいたところは、最後にもへこんでいるべきでしょう?
白むくりは、君の背が見えなくなるとむくりと起き上がります。白むくりは君のくるぶしを少し超えたぐらいの大きさで、雪のなかに隠れていたせいで頭に雪がつもっています。白むくりはぷくぷくと膨れたと思うときゅっとしぼんで頭の上の雪を払います。それから白むくりはあなたの足跡までとてとてと近づいて、丸っこくふさふさした手で足跡まわりの雪をおして、へこんでいるところを埋めてゆくのです。
一体の白むくりはおおよそ五歩のへこみをていねいに埋めてゆきます。もちろん人間がこの地を去ってゆくまでには五歩では足りませんから、人が過ぎ去るたびにたくさんの白むくりがぴょこっと雪のなかから顔をだすのです。そして必ずはじめにへこんだところから平らにしていきます。かつてはそうでもなかったそうですが、白むくりというのは記憶力があまりよくないらしく、好きなところから埋めているうちに埋め残したへこみがいくつか出てしまったようなのです。それを見た人間が、まるで飛び跳ねたような足跡だとふしぎがったのを白むくりはこっそり反省して、今では順番にひとつずつ片付けていっていると聞きました。
そんなものは見たことがない? 私は見たことがあります。私が子どもだったころの話です。当時の私には妹がいたのですが、彼女はとても病弱でした。本来であるならもっとあたたかく涼しい場所で療養する必要がありましたが、そうするだけの余裕もない、貧しい家でしたから、私の家族はただ家をぽかぽかにあたためて、外にでないようにと妹をふかふかの羽毛ぶとんでくるみました。
もちろん家にずっとこもっていれば妹は退屈になります。両親も忙しいですし、家で満足に遊べるような環境でもありませんでしたから、そこで兄である私が彼女をときどき慰めてやることになりました。といっても外であったことを話してやるような程度でしたが、妹はそれを聞いているだけでも楽しそうなので、私も習慣のようにそれを続けていました。
ある日、私はクラスメイトから聞いた白むくりのうわさについて妹に話しました。白むくりがいつ発見されたのかは分かりませんが、クラスメイトは祖母からこの話を聞いたそうです。妹は目をきらきらとさせながら私の話を聞いて、終わったときには体を起き上げて私の首に抱きつかんばかりにしがみついて。
「白むくりちゃんがみたい」
といいました。私は妹がこうしたわがままをいうのが稀だとわかっていたので、彼女の頭を撫でて次のように約束しました。
「お兄ちゃんが探してくるよ」
そして私は次の日から白むくりを探す活動をはじめました。といっても白むくりが出てくるのは人間がだれもいなくなったときを見計らって、足跡を消す時だと決まっていましたから、むやみに探しても意味がありません。数日をかけて私は白い布切れを集めて軽く縫い、自分の体を隠せるほどの大きな白い布と虫かごを用意し、雪道へと飛び出しました。
ぼふ、ぼふ、と七歩ほど歩いた私はくるりと進行方向とは逆の方を向いて、寝転がっては身をぐっと縮めて白い布をかぶりました。布の下で私は虫カゴを片手に持ち、もう片方の手で布をほんの少し雪の地面から引き上げて、その隙間から白むくりがやってくるのをじっと待っていました。
しばらく経ちました。厚着ながらに地面の冷たさがじわじわとまわってきてぶるぶると震えていたころ、ぴょこっと雪の中から飛び上がるものがありました。どきっとして白布をつまみあげる指を少し上げてみると、白むくりがいました。白むくりは私の足跡のふち周囲の雪を押しています。押された雪は音もなく足跡の方にすべり落ちます。私は息をひそめて虫カゴのふたを開けました。
白むくりが私の最後の足跡を埋め終わろうとするまさにその時、私は被さっていた白い布を押しのけ手を伸ばしました。白むくりは驚いたように跳ね上がり、私はその宙に浮いた白むくりを両手でしっかりと覆いました。両手には白むくりが暴れ回るような振動が与えられ、その度に白むくりの触れた部分がおそろしく冷たくなったことと、くみあわさった手の隙間からーーそれはもうおぞましい、悲鳴のような甲高い音が響いて、いよいよ耐えられなくなった私は白むくりを虫カゴに投げ込み、ふたを閉めて急いで家に入りました。
「白むくり、つかまえたよ!」
私はどたどたと寝ている妹のそば膝をついてそう叫びました。妹が私の声に反応して少し体を起き上げるころにはすでにあのおそろしい音はやんでいました。妹はぼんやりした目で私とかごを交互に見ていました。私はかごを開けました。そこにはどろっと溶けたような、雪のようなものしかありませんでした。
「違うんだよ。これはね、本当はちゃんと」
私が言い終わる前に、妹は信じられないぐらい強い力で私の首にかけてあった虫カゴをひっぱりって、ぐるっとカゴを回転させました。虫カゴのひもが私の首をぐいぐいと締めるような形になって、私は思わず妹を殴りつけ、それを解かせました。妹は、けほけほと咳をしながら、ゆっくりと、ぞわぞわするぐらい冷ややかな声で言いました。
「お兄ちゃんはいいよね。あったらいいなあって思って、探しにいけて、なくてがっかりしちゃっても、他のものを探しにいけばいいんだから。でも、わたしは……そうやって希望をもたせて、もちあげて、結局なんでもなかったなんて、それじゃわたしの気持ちはどうなるの?」
私は寒さで真っ赤になった手で妹の体を押さえつけました。
「おまえのためにやったんだぞ! それを……」
妹のあたたかさを手に感じると同時に、私は妹のあたたかさを奪っているのだと気付きました。しかしある種の心地よさによって、私は手を離すことができません。妹はぜいぜいと息を吐きながら私の手を引きはなそうとしました。
「私の気持ちは雪に溶けてなくならないの!」
その夜、妹はひどく体調を崩しました。
静かな闇は徐々に深刻さと忙しさでかき乱され、家族はせっせと動き回っていました。私といえばその手伝いをしながらも、父と母が私と妹の間にあったことを気づいていないか、それで咎めてきやしないかばかりをうかがい、不安でいっぱいでした。
妹は家族の看病もむなしく死んでしまいました。
正直にいって、当時の私はそこまで悪くはないと思われるのです。故意に約束をやぶったわけではないし、傷つけようと思って何かをしたわけではないからです。
しかし一つだけ、考えたくないことがあります。
妹のあのわがままは、本当にただのわがままで、実際は白むくりを見たかったわけではないとするなら。
白むくり探しなどと言って、自分をひとり放って外に出かけた兄の薄情さを呪っていたなら……。
足跡が自然に消えてなくなるということはありえない話です。足跡を消してくれるのは白むくりの活躍によるものですから。ところが私は白むくりに見放されてしまったようです。同胞を殺害してしまったからでしょうか。どんなに降り積もっても、いやむしろ降り積もれば降り積もるほど私の足跡がくっきりと残ってゆくのです。
だから……これから、いつまでも取り残されているさびしい足跡を見つけても、絶対にそれを辿ってはいけませんよ。だってその先に私の死体が転がっているかもしれないですからね。