フットフォルト
ポエムがね、機能していないの
――春――
それは、出会いの季節
それは、別れの季節
それは、私の季節
春が一番好きだった
春が一番嫌いだった
だって、桜が咲く季節
だって、桜が散る季節
それは綺麗で残酷で、誰の前にも訪れて
それは甘美で辛辣で、私の胸を締め付ける
一生春が来なきゃいい
入学式。桜が咲き、新しい出会いがあり、どうにもならない別れが訪れる。そんな季節。
長い校長先生の話も終わり、ホームルームも終わり、下校時間。前方を歩く、新しい制服に慣れてない彼の元へと小走りで向かう。すぐ後ろまで来たのに、全然気づかない。そうですか、それが彼女に対する態度ですか彼氏さん。でも私は優しいから、理解があるから、不満は胸の内に隠してしまって、彼の背中を人差し指でちょんちょん、とつつく。
「隆明、一緒のクラスになれてよかったね」
彼は、隆明、遠藤隆明。どことなく頼りない感じだけど。私の彼氏だ。
「わ。びっくりした。うん、そうだね、柏さん」
私は柏桜。いつもおいしそうだねとか言われる。
振り向きながら、私のことを名前じゃなくて苗字で呼ぶ。いつものことだけど、少し嫌だった。だってもう、付き合っているのに。特別なのに。でも、そんな意気地なしなところは嫌いじゃなかった。
「桜――」
「え?」
突然名前を呼ばれてびっくりした。不意打ち過ぎた。どこでそんなテクニックを身に着けたのだろう。
「――咲いてるね。綺麗だね」
……全然違った。そんなにすぐに呼んでくれるはずはなかった。でも、彼にとってはそれが精一杯なのだろう。照れ隠しなのだろう。そう思うことにしよう。
「そうだね」
ただ一緒に、桜を眺めているだけ。一緒に帰っているだけ。それだけで、心が満たされたようだった。――ずっとこの瞬間が、続けばよかったのに。
「そうだ、僕高校から部活始めようと思っててさ」
ふいに、桜から目をそらしてそう言った。なぜだかどきっとした。彼が何かを自分から始めるなんて珍しいから。だから、それがどんなものでも応援することにした。
――それは、間違いだったのかもしれない。
「なに部に入るの?」
「テニス部。軟式の方だけど」
照れたように頭をかいて、自信なさそうに笑う彼。何故自信が持てないのだろう。情けない。もっと頼もしくないと私の彼氏にはふさわしくないんだから。
「じゃあ、がんばらないとね!」
だから、そんな彼を励ますのは私の役目だ。私の言葉でやる気を出して、自信を持って、精一杯頑張ればいいんだ。やっぱり、情けない姿よりは、頑張ってる姿を見たい。そのほうがかっこいいよ。
「そうだね。がんばるよ!」
力強くガッツポーズをして見せて、気合は十分なようだ。それが私には嬉しくて、誇らしかった。私のために頑張ってくれているんだと思えたから。
がんばる姿を見たいと思った。でも、情けない姿だって嫌いじゃない。だって、励ましてあげることができるから。私にだけ見せてくれる弱さだって、あったっていいと思った。
もう、桜並木も終わって、横断歩道の信号待ち。彼は、ここを渡らない。別れ道。いつまでも、彼との時間は続かない。
「じゃ、またね」
「うん。またね」
一緒にいたいのに。不満は口に出さないで、歩く彼の背中を見送る。でも、またねって言ってくれたことが嬉しかったから、許すことにしようと思った。
信号も青に変わった。帰らなきゃ。
重い足を動かして、私は私の帰路につく。
また会えるから、いつでも会えるから。またねって、言ってくれたから――
四月半ば。少しずつ高校の授業に慣れて……いるのかな? とりあえず時間割は覚えたけど、教室移動、どこに行くかまだちょっと不安が残る。
進学校を名乗っているだけあって、授業スピードはそれなりに早いと思う。古文なんかひとつもついていけない。これ、習う必要あるんだろうか? 時々疑問に思う。
そんな昼休み。机を動かしたりくっつけたりしておしゃべりしたり、お弁当を食べたりする。この学校には学食が無い訳じゃないけど、座れる席は少ないし、味の評判もあまりいいとは聞かないから行く人はあまりいなかった。一年生ということで行き辛さも感じるし。
私は、隆明とお弁当を食べたかったんだけど、彼はすでに男友達と話しているし、私は私で、もう女子グループの一人だった。
お弁当箱を包んでいるハンカチの結び目をほどき、ふたを開ける。中身は左半分がご飯で、右半分はおかずだ。野菜やお肉、卵焼きで、彩りも栄養バランスもばっちりだ。まあ、冷凍食品に頼ることが多いのだけど、楽だし。いつもは母親に作ってもらっているけど、お母さんが忙しい時なんかは自分で作る。今日もそんな感じ。
「――でさー」
グループの一人、葛城恵美が口を開く。大雑把なところがあるけど、根はいい人だ、と思う。彼女とは中学の時から一緒だったけど、よく話すようになったのは、高校に入ってからだったりする。
「遠藤ってさあ、モッチーの彼氏だったよね。あれのどこに惚れたのかよくわかんないんだけど」
「ええー。隆明君かっこいいよ?」
私の彼氏を“あれ”って呼んだことはちょっと……全然許せないけど、きっと悪気はないんだ彼女は……。そう言い聞かせることにする。
もっちーと言うのは、私のニックネームらしい。自然にそう呼ばれるようになっていた。多分、私の苗字と名前が、どっちも餅に関係するからだと思う。
「いつから付き合ってるんだっけ? 中二の時はまだ付き合ってなかったよね」
大きい弁当箱を片手に持ってご飯とお肉を次々に口の中へ入れていく。
「うん。中三の夏くらいからかな」
私の彼氏の話なのに、なんで恵美は気にしているんだろう。彼女はどちらかと言うとさばさばしている感じだから、そんなこと気にするようなタイプじゃないと思っていた。
「部活で外周走ってる時にさあ、偶然見かけたんだけどね。ありゃ駄目だね。玉拾いばっかしてた」
「へえ」
玉拾いしてたら、なにかダメなところでもあるのかな? テニスのことはよくわからない。
「恵美ちゃん、それは当たり前なんだよ? 私もテニス部中学の時やってたんだけど、最初のうちは玉拾いと素振りしかさせてくれないよ」
相槌を打ったところで、涼子がフォローしてくれる。佐上涼子。彼女は、いつもは恵美の隣の席、私の席から二つ離れたところにいるおとなしい子だ。
彼女とは高校で初めて知り合ったけど、礼儀正しいし、話しやすいし、席が近いこともあって、すぐに一緒におしゃべりする仲になった。
「でもなー。男ならこう、ビシッとガンガン前に出てホームラン打つ気合いを見せてほしいと思うのよ」
「テニスでホームラン打ったらアウトだよ恵美ちゃん……」
そうなのか、あははー知らなかったよ。などと言いながら、両手に見えない何かを握り、カッキーンの掛け声と共に見えない何かをフルスイング。きっと特大ホームランだね。
そんな感じで昼休みも半分終わり、お弁当も食べ終わった時だった。
「葛城さん。葛城恵美さん」
一人分の人影が近づいて来て、恵美に声をかけた。
「あら? 委員長。何か用?」
彼女に話しかけているのは、委員長だから、清水さんだ。私のクラスの学級委員で、成績優秀、眉目秀麗。まさに非の打ち所がないって感じの女の子だ。彼女は隆明の所属するソフトテニス部のマネージャーでもある。
「狭くなって通れなくなってるから、ちょっとだけつめてもらえないかな? って」
確かに、恵美ちゃんが立ち上がって大きくフルスイングしちゃったから、机と机の間の狭い空間をふさいでしまっている。
「ああ、ごめん。委員長通るの?」
「まあ、そんな感じ、ごめんね」
「いや、こっちこそ悪かったよ。ごめんね」
と、葛城さんに諭すように言った後、開いた隙間を抜けて教室の外へ向かった。なにか用事でもあるのかなあ。って、なかったら出ていかないよね。
「ちょっとしくじっちゃったかなあ。あはは」
頬を人差し指でかきながら笑う。それなりに反省はしているようで。
「……」
笑う葛城さんとは対照的に、涼子ちゃんはうつむいて沈黙していた。どうしたのだろう。声をかけてあげるべきかな。
「涼子、どうかしたの?」
「あ、うん。清水さんのこと、ちょっと気になって」
「どうして?」
「……ううん、なんでもない」
何か言おうと口をぱくぱくさせていたけど、結局口を閉じてしまった。折角聞いてあげたのにな。それに、喋ってしまった方がすっきりするはずなのに。
「昔何かあったとか?」
もうちょっとだけ、期待を込めて、促してみよう。
「小学校の時ね、清水さんと一緒だったんだけどね……」
「うんうん?」
涼子は、そこで口ごもって、何かを言いたそうな、やっぱり言いたくなさそうな感じで口をもごもごさせる。言っちゃえばいいのになあ。
「ううん。知らない方がいいかもしれない。特に桜ちゃんは」
「ん? なんでさ?」
尋ねても。今度は答えてくれなかった。なんでそこで私の名前が出てくるんだろう。
そんな中、
「いや、でも今回は私が悪かったと思うし」
恵美が話に絡もうとして、
「あ、うん。そだね」
「そこは否定してよ……」
あ、落ち込んだ。
キンコーン。チャイムが鳴る。昼休み終了の合図だ。十分後には授業が始まる。次の授業は、えっと、英語だ。だけど今日の英語は外国人の先生に教えてもらう授業で、視聴覚室に移動しなければならない。いつもは教室で文法やら何やらをひたすらやったり、英文を読んでいったりする。教室で、日本人の先生つきで。
弁当箱をしまい、机を元の位置に戻し、教科書を持って皆についていく。今日の授業ももうすぐ終わりだからと、自分自身をどうにかこうにか鼓舞しながら。
全ての授業が終わり、生徒の三分の一くらいは帰宅の準備をする。残りは委員会の仕事だとか、宿題をするだとか、隆明や葛城さんなどは、部活動にはげむのだ。
私にはそんな用事はなにもない。帰ろうか……。
鞄を持って、教室を抜けて、下駄箱へ。サンダルみたいな上履きを靴箱の仕切りの上の方に入れ、下にある全然オシャレじゃないスニーカーを取り出す。もっとおしゃれだったり、かわいいのがいいんだけど、この進学校の決まりによって、制限されていたりする。知り合いの通っている商業高校はもっと決まりが緩いのに。でもそれでいいんだって言い聞かせる。せっかく隆明と同じ高校に入れたんだから。
私は、数学と社会が(公民とか現代社会とかいうのが特に)苦手で、この高校は無理なんじゃないかって中学の先生に言われていた。でも、隆明と同じ高校に行きたかったから、頑張って勉強したんだ。
褒められたいな、そう思って勉強したわけじゃない。ただ一緒に居たいと思っただけ。でも、合格の通知が来た時、隆明に褒めてほしいなって思ってしまった。だから、夜だったのに、電話してしまったんだ。合格したよ。一緒のとこだよ。いつでも会えるねって、それだけ言おうと思って、声が聞きたいなと思って。
三回目のコールで、彼は応じてくれた。今でも覚えてる。すごい不器用だったと思う。私は、あのねあのねって、慌てるばかりで。でも隆明がどうしたのって聞いてくれて、すっと心が落ち着いて。合格したんだって伝えることができた。褒めてほしいなんて一言も言ってない。でも彼は、おめでとうって、頑張ったねって言ってくれた。嬉しかった、気持ちをわかってくれてるのかなって本気で思った。
でも何故か、ちょっとだけ胸が傷んだ。褒められるってことは、合格する実力なんて私には無かったんだと言われているようで。そんなこと、思い過ごしなのに。
会いたいな……。桜の花は、もうほとんど散ってしまっている。だから、校舎からも見えたきれいな桃色の桜の花は、今は見えない。
声を聞きたいな……。校門を通り抜ける。だって、会いに行ったって部活中だし、迷惑になるだけだから……。
顔だけでも、見たいな……。通り抜けたところで踵を返す。少しくらい見学したって罰は当たらないよね。何も悪いことじゃない、どうして今まで遠慮していたんだろう。
校門を抜け、校舎裏のほうにあるテニスコートへ。
だだっ広いグラウンドは、サッカーやら野球やらの部活をする人で埋まっている。だから、その脇を抜けていく。悪いことじゃない、なのになぜか心臓が早鐘を打つ。早足で、早足で、ただ見るだけ、がんばっている姿を、見るだけ。
テニスコートの周りは高いフェンスで囲われている。高校の校舎は三階建てだけど、それと同じくらい。大げさかなって思った。こんなに高くボールって飛ぶんだろうか、テニスで。よくはわからないんだけど。
テニスコートは四つか五つくらいあった。それら全てを男子が使っているから、女子は別のところでやっているか、日を分けてやっているってところだろうか。
隅のほうで、フェンスの外で、中を見る。
ボールが右へ左へ行ったり来たり。それを、体操服や、何かのユニフォームみたいなものを着た人たちが追いかける。練習だろうか試合だろうか。
遠くまでは見えないけど、多分その中に隆明はいないだろう。なんとなくだけど、そんな気がする。
ガシン! ぼおっと眺めているといきなりそんな音が近くで鳴った。どうやら、フェンスにボールが当たったみたいだ。丈夫そうなフェンスでもこんな音がするってことは、それなりに速くて、威力も強いみたいだ。
下のほうを見てみると、確かに小さいボールが転がっている。ゆっくりと転がって、そのうち勢いがなくなって静止した。
一人の男の子が、駆け足でこちらに向かってくる。おそらく、転がっているボールを拾いに来ているのだろう。
黒髪を汗で光らせ、あまり筋肉のついていない体で必死に走っているその姿は、私より少しだけ背が高いくらいのそのシルエットは、見間違えるはずもない――
「あ、柏さん」
――隆明だ。落ち着きかけていた鼓動がまた、大きく動くのを感じる。
目が合った。息が詰まる。こういう時、なんて声をかければいいんだろう。
がんばって。違う気がする。彼はもうがんばっているのだから。でも、何も思いつかないよ。考えようとして、思考を巡らせようとして、パンクする。何かを考えているようで、もうなにも考えられない。そんな堂々巡りをどのくらい続けたのだろう。
ううん。多分、一瞬だったと思う。
「じゃあね、また」
微笑みだけを残して、彼は走り去った。ドクン、ドクン。周りに聞こえているんじゃないかって程に、大きく心臓が揺れた気がする。
卑怯だ。ずるいよあんなの。あの笑顔だけで、私は満たされる。言葉も思考も何もいらない世界に連れて行ってくれる。ふわふわ空に飛んだみたいになる。ばかになる。夢見心地、こういう時のことをいうのだろう。両手で胸を抑える。遠くまで聞こえそうな気がする。そのくらい、心臓がばくばくだった。高鳴っていた。
ずっと感じていたい。そんな気さえした。
ボールを打ち合う音が鳴りやむ。終わるのかなって思ったけど、そうではなくて、練習のメニューが変わっただけだった。
「サーブレシーブ!」
誰かの大きな掛け声とともに、低く、でも大きく響く返事。全部が好きだった。全部を抱きしめたい。でも同時に寂しさも感じた。このフェンスの中に、私の全然知らない隆明がいるんだ……。
怖かった。だって、知らないから。知りたいからと言って、中に入る事なんてできない。それにね、中に入ることは裏切りなんだ。私は頑張れって言ったから。応援するんだって決めたから。
しばらくして、日が暮れてきて、部活も終わったみたいだった。コートの掃除やボール拾いも終わったみたい。
どうしようか……。もう見ていても仕方がない。でも、これだけなんて、意味がない気がする。
校門を出たところで立ち止まる。待っていようと思った。お話がしたいから。テニスに興味があるわけじゃない。ただ隆明が、どんなことをがんばっているのか知りたい。どんな風にがんばっているのか知りたい。それだけだった。
校門を、次々と生徒が通り抜けていく。部活帰りもいるだろうし、そうじゃない人もいるのだろう。
五分たって、十分たって、だんだんと肌寒くなってきてってときに、ようやくその人を見つけた。
「あれ、柏さんここにいたんだ」
向こうから声をかけて小走り気味に近づいてくる。
「うん。部活頑張ってるんだね」
だから私は、笑顔で迎えてあげるのです。少しでも、疲れを癒せればいいな。
「じゃ、帰ろうか」
「うん」
並んで歩く帰り道。何も変わらない、いつも通りの日常だ。それでもやっぱり……。
「びっくりしたよ。部活してたら柏さんいたから」
「ちょっと見学しようと思っただけだよ。頑張ってるのかなって」
恥ずかしそうに照れ笑いする隆明を見ると、私まで嬉しくなってくる。
こんな風に笑う彼を知っているのは私だけ。
「最初の内は玉拾いしかさせてくれないんだけどね。基礎的なことはやるけど、やっぱり少しは試合とかやってみたい気持ちもある」
「みんな最初はそうなんだって聞いたよ。大丈夫」
こんななんでもない弱音を吐いてくれるのだって、私にだけだ。
「隆明なら、頑張れるよ」
胸を指で小突いてやる。
頑張ってくれればいい。頑張ってくれなくてもいい。
全部、全部見たいから。独り占めだ。もっといろんな表情を見せてくれるとうれしい。
「そうだね。そう言ってもらえると頑張れる気がするよ」
毎日毎日練習して、強くなっていく隆明を想像する。それは、頼もしいようでもあり、寂しいような気がした。
でもきっと、私の言葉で元気になってくれる、頑張ってくれる。それだけはせめて、変わらない、いつものままの隆明でいてほしいと、そう願うことにします。
「じゃあ、僕こっちだから」
横断歩道渡る手前、いつものわかれ道。彼との別れ道。
「また明日。桜……さん」
「え?」
突然のことに驚いて、何も反応できなかった。ずるい、ずるいよ。
放心状態の私を置いて、彼は帰路への歩を進める。
名前を呼んでほしいとは思っていた。だってもう付き合って結構たつし。ただ、それだけでこんなに自分がうれしいと思うなんて想像もしていなかった。
名前を呼んでくれた。私は隆明の特別になった。心が弾む。
でも何故か、嬉しさだけじゃなくて、他の感情もないまぜになっていて……。
寂しいような、焦りのような、慌てるような、弾けるような、この感覚はなんだろう。チクチクと痛むようで、モヤモヤと気持ちの悪い。この感情はなんだろう。
置いて行かれてしまう、ついていけなくなっちゃう。でも、もっと遠くへ行ってほしい、加速してほしい。
ああそうか、矛盾してるんだ。だって、ずっと情けないままの隆明だって好きなんだ、好きな子の名前さえ呼べない意気地なしを、全然嫌いなんかじゃなかった。
度胸があって、かっこいい隆明だって、多分私は好きになる。
そっか、今はその狭間だから、不安なんだ。変わって行っている姿を見るのが。
でも私は、応援するって決めたから。頑張れって言ったんだから、頑張るって言ってくれたんだから。
決めたことにくよくよしてたんじゃ、隆明に失礼だ、笑われちゃうよ。だから、こんな不安は閉じ込めよう。底の底まで、隅の隅まで沈めてしまおう。きっとそれで正しいし、きっとそれが一番だ。だから私は応援して応援して、ひたすら応援するだけ。
入れ。
練習を見ていて少しだけわかった。テニスっていうのは、相手側の指定された範囲内にボールを入れないとダメらしい。
入れ、
今日の練習はサーブとレシーブとかいうやつで、試合とかの始めの大事なものらしい。
入れ……
隆明はその練習で、結構ミスしてたみたい。何度も何度もボールを頭上に投げて、ラケットを振り下ろしていた。
入れ!
だから、そんな最初の、一番大事なものくらいは、確実に入るようになってほしい。
頑張れ、頑張れ。
一人になった帰り道。なんとなく寂寞な気持ちをひきずりながら。でも、また明日になるのを楽しみにしながら……。
帰ったらすぐに寝てしまおう。宿題なんて、どうでもいいや。
今日は、そんな気分なんだから……。
――夏――
暑かった
だからこれは
熱さのせいだ
四月終盤の日曜日。久々に隆明とデートに行く約束を交わした。本当に久しぶりだ、もしかしたら、高校生になって初めてかもしれない。中学生の時はまあまあデートしてたんだけど。受験シーズン以外は、だけど。
服を買うのに付き合ってもらったり、選び合ったり。映画を見に行ったり。動物園とか水族館に行ってみたり。
大体いつも電車で二駅か三駅くらい先まで遊びに行っていた。近場にもない訳じゃないけど、どこもパっとしないんだよね。
ただ、中学生だったってこともあって、お小遣いもそんなになかったから、行った回数自体は少ないかもしれない。それでも、一緒にいるだけでよかったんだ。
今日、約束の日。近所の公園で待ち合わせ。高校生になったのだからもっと遠くに行こう、なんてことは思わなかった。それよりも、少しでも長く、隆明とお話したかった。
待ち合わせの時間十分前。隆明が公園のベンチに座っている私を見つける。
「もう来てたんだ。ごめん待たせちゃって」
「ううん。今来たとこ」
本当は、ずっと前から、一時間くらい前から待っていた。待ってみたかった。
「今日は、どこへ行こうか」
「今日はこの辺りをぶらぶらしよう? 隆明のお話が聞きたいな。テニスのこととか色々。高校生になってからあまり話せてないし」
「そっか、助かった。実はもうお小遣いほとんど使い切っちゃっててさ」
「そうなんだ。じゃあちょうどよかったんだね」
ベンチを立って歩き出す。公園の外周を。
ブランコがあって、砂場があって、滑り台がある。多分、いたって普通な公園だ。
「そう言えば、なんでテニスだったの? サッカーとか野球とか、バスケじゃなくて」
なんだっていいのなら、そのあたりの人気なスポーツだっていいはずだった。なんでテニスを選んだんだろう。気になっていたけど、今まで聞いたことがなかった。
「ああ、ええっと。なんていうか、さ。ほら、野球とかって団体でやるから、もしミスしちゃったらチーム全員分の思いとか全部の責任を負うことになるんじゃないかって思って」
「それで? テニスは違うの?」
「テニスはシングルとかあるし、多くてもダブルス、二人チームまでだから責任もそんなに負わなくていいんじゃないかなって」
なるほど。責任を負うのが怖いんだ。って……
「隆明、理由が卑屈なんだけど。ダメだよ」
「あはは。そうだよね、こんなんじゃ」
肩を下げて頼りなさげに笑う彼。何かに打ち込みたいって思いは、嘘じゃなかったんだろうけど、ちょっとカッコ悪い。でもそれが隆明らしいというかなんというか。
「で? 実際やってみてどうだったの?」
「うん。まず、ソフトテニスはダブルスの方が主流だった。ほとんどシングル戦やってないし、練習試合なんかもダブルスばっかりだよ」
「最初っからあてがはずれちゃったんだね」
「それに、二人でやるからって、責任が軽くなったりするわけじゃなかった。個人個人の責任がより重くなるだけだった」
「それで、弱音を吐きたくなったり?」
隆明は大きく首を振る。
「吐かない、あ、いや、吐きたくないって思った。動機はちょっと……いや、だいぶ情けないかもしれないけど」
拳を強く握って、
「今は、テニスすごく好きだし、頑張りたいって思ってる」
宣言した。
この前の部活の風景を思い出す。ラケットを強く握りしめて、サーブを打つ隆明。
「うん、知ってる。見てたらわかるよ」
でも、何度も何度も失敗して、悔しい顔をして。
そうだよ。悔しい顔なんて、本気で打ち込んでなきゃ、できない。
公園を過ぎて、住宅地を歩く。高校の生徒も住んでいるかもしれない。子供の遊ぶ声が聞こえる。羽ばたく小鳥の姿が見える。
交差点にさしかかる。信号は待たずに、設置されてある歩道橋を渡る。
その途中、
「自信が、ないんだ」
そう、言い出した。
「何の自信がないの?」
「テニスの」
「どうしてないの?」
「怖いんだ、部の戦力になれるかどうか。うまくなれるのかどうか」
歩道橋の真ん中。立ち止まる。行き交う車と人を眺めていると、ふと、思い出した。隆明がサーブ練習をしていた時のこと。私が何度も入れって念じた時のこと。ボールは、相手の指定の場所に入っているのに、隆明が苦い顔をしていた場面のことを。
「ねえ、この前部活の練習見てたんだけどね」
「うん」
「サーブ? の練習の時、時々ちゃんとボールが入ってるのに悔しそうにしてたと思うんだけど。あれってなんで?」
「うーん。そんなことあったかな」
隆明は、腕を組んで、目をつむって、真剣な表情で考える。
不謹慎かもしれないけど。私の言葉を、質問を、一生懸命考えてくれて、嬉しかった。
そんな姿を、ずっとでも、見つめていたかった。
でも、ずっとは続かない、小さくあっと呟いたかと思うと、隆明はその原因について話し始めた。
「それは多分、サーブの時、打ち終わる前に僕の足がコートを踏んじゃってた時だと思う」
「それだと、なんで悔しいの?」
「その時はフットフォルトって言って、ミスになっちゃうんだ。入らなかった時と同じだって判断されちゃうんだよ」
「そっか」
だから、悔しかったんだ。苦い顔になったんだ。
「でも、なんで踏んじゃうんだろうね」
今度は、考えなかった。答えはもう、わかっているみたいだった。
「多分だけど、僕は早くコートの中に入りたいんだと思う。だから、足が前に出ちゃうんだ」
なんだ、すごく前向きじゃないか。むしろ、前のめりになっているくらい。
「自信ないなんて嘘だよ」
「嘘じゃないよ」
「だって、ずっと前に行こうとしてる。強くなろうとしてる。自信なんてすぐについてくるよ」
「そう、なのかな?」
なんでそんなに疑うかな、この、私の、
「彼女の言葉なのに、そんなに信じられないの?」
えい! っとほっぺたをつねってやる。口答えなんてさせないように。
でも彼は、
「そうかな? 強くなれるかな?」
と、自信なさげに微笑んだ。
隆明は、強くなるために精一杯頑張っている。努力してるし、気持ちだって負けてない。
でも、全然自信がないって言う。何故だろう。本当に、隆明は頑張っているのに、強いのに。
――私のせい? そうか、そうなんだ。それしかない。隆明が悪くないんだったら、私のせいに決まっている。
応援するだけじゃ足りないんだ。見ているだけじゃ、支えるだけじゃ、伝わらないんだ。
でも、何をすればいいの?
わからない、わからないよ。
取り残された気分だった。
でも、取り残されたくない。
だから、もっと話がしたいと思った。もっと二人の時間を作りたいと思った。
――来週も、一緒に居たい。じゃあ……
「ねえ、来週なんだけど、空いてる、かな?」
そう、切り出したのとほとんど同時だったかもしれない。
「よし、決めた!」
隆明も、
「来週の先輩たちのインターハイの予選、見学しに行ってくる」
何かの、決心を固めたみたいだった。
「あ、ごめん。だから、来週は……」
「ううん大丈夫。行ってらっしゃい!」
何故だろう、一緒に行ってもいい? と言えなかった。ためらってしまった。
「うん。行ってくる!」
別れ際に、笑顔を残して行ってしまった。
ずるい。
そんなに力強い笑顔を向けられたら、何も言えなくなっちゃったよ。
ずるい、ずるい。
私は、応援するだけ、そう決めたから。
それが、役目だから。
翌週。五月の初めの週末。隆明はソフトテニス部のインターハイの予選を見学に行った。
前進しているんだ、彼なりに少しずつ、でも確実に。そのぶん、遠くに行っているようで、距離が離れていくようで、寂しさも感じていた。
……本気なんだ。そう思った。
誇らしかった。変わって行く彼を見るのが。
同時にやっぱり寂しい。
そして、何故だろう。焦燥感が湧いてくる。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
そんなインターハイ予選も無事に終わった翌週、月曜日の放課後、教室に残って窓の外の景色を眺めるともなしに眺めていたところに、誰かが肩をたたいて、声をかけてきた。
「……。あ、えっと、ちょっと考え事してただけ」
清水さんだった。人懐っこい柔らかな笑顔を浮かべているけど、声音はほんとに私を心配してくれているような響きだった。
「遠藤君のこと?」
ドキリ。図星だ。どうしてわかったのだろう。
「顔に書いてあるよ、遠藤君どうしてるかな? って」
そんなにわかりやすかったかな?
「そんな感じ。どうしてわかったの?」
「なんとなく、勘でね。大丈夫だよ、遠藤君は。強くなるよ」
違うんだ。そういう心配事をしていたっていう訳じゃないんだ。ただ……。
でも、そんなことは言えなかったし、言わなかった。うまく言葉にできない気がしたし、清水さんには関係のない話だから。
何も言わないでいる私に、彼女はまた笑顔を向けて話しかけてくる。
ああ……。作り笑いじゃないんだ。根拠はない、勘だった。本気なんだ。彼女は本気で心配して、本気で笑いかけている。
隆明と、同じだ……。そう感じた。
「だから、桜が支えてあげて」
言われるまでもなく、そうしようと決めていたんだ、応援しようと……。でも不安だったのは、私自身、自信がなかったから? それとも……
「私もマネージャーだし、頑張ってるんだけどさ。遠藤君ああ見えて結構ノロケるんだよ。桜さんにかっこ悪いとこみせられないからって言っててさ」
「え? ええと……」
思わず、にやけてしまう。嬉しかった。彼が、隆明が私のために頑張ってくれている。
「ほら、にやけた。かわいいんだから。遠藤君もいい子を選んだものだよ」
かっこいい隆明が見たい。きっと、隆明はもっともっとかっこよくなっていく。
でも、弱さも見せてほしかった。だって、弱いところは二人で直していくんだ。二人だけの秘密なんだ。私だけに……。
その時、ゾクリと悪寒が背中を駆け抜けた――ような気がした。
「そのうち、桜さんをインターハイに連れて行くから、なんてこと言い出すかもしれないよ?」
「そうかな?」
そうなったら私は嬉しいのだろうか。
私ばかりがうじうじ悩んでいる。かっこわるい。隆明は、既に本気で打ち込んでいるのに。どんどんかっこよくなっていく。進めと、頑張れと願うだけの私とは違う。
なんだ、ちゃんと強くなってるじゃないか。この調子で、自信も付けていくはずだ。
「そうだよ。だから支えてあげて、まずは夏の新人戦ね」
「それに隆明が出るの?」
「うん。きっと出る。だから応援よろしくね」
本当にそうなら、どれだけ嬉しいことだろう。その時、私はちゃんと支えてあげられるだろうか。
ううん。ちゃんと、しっかり、支えなきゃいけないんだ。
「もちろん。言われなくたって応援するよ」
「さすが桜。彼女っていうのは心強いよね」
彼女はうんうんと芝居がかったようなうなずき方をする。
「そんなことないってば。それより、部活は大丈夫なの清水さん?」
「大丈夫だよ、ありがとね。あと、綾でいいよ。私も桜って呼んでるんだから」
「そっか。なんか、引き止めちゃってごめんね、綾」
「私が話したかっただけだから、謝ることないよ。それじゃ、部活行ってくるね」
ゆっくりと教室から出ていく彼女を見送った。
私は、まだ動かない。
綾はなんでこんな話を私にしたのだろう。
どうして新人戦に行くのだと、断言できるのだろう。
どうして私は、その言葉を信じてしまっているのだろう。
綾が、テニスに詳しいから。
そうだ、きっとそうなんだ。
考えない。考えない。堂々巡りをするだけ。空回りをするだけ。
鞄を持って、足を動かして、教室を出て、校舎を出よう。
家に帰って寝てしまえば、全部忘れてしまえるんだ。起きたらまた、隆明と会えるよ。
不安なんてない。焦りなんてない。だってそうでしょ? 私と隆明なんだから。二人の事は、二人が一番知っているんだから。
だから、家に帰った。帰宅している間は、不思議と胸はすっきりしていた。考え事もすることはなかった。
でも、帰ってから、色々な思いが湧いた。
どうして、隆明は綾にあんなことを言ったのだろう。
私の知らない隆明の姿なんて、想像したくなかった。
だけど、フェンスの中には入らないと決めたのは、私だった。怖がったのは私だった。
隆明に、おかえり、どうだった? の一言も言えなかった。
またいつでも言う機会はあるよね? そう思って、この日はゆっくり布団の中で目を閉じた。
翌日。いつもより朝早く起きてしまった。朝食も早めに済ませて、お昼の弁当も、自分で作ってしまった。
そういえば、隆明はいつもどこで何を食べているのだろう。時々お昼休みは教室を出てどこかへ行ってしまう。他のクラスの教室へ行っているのだろうか。それとも、食堂へ行っているのだろうか。
……知りたい。知っておきたい。いつも気にしなかったことなのに、なんとなく気になった。
じゃあ、知ってしまえばいい。今日のお昼休みは、隆明のところへ行ってみよう。
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。黒板に何か書いていた教師がチョークを置き、礼をし、退室する。――お昼休みになった。
隆明はどこに行くだろう……と、見つけた。今にも教室を出ようとしているところだった。見失ってしまう前に、私も行かないと。
「おでかけ? モッチー」
恵美に呼び止められた。でも、今日は一緒にお昼を摂るわけにはいかなかった。
「ごめんね恵美、涼子。今日は用事があるの。二人だけで食べてて」
はやる気持ちを抑えながら、なんとかそれだけ言うことは出来た。
「そうなんだ。だったら仕方ないよ。行ってらっしゃい」
涼子と恵美に断りを入れて、私も教室を出る。隆明は食堂のある方へ向かっているようだった。
隆明は、そのまま食堂へ向かうと思っていたのだけど、どうやら違ったようで、その途中にある中庭で足を止めた。中庭にはベンチがいくつかあって、一応昼食も食べられるみたいだけど、人気が無いらしく人の気配は感じられなかった。
隆明は、ラケットケースからラケットを取り出して素振りをし始めた。右手でしっかりと握りしめ、腕を肩の上辺りまで上げ、ラケットの面が地面と垂直になるまで降ろし、腰の周りを一周するように振りぬき、左肩まで腕を持って行き、右手首をくるりと内側にひねり、勢いを殺す。
こんな所でも、お昼休みでさえテニスなのかと、感心するけど呆れもする。ただ、その姿は部活中の隆明と同じように、私を見惚れさせた。
そのフォームが綺麗かどうか私にはわからない。でも、一回一回を丁寧にしていることが、大事にしていることが私にも伝わってきた。
見ていてもいいけど、隆明がお昼ご飯を忘れていること、私もまだ食べていないことを思い出す。今日くらい、一緒に食べてもいいよね。
「隆明、いつもここで練習してるの?」
今日だけと言わず、いつだって。
「ああ、桜……さん。うん少しでも練習しておきたくて」
素振りをやめて私の方を見てくれる。でも、まださん付けが抜けてない。だから、ちょっとお仕置き。
「えい」
鼻をつまんでやる。
「いふぁいひゃめろー」
こもった声で要求してくるけど、やめてあげない。
「桜って呼び捨てがいいって言ってるでしょー。ていっ」
強く握りながら放す。
「だからって鼻つままないでも――」
口答えをするので今度は耳をつねってあげました。
「とりあえず、お昼ごはん食べよ」
「――――」
耳元でそう呟いてあげると、言い訳も何もせずに、顔も耳も真っ赤にしてベンチに座った。
「――ふう」
「もう付き合って半年とちょっとなんだから、そんなに照れなくってもいいじゃない」
人のことは言えないけれど。今は棚に上げておく。照れている姿もかわいいから、別に問題はないが。
「あ、そうだ。今日昼ご飯持ってきてなかったんだ、どうしよう。食堂はもう混んでるし。購買はまだ空いてるかな?」
言いながら立ち上がる。ちょっと待っててと言われたから、待つことにする。もう昼休みも半分終わっている。購買にまだ昼ごはんになるものが残っているだろうか、心配です。
しばらくして、彼は戻ってきた。片手にレジ袋を提げている。よかった。まだ残っていたみたいだ。中身はサンドイッチに、おにぎりに、エトセトラ。十分な量あるように見える。
「足りない。でも手持ちも足りない。世知辛い」
結構な量に見えるけど、それでも足りないんだ。そっか、部活してるもんね。いっぱい食べてスタミナなりなんなりつけないとやっていけないよね。あと、栄養偏ってる。
「じゃあ、私のお弁当少し分けてあげるよ」
それでも足りないかもしれない、でもないよりはましになるかな? 炭水化物ばかりじゃなくて、野菜とかも摂取しなきゃだし。
「いや、そんなの悪いよ」
「いいの。彼女の善意はありがたく受け取っておくものなの。それでも足りなかったら、放課後にでもまた購買に寄ればいいんだし」
「もう、お財布が、冬の到来を告げていて……」
まだ五月の初めなのに? どうしてそんなに切羽詰ってるの? と視線だけで疑問を投げかけてみたら、案外気づいた、というか、まあ当然の疑問に当然のように答えたって言うのが正しいのかな。
「ラケットと、シューズ買ったらなくなった」
なんだか調子のいいリズムで答えてくれました。
「買ってあげるよ?」
「いや、それは。さすがに情けなさ過ぎるよ」
「私、こう見えて尽くすタイプなんだよ。隆明は私に尽くされてればいいの。それが幸せの方程式。ウィンウィンの関係」
「あはは。ありがと。ウィンウィンってなに?」
質問したにもかかわらず、袋を破ってパンをほおばり始めた。答えは求めていないらしい。私もよく知らないし。
深く考えずに隆明にお弁当食べていいよ、あげるよって言ったけど、お箸は一つしかないわけで。
……。
…………。
別に問題なんて、ない。
隆明がパンを食べ終わった隙を狙って話しかける。
「隆明、口開けて」
「へ?」
油断した隙に、隆明の口の中へ卵焼きをつっこむ。今日作った中で一番うまくできたものだった。
「どう?」
「どうもこうも、いきなりで味わう余裕な――」
また隙が見えたので、今度はウィンナーをつっこむ。ちなみに、おいしい以外の感想は受け付けていません。
「で、どう?」
「――うん。とてもおいしいです」
ちゃんと口の中のものを食べてしまってから感想を言ってくれた。お行儀のよさがうかがえます。
次は私もと、白いご飯をおはしでつまんで食べる。
そこで、言っておきたいことがあるのを思い出した。
「隆明」
「うん、なに?」
「お帰り」
「え?」
何を言われたか本当にわからない風にきょとんとしている。
「インターハイ予選の見学行ってきたんでしょ? だから、お疲れ様」
「ああ、うん。大したことないのにそんなこと。ただいま」
「先輩たちの試合はどうだったの?」
「すごかった!」
語る声は、興奮気味に震えていた。
「サーブは力強いし。力強いだけじゃなくてコントロールとか技術とかもすごくて。ああ、いいコースに、際どいところに、でも確実に入れてて、しかもスピンをかけて揺さぶってるって意味で」
わかんない。
「打ち合いもすごかった。こんな球取れるわけないって思うくらいのやつでも何とか追いついてさ、追いついた上で相手にとって打ちにくい場所を見つけて打ち返してさ」
わかんない。
まったくわからなかった。でも、隆明がやっぱりテニスに本気なんだなってこと、好きなんだってことは、わかった。
「そっか、すごいんだね」
「うん。すごいんだ」
「だから――」
以前の隆明なら、こんなことは言えなかっただろう。もう弱気じゃない、たくましくなった彼がここにいる。
「僕も、はやく先輩のようなテニスがしたい」
隆明に、できるだろうか。隆明は本気なんだ、だから、てきとうなことを言って期待させてはいけない。
でも、私は、言うんだ。
「できるよ。隆明なら」
そう言ったのは、私よりテニスに詳しい綾が言ったから? その綾の言葉を信じたから?
「できるかな、僕に」
ううん違う。信じたんじゃない。信じたかったんだ。隆明なら強くなれると、いつかインターハイに行けると。私自身が、彼に期待したんだ。
「やってみせてよ、隆明」
隆明がまたふと弱気になったりしたら、何度でも言ってあげる。あなたは強いよって。そして、
「月並みな言葉かもしれないけど、言うね。私をインターハイに連れて行ってよ」
「……うん。行きたいな、インターハイ」
呪いをかけてあげる。責任を背負わせてあげる。それが後押しになると信じて。期待して。
「約束ね」
小指を彼の前に差し出してあげる。
「……約束は、ちょっと無理かな」
卵焼きを開いた口に突っ込んだ。
隆明と話していると、落ち着く。焦っていた気持ちも、変な感情も全部どこかへいってしまう。
だから、できるだけ隣に居たい。一緒に、離れずに。そう、強く思う。
「そろそろ昼休み終わるし、戻ろうか」
立ち上がって歩き出す隆明。私もそれに続く。
ずっとこんな感じだったらいいな。それが一番なんだ。
翌日も中庭に行くのかと思ったから、そのために、お弁当を多めに作ってきた。育ちざかりなんだからとかなんでもいいから理由をつけて食べてもらおう。別に中庭に行かなくても食べてもらおう。せっかく作ったんだから。
その日の昼休みも、隆明は教室をすぐに出て行った。今日はお昼ご飯を忘れずに持ってきていたみたいで、弁当箱らしきものや、パン等を持って行った。
私も、行かないと……。
お弁当箱を持って立ち上がる。
「今日も彼氏のところ、モッチー?」
恵美が尋ねる。どうやら、ばれていたらしい。涼子はともかく、恵美にばれているとは思わなかったな。
「うん」
「いやー、アッチッチーなんだねー」
「恵美ちゃん、小学生男子じゃないんだから……。あ、桜ちゃん行ってらっしゃい。また今度一緒にお話ししようね」
「うん。また今度!」
アッチッチーにはつっこまないでゆっくりと教室を出る。
気分が弾んでいた。本当は、休み時間も出来るだけ一緒に居たい、話したい。
でも、迷惑になるかもしれないって、ちょっとだけ遠慮している。
だから、昼休みぐらいは……。二人きりで……。
と、思っていた。でも、今日は先客がいた。
「毎日ここで素振りしてるの? 遠藤君」
綾、だ。どうしてここにいるのだろう。
「毎日ってわけじゃないけど、結構やると思う」
いや、どうしてここにいるのか、そんなことはどうだっていいんだ。それより、
「練習もいいけど、お昼ご飯は食べたのかな? スタミナつけとかないと、大事な時にばてちゃうよ」
どうして、私は出て行って話しかけなかったの? 何をためらったの?
「ああ、うん。パンと、弁当くらいだけど、持ってきてあるんだ」
陰に隠れて、こっそりと聞く。ただ、聞く。聞き逃さないように。そして、ちょっとだけ、覗き見る。
「そっか。ちゃんとしているようでなにより。それより、素振り見てあげるよ」
隆明はありがとうと言い、右手にラケットを持ち、昨日のように素振りを始めた。
「右手持ちなんだから軸足は右。腕だけ動かさない。体重移動をしっかり意識する! 腰を捻って。左手がお留守だよ、ちゃんと構えて。打点は腰の高さ、ボールを打つ位置は左足より前、振りぬいて! なんてね。流石に一か月も経ってるし、何も言わなくても満点に近いフォームだね」
「まだまだだよ。確認しながらなら出来るけど、実際の試合になったら、動きながら、走りながらなんだから」
「謙遜しちゃって。まあいいけど。そうだ、八月の新人戦、出るよね?」
隆明は素振りをやめた。綾の目を見て、拳を握りしめた。
「……出たい。行きたい。そんでもって、勝ちたい」
低いトーンで、でもはっきりと、そう言うのが聞こえた。
「彼女さんのため?」
一瞬だけピクっとぎこちなく震えた。
「うん。それもあるけど、やっぱり自分自身が強くなって勝ちたいって思うんだ」
「顔赤くしながらかっこつけても、かっこ付かないよ。でもそっか。じゃあ大変だね。周りは経験者が多いし、練習できる期間もあまり長くないし、桜にかっこ悪いところは見せられないものね」
「だから、空いた時間はいつもテニスの練習をしてるんだ。夜寝る前だって、イメージトレーニングとかもしてるし」
そんなに、練習してるんだ。すごく頑張っていることは知っていた。いつも頑張ってることは聞いていた。それでも、全然知らないことがあった。想像を超えていた。
でも、私のためだって言ってた。嬉しい。でもここまでの話、私にしてくれなかった。また気持ちがごちゃ混ぜになる。最近いつもそうだ。隆明のことを考えると、嬉しくなる自分がいて、嫌になる自分がいる。
「桜を幻滅させないようにね! それじゃ、私はこの辺で。練習頑張ってね、マネージャーとして、ソフトテニス部の一人として期待してるから」
すたすた、と足音が聞こえる。教室へ戻るのかな? 足音が近づいている気がする。
――戻らなきゃ。中庭を見るのをやめて、耳を澄ますのもやめて、踵を返して一目散に、逃げるように教室へ入り込む。
自分の席へ座る。恵美と涼子がまだお昼ご飯を食べている最中で、おしゃべりをしていた。
「もういいの? モッチー」
「うん。いいの」
そういえば、私もお昼ご飯をまだ食べていなかった。包みを開けて弁当箱をとりだして、ふたを開ける。
「いただきます」
隆明に食べてもらうことが前提だった。手作りだったら喜んでくれると思っていた。でも、食べてもらえなかった。話しかけることができなかった。だから、私が食べるには、量が多い弁当だった。
「桜ちゃん、いままでそんなに食べてたっけ?」
涼子が珍しそうに覗き込む。
「ううん。昨日の残り物が余ってたからつめてみたら、多くなっちゃって。失敗しちゃった」
「余ってるんなら、ちょっとわけてくれない? 運動してるとお腹空いちゃってさ、いつも足りないんだよ」
恵美も弁当箱を覗き込んでは、物欲しそうにこちらを見る。
「うん。いいよ」
特に断る理由もないし、自分だけでは食べきることができないのであげることにした。
ただ、気持ちだけは煮え切れないでいた。悶々と何かがたまっていく。このお弁当は、今食べたのは、隆明のだったのに……。
「どしたのモッチー。悩み事? やっぱりこれ食べたかったとか」
「ううん。なんでもない」
何をやっている。どうして話しかけなかった。何を遠慮したんだ。答えは出ない。そもそもない。
放課後。部活を見に行くのはこれで二度目だ。フェンスの外から部活を見る。隆明の姿を探す。
ふと、見たくなったんだ。どんなふうに頑張っているのか、もう一度知りたくなったんだ。
ボールを打ち合っている隆明を見つける。この前来た時とは雰囲気が違う気がした。練習内容はよくわからないけど。ピリピリとした空気が伝わってくる。
何故だろう、見ているだけで安心できるのは。でも、話しかけられない時があるのは何故だろう。
考えてはいけない。私が考えても、堂々巡りになるだけだから。
何も気にしなくていい。だって隆明は私の彼氏で、私は隆明の彼女だ。だから。
だから、今日は、見ているだけ。いつも、見ているだけ。その代り、ずっと見守り続けるんだ。出来るだけ近くで。
――でも、それは叶わないと知った。
五月半ばの休日。メールを受信した。隆明からだとすぐにわかった。着信音を隆明のだけ特別なものにしてあるから。
隆明の方からメールをしてくれるなんてことは今までほとんどなかったから、驚いた。それと同時に、嬉しくて、ドキドキして、胸が弾んだ。
携帯を操作し、メールの内容を確認する。大事な話があるから会って話がしたいという内容だった。
上気するのがわかる。嬉しいなんて言葉じゃ足りない。こんなの、初めてだ。隆明の方から会いたがってくれる。幸せだ。これ以上ないってくらい幸せだ。
もちろん、いいよって返信した。隆明は、どんな話をしてくれるんだろう。
――期待はしないほうがよかったのかもしれない。
隆明が会おうって言った日、その日は私にとっては学校が休みだし、何も無い日だったけど、隆明にとってはソフトテニスの部活がある日だった。
なんでそんな日を指定したんだろう。それじゃ、会えないよ。
でも、指定された場所は学校だった。時間は昼ごろだって。完全に隆明は部活真っ最中だ。間違えたのかな。
それでも、何かあるのかもしれないと思い直し、校門の中へ足を踏み入れる。陸上部が走っている足音。サッカー部のボールを蹴っている音。そんな音が聞こえる。やっぱり、部活の日だ。
テニスコートへと行ってみよう。他の部活の邪魔にならないように、前と同じく隅っこの方から回り込んで。
テニスコートを囲っているフェンスの前。また、ここまで来た。もうやけだ、と隆明の姿を探す。そして、すぐに見つけた。手前のコートで練習しているのが隆明だ。隆明のいるコートの中には、もう一人誰かがいる。
「ワンゼロ!」
ネットの隣にある背の高い椅子……多分審判台に座っている人が突然叫ぶ。そういえば、いつもの練習と雰囲気が違う。隆明もそれ以外の人も、練習の時より表情が硬いし、ボールを追う姿が必死に見えた。そっか、これが試合なんだ。
点を取ったのは多分隆明のチームだろう。ボールを打ち返せなかったのは、隆明とは反対側にいるチームだったから。
……私まで、緊張してきた。拳を握りしめ、目を見開く。頬を汗が伝う。……ことはないけど、ぴりぴりした空気が伝わってくる。
――勝ってほしい。
たとえ練習試合だったとしても、だ。インターハイに行くんだったら、こんなところで負けてなんていられないよ。
だけど、決して祈らない。だって勝ってくれるから。私がそう信じないと、だめだから。
「あ、桜。来てたんだね」
「えっ?」
突然の声に驚いて変な声を出してしまった。聞かれてないよね。大丈夫だよね。
「今、新人戦にどのチームが行くか、決めてるんだ。桜、応援してあげて」
綾だった。
「今日は、隆明に呼ばれて、それで」
「へえ。遠藤君も時には大胆なことするんだねえ。本当は駄目なんだけど特別。中に入って応援してあげて」
いいのかな? マネージャーにそんな権力とか、あるのかな。
「私も個人的には応援してあげたいけどね、桜の彼氏だし。でも、マネージャーだから公平に公正に、だからね」
隅の方にある扉を開けて、ソフトテニス部の領域へ入り込む。ためらいが無かったわけじゃない、怖くなかったわけじゃない。でも、隆明が本気で試合をする姿をもっと間近で見ておきたかった。
「応援って言っても、今日は静かに観戦ってことで大丈夫?」
うなずく。元々、大声を出して応援するつもりなんてなかった。
「アドバンテージサーバー!」
「次、遠藤君がサーブ打つみたいだよ」
審判のコールに反応して綾が教えてくれる。アドバンテージだから、サーブ側が有利なのかな。
今隆明はコート左の外側に、コートの左下にいる。ボールを頭上に投げて、ラケットを上から下に振り下ろす。この前は足が打つ前にコート内に入っていたり、指定された領域内に入っていなかったりしたけど、今日は……。
打たれたボールは、思った以上に速いスピードで、相手コートに入り、バウンドする。
返す側の相手は、ボールを追いかけるが、予想外のコースだったのか、予想外の早さだったのか、追い切れていないみたいだった。そして、何とか追いつき、以前隆明が素振りしていたフォームとはほぼ逆の打ち方――バックというらしい、で打ち返すものの、威力が足りなかったのか、狙いが甘かったのか、ボールはネットに当たり、自分のコートへ落ちてしまう。
「すごい、サービスエースだ。まだ始めて間もないのに」
綾が隣で驚いている。どうすごいのか、私にはわからない。でも、点をとったんだなっていうことはわかった。
やっぱり、かっこいい。始めたばかりのスポーツなのに、他の人に勝てるんだ。
「ゲームオーバー、ゲームセット。ゲームカウントスリーワン。勝者、加藤、遠藤ペア」
審判が審判台から降りてきて、コートの真ん中まで歩き、それに続いて、隆明のチームも、相手側のチームもネットを挟んでだけど真ん中の方へ寄って行く。
「ありがとうございました!」
両チーム頭を下げる。礼儀マナーというものだろう。終わると、コートの外へはけて、それぞれ休憩に移って行った。
「さて、アドバイスとか報告とか色々あるから私は行くね。少しの間遠藤君と話してたらいいと思うよ」
そう言うなり、綾はどこかへ去ってしまった。
「桜、さ……。来てくれたんだね」
さん付けしそうになったから、手を少し上げて攻撃するよって合図を出したら、中途半端なところで切れた。
「うん。隆明が呼んでくれたんだから、そりゃ来るよ。大事な話があるとも書いてたし」
正直、部活してるところに呼ばれるとは思わなかったけど。
「そうだった。でも、そんなに大事でもないかもしれないけど」
「どっちなの」
「うん……」
うんじゃわからないんだけど……。隆明は、ゆっくり息を吸い込み、ゆっくり吐き出すように話し始めた。
「これから、休みの日はずっと部活になると思う。だから、全然会えなくなったりすると思う。大事かそうじゃないかわからないって言ったのは、その、自意識過剰かなって思ったからで、その……」
そんなの、聞いてない。
「毎週多分、今日みたいに試合をすると思う。今、試合で何回勝ったか、負けたか、記録してるんだ。一年生を中心に。その勝数で、八月の新人戦に出れるかどうか、どんな順番か、とか、ペアの組み合わせとかまで決めるみたいだから」
歯切れが悪い。だから、なんだっていうのだろう。会えなくなることなんてないよ。私が今日みたいにここに来ればいいんだし、それに、
「それでも、少しは時間空いたりするよね?」
毎日毎日なんて、体が持たないよ。
「……ごめん。少しでも時間が空いたら、その時間はテニスに使いたんだ」
……どうして? どうしてそこまで……。
「インターハイに連れて行ってほしいって言ってたよね。僕も、行きたい。いつかは行きたい、出たい。勝ちたい! だからそのために、少しでも練習したいし、八月の新人戦も、今やってる部員同士での試合も、負けたくないんだ」
確かに、確かにそう言った。だからって、だからって!
そうだ、言ってやろう。そんなこと理由にならない。私を理由になんて……。
それに、それって、遠回しに私を拒絶しているようにも聞こえる。嫌い、なの?
隆明は、私の事がもう嫌になったの? 違う! そんなこと、隆明は絶対に絶っっっ対に思わない! じゃあなんで、なんでなんでなんで? 理由があるはず、何か理由があるはずなんだ。でも、そんなこと……。
認められないよ、こんなの。私より、テニスの方が……。
「私、は……っ!」
言えない。言えるわけがないよ。隆明は、正しいんだから。インターハイなんだ、すごく大きな大会なんだ。初心者が遊んでるだけでいけるような場所じゃないんだ。人の二倍も三倍も練習しても、それでも足りないかもしれないんだ。
それに、私の言葉を、本気にしてくれている。私が、私の言葉が隆明の理由になっている。心臓が跳ねるほどに嬉しいことだ。
「絶対にインターハイに行くから、勝つから、だから待っててほしい。桜」
さん付けではなかった。今度こそ、名前を呼び捨てにしてくれた。そうまでされたら、仕方ないよ。
「……うん! じゃあ、改めて約束」
全部私が言ったこと、思ったこと。強くなってほしいと、インターハイに連れて行ってほしいと、願ったのは私。
でも、今日からは、
「うん。今度こそ、約束する」
二人の願いだ。
きっとどんどん強くなっていくだろう。それを見守っていきたい。インターハイに行けるかどうか、応援していきたい。
私も、隆明の言葉に従おう。――待っててほしい。そう言ったんだ。私は、待ってる。隆明を応援しながら、インターハイに行ける日を。
「じゃあ、次の試合があるから」
そう言って、隆明は離れていった。
代わりに、と言うわけではないけど、綾がまたやってきた。
「遠藤君とお話しできた?」
「うん」
「そっかそっか。よかった」
嬉しそうににっこりと笑う。なんで綾が喜ぶ必要があるんだろう。
「なんか思いつめてる様子だったから、どうしたものかと思っててね。桜と話せば吹っ切れるんじゃないかって」
なんでそんなことが綾にわかるの? 勘違いかもしれないのに。でも、それも、マネージャーだから、だよね?
「ねえ桜、テニス部のマネージャー……やってみない?」
「え?」
ふいに聞こえた言葉に、
「そしたら、いつでも遠藤君と会えると思うけど」
なぜ今まで思いつきもしなかったのだろうと言うおどろきと、
「どうかな?」
絶対にできないだろうという確信が、頭の中にも胸の中にも、全身を巡った。
「私、向いてないと思う。絶対、隆明ばかりひいきするし、それに――」
無意識に感じていた、綾への気持ち。ようやくわかった、と思う。
「こんなに優秀なマネージャーがいるんだから、大丈夫だよ」
――劣等感。隆明に対しての気持ちは絶対に私が一番だ。でも、テニスに対しては、テニスをする隆明についてより分かっているのは――
「待っててって言われたから。私、待ってるよ」
――綾、だった。認めなくちゃ、いけない。隆明も、強くなるために、必死に練習しているんだ。私も、前へ、進まなくちゃ……。
「そっか。桜がそう言うのなら、仕方ないね」
――だから、
「隆明のこと、よろしくね、綾。新人戦、絶対勝ち残らせて」
泣きたい気持ちを抑えて、託すんだ。預けるんだ。それが、きっと正しいんだから。
「うん。まかされた。でも、時には会いに来たっていいんだからね」
辛い、寂しい、泣きたくなる、苦しくなる。そんな気持ちを飲み込んで、まずは、新人戦まで待ってみよう。
でもそれは、待つということは、地獄の始まりだった――
――秋――
好きです、付き合ってください。
私はそう言った、彼は受け容れた。
それが運命だと思った、受け容れてくれた。
そうなるのが私だった。そんな私を好きなのが彼なんだ。当然だ。
受け容れてくれたから。受け容れるってそういう意味だから。
だからありえないんだ。
突き放された。離された。どうして?
わかんない、わかんないよ!
受け容れてくれたじゃない、私を、あなたは
あなたは、私を……
好きだと……
わかんないよ……
待っててくれ、そう言われてからもう一か月。あれから、本当に会話が減った。時々挨拶をしてくれるくらい。部活を見学に行ったりするけど、その時は、ずっと部活に集中していて、話しかけられない。
帰る時は一緒に帰ってくれる。でも、話題はテニスのことだけ。でも、仕方ないんだ、それだけ熱心にやりたいこと、目標ができて、そのためには時間を削っても削っても足りないんだから。
隆明が決めたことに口をはさむのはよくない。私の思いだけを隆明にぶつけるわけにはいかない。
――悲劇のヒロインでいたいだけ。
六月もすぐに通り過ぎて行った。一日が過ぎて、一日が過ぎて、一日が過ぎた。
隆明のいない私って、こんなに空虚だったのかと思うくらい、
待ってみるって決めたのは私。隆明だってそれを期待してくれている。私だって隆明を幻滅させたくない。待っていたら喜んでくれる、笑ってくれる。
そう、だから、待って、待って、待って待って待って待って、待つんだ。きっとそれは報われる。絶対、そう決まってる。
――いい子で痛いだけ。
雨が降ってじめじめとする。そうか、もう梅雨なんだ。
梅雨になって、雨が降る日が増えるから、隆明の部活も中止になって会う機会が増えるんじゃないかと思ったら、そういうことなんて全然なくて、むしろ逆だった。
雨の日は、どこか違う練習場へ行っているらしかった。
そんなことくらい、教えてくれればいいのに……。なんて思ってはいけない。
「モッチー、どうしたの? 悩み事?」
急に、話しかけられても。
「辛そうな顔してるから、気になって」
「そっか、ありがと」
「別に、辛くなんてないよ?」
私は、いつも通りだ。つらそうに見えたのなら、それは、私のせいじゃない。恵美が、そう思っているだけ。
「私でよかったら、いつでも相談に乗るからね」
「うん、ありがと。大丈夫」
何に気を使っているのか知らないけど、私は本当になんともないんだけどな。
「やっぱり、遠藤じゃモッチーとは釣り合わないんじゃないの?」
「――っ」
ほっといて! あなたに何がわかるの? うるさい。黙って。幾つもの言葉が逡巡して、結局何も音にならなかった。
きっと、恵美だって悪気があって言った訳じゃない。何かを知ってて言った訳でもない。ただ、何気なくそんな言葉が出てきてしまったっていうだけなんだろう。
――そこまで気にしているのなら、もう……
突き放されたということは事実上のお別れ宣言じゃないのか。でも、そんなことを隆明がするわけがない。
でも、だからと言って。
私だって、隆明の何を知っているのだろう。
知りたいのは、全部だけど。
七月も半ば。段々熱くなり始めてきた。部活の時間も長くなっていった。そんな日の放課後。
「桜」
部活が始まる前に、隆明の方から話しかけてきた。
「ようやく名前で呼んでくれるようになったね。それで、どうしたの?」
「ちょっとだけ報告が遅くなったんだけど。新人戦の試合に出られることになったんだ。それを伝えておこうと思って」
「そっか」
その報告を聞いただけで、自然とにやけてしまいそうだった。よかった。自分の事のように嬉しい。
「すごいよ隆明! あ、いや。ううん、やっぱりすごくない。いままで頑張ってきたのがようやく形になっただけだもんね」
そうだ、ずっと頑張って来たんだ。それが報われたっていうだけ。
「ありがとう」
「新人戦、見に行くからね。だから、勝ってね!」
「……勝ちたい」
隆明が強気でいてくれることが、心強かった。隆明なら、勝てるよ。
ちょっと報告に話に来てくれただけ。そんなちょっとしたことでも舞い上がってしまう自分がいた。そもそも、一緒にいられるだけで、すごく幸せだったんだ。そのはずだったんだ。でも今は、もっと一緒にいたいと、欲が出てしまう。だめだ、だめなんだ。欲張りな子なんて嫌われてしまう。もっと、隆明に合わせてあげて、隆明の言うことを聞いてあげた方が好かれるに決まってる。だから、ずっと、ずっと待ったんだ。
――それじゃ、結局打算で動いてる卑しい女の子じゃないか。
違う、そんな理由じゃない。自分に言い聞かせる。隆明のお願いをきいたのは、その方が隆明がテニスに集中できると思ったから。
好かれるために計算でやったんじゃない。離れていた時に感じた寂しさも嘘じゃないけど。計算ずくな上にそのせいで辛くなるなんて、そんな自分勝手な人間じゃない、私は。
そう、思い込ませる。
「さ、くら?」
「なんでもない。それより、名前を分けて呼ばないで。続けて呼んでほしいな。リピートアフターミー、さくら」
「さく、ら」
「ノーー」
こんなくだらないやり取りをするのも、いつぶりだろう。
こんな何でもない時間こそ、大好きな時間だった。
ちょっと報告が遅くなったと隆明が言っていたように。実は事前に私は知っていたんだ。七月の初め頃、綾から既に聞いていた。
本人からちゃんと報告を受けた方が、やっぱり嬉しかった。
――思ったことは、それだけ?
これ以上は、考えないようにした。
ちょっと忘れてただけなんだ。練習が忙しかっただけなんだ。きっと、絶対。
八月初頭。気温の高くなる夏らしく炎天下にさらされている。ソフトテニスの新人戦の日だというのに。
会場はなんとか公園とかいうところで、思っていたより広かった。暑い中開会式をやり、最初はどことどこの試合だ、というアナウンスが流れた。隆明たちも、最初から試合だ。
公園の外周りを走っている人もいる。試合をしない、応援で来た人たちだろうか。この暑い中、よく走るなあと感心する。さすが、鍛えてきた人たちだね。
初戦が始まるのはまだ三十分も後だ、隆明はどこにいるのだろう、と、隆明を探す。
隆明は、部の皆と一緒にいた。ミーティングやら、叱咤激励やらしているらしい。今行っても邪魔になるだけだ、少し待っていよう。
十分くらい経ったところで、皆動き出した。隆明も、ラケットケースを持って歩き出している。私も、行こう。
「隆明」
呼びかけると、
「やあ、桜。来てくれたんだね」
「誰? こいつ」
隣を歩いていた、同じユニフォームを着ている男子も振り返った。
「柏さんだよ」
「それで?」
「それだけ」
「は?」
紹介が簡潔すぎやしませんか彼氏さん……。
「彼女なんですけど。頑張れって応援しに来たんですけど」
「うん。ありがとう」
感想まで、簡潔だ。
「彼女とか……。まあいい、ゲーム始まったらちゃんと集中しろよ」
「わかってるさ。桜、応援ありがとう。きっと、勝ってくる」
簡単な、簡素な会話だったけど、十分だ。きっと勝ってくれる。そして、勝ってほしい。
隆明と、多分隆明のテニスのペアであろう人について、コートの前へ。フェンスの中へ入ってベンチで、傍で応援することはできないけど。出来るだけ近くで観戦して、応援しよう。これまでずっと待っていた分だけ、待たされた分だけ、想いをこめたいから。
頑張れ! や、ファイト! や、それぞれの高校によってさまざまな声援が飛び交う中、試合は続いていた。
この新人戦は個人戦。七ゲームマッチ、一部選手にシードがあり、シードは特例が無い限りはランダムで決めている。また、三位決定戦があり、最大四戦、五戦程度する……らしい。よくはわからない。
隆明たちの一回戦は、サーブ権は相手にとられたものの、ブレイクし、相手が二ゲーム、隆明たちが四ゲームとって勝利したらしい。綾がそう教えてくれた。試合は見ていたから、勝ったこと自体はわかるけど、得点の数え方は詳しく知らない。ブレイクって、なに?
私は、必死に応援するだけ。
二戦目は、私までハラハラする試合だった。サーブ権は隆明たちがとったけど、点を取っては取られてを繰り返すシーソーゲームで、ゲームカウントが三対三になった。最後の七ゲーム目は、コートを入れ替えたり、サーブする人を変えたりするサイクルがいつもと違っていた。タイブレークというものらしい。この時だけは、七点先に取った方が勝利するみたいで、ゲームカウントは七対五で、ぎりぎりのゲームだった。
そして、三試合目。二試合目と同じくサーブ権を隆明たちがもらい、一進一退の攻防が続き、タイブレークまでもつれこんだ。
入れ……。勝って!
そして、追い詰められた。相手にもう一点取られたら、負けてしまう。サーブもレシーブもどちらも得点にはつながらず、しばらく打ち合いが続いた。
その打ち合いの途中、ネット際にいる二人が動いた。私たちのチームだと、隆明じゃない人。
ネット際での打ち合いが続く。相手側から緩いボールか、狙いやすいボールが返って来たのだろう、隆明のペアがラケットの面を急激に反らした。
ボールはコートのラインぎりぎりに向かって飛ぶ。スピードが速く、意表を突かれたのか、相手の選手はボールを追い切れていなかった。
でも、そのボールは――
「アウト!」
「え?」
思わず、声に出ていた。
審判がアウトを宣言する。
これで、終わりなの?
「ゲームオーバー、ゲームセット」
でも、確かに、ボールはラインの外でバウンドしたと思う。
「ゲームカウント――」
隆明たちも、相手選手たちも、ゆっくりとコートの真ん中へと歩いていく。
「ありがとうございました!」
ああ。負けたんだ。おぼろげに、そう考えていた。でも、理解していなかった。納得できていなかった。
だから、その後隆明たちとどんな話をしたか、どんなふうに帰ったのか、よく覚えていない。
覚えているのは、悔しそうな隆明の横顔だけ。
聞こえてきた、会話だけ。
「負けた」
隆明の声が聞こえた。そうだ。負けたんだ。だから、悔しいはずだ。
でも、インターハイに連れて行ってくれるって、隆明は言った。ここで、諦めてもらっては、困るんだ。
そうだ、私は、隆明の背中を押してあげないといけない。こんなところで立ち止まるなって。
隆明のところへ行こう。
「たか――」
声をかけようとしたところで、傍にあった建物――事務所? の陰に隠れる。
「どうしたの? 遠藤君」
綾だ。どうして? 他の部員のところにいたんじゃないの?
「落ち込んでるって、そりゃそうか。負けちゃったもんね」
どうして、綾が、なにをしに? 慰めに? でもそれは、
「でも、いい試合だった。すごく、いい試合だったと思う」
私の役目、なのに。
「いい試合かどうかなんて、関係ない。勝てなかった、それだけだよ」
私には、いい試合だったかどうかすら、判断なんて、できない。
「二ゲーム勝った。しかもペアのうち一人はほとんど初心者なのに、新人戦に参加するふたチームより強かった。これって、すごいことだよ?」
そうか、隆明って、すごかったのか。それは、よかった。だったら、嘆かなくたっていいのに。
「結果を出した。顧問の先生も褒めてくれてたでしょう。これでも、まだ不満?」
「全部勝ちたかった。けど、力不足だって思い知らされた。今は、それしか考えられない」
「それは、桜のため?」
……どうして、そこで私の名前が出てくるの? 勝手に、隆明の気持ちを推し測るの?
「……そう、なのかな」
「きっと、かっこよかったって」
それは、あなたが決めることじゃない。隆明が、どう思ってるかだって、あなたが勝手に思っていいことじゃない。
「あそこで、ああできてればだとか、もう負けたくないって思うなら、くよくよしないで、練習してこーね」
「うん。わかってる」
そんな、ちょっとした会話。
隆明を慰めるのは、支えるのは私の役目なのに。
とらないでよ。
隆明が想いを語っていいのは私にだけ。私だけのもの……。
違う。違う違う違う。綾は、テニス部のマネージャーで、テニスのことには詳しいんだ。選手のコンディションにだって気を使っているんだ
だからあれは必要なことなんだ。
試合が終わって、帰って、ぼおっとして。試合の風景を思い返してみたりして。
二回勝ったんだ、隆明は。四月に始めたばかりなのに。打って、走って、また打って。見ている時は、応援することでいっぱいになっていたけど、思い返してみて、隆明はすごかったのかもしれないと、感じる。うん。最後のだって、隆明のせいじゃないし。
そうだよ、隆明のせいなんかじゃないじゃないか。なんで気づかなかったんだろう。隆明は悪くないし、落ち込む必要なんてない。
――伝えなくちゃ。
――隆明、疑問――
本当の私を見てほしい
綺麗な私じゃない
頑張っている私じゃない
だらけてる私じゃない
汚い私じゃない
本当の私を見ないでほしい
綺麗な私を見てほしい
頑張ってる私を見てほしい
だらけてる私を見てほしい
汚い私を見てほしい
だから、全部を見てほしい
だから、全部を見ないでほしい
だから、愛してください
私を……
春だ。入学だ。入学式だ。毎回毎回こんな儀式をすることで、新しく始まるんだと痛感させられる。痛感させるための式。
校舎を出て、すぐ先には桜が並んでいる。桜並木という奴だ。桃色の花びらがちらちらと舞う中、僕は帰り道を歩き出す。
とても綺麗で、僕なんかにはもったいないと思うけれど、今日くらいは、いいかもしれない。
そうだ、桜と言えば――
「隆明、一緒のクラスになれてよかったね」
いきなり、声をかけられた。
彼女は、僕の彼女ということになっている。柏桜さん。頼りない僕を(多分)好きでいてくれる稀有な人だ。
中学三年の、夏ごろ告白されたんだ。好きだから、付き合ってくれって。なんで僕なんだろうと思いはしたけど、好かれて悪い気持ちはしなかったから、いいよって返事をして、今日までその関係は続いている。良好なのかどうかなんて、僕にはわからないけど。
告白された後は、何度か二人で遊んだ、と思う。正直、女の子が喜ぶことなんてわからなかった。だから、コンビニで売っている雑誌なんかを読んで、どこに行こうかと頭を悩ませた。
「わ。びっくりした。うん、そうだね、柏さん」
本当は、同じ高校に入れるかどうかが、怪しいと思っていたけど。
「桜、咲いてるね。綺麗だね」
「そうだね」
こんな世間話だって、いつもびくびくしながら切り出すんだ。嫌われやしないか、変なんじゃないか。って
でも、彼女はどんな話をしても合わせてくれるし、嬉しそうな顔をしてくれる。嫌な顔を見せたことがない。
――だから、彼女にはとても救われているんだ。
「そうだ、僕高校から部活始めようと思っててさ」
世間話ついでに、これからの事を彼女に話しておこう。
「なに部に入るの?」
「テニス部。軟式の方だけど」
部活を始めるのは、自分の意思じゃない。高校に合格したころ、兄に言われた言葉がきっかけだ。たしか「どうしてお前そこまで卑屈なんだ、趣味もこれと言ってないし、部活でも始めれば――」だとかなんとか言われた気がする。テニス部にした理由は、実際に試合をする人数が、バスケや野球と比べて少ないからだった。
「じゃあ、がんばらないとね!」
「そうだね。がんばるよ!」
柏さんは、純粋に応援してくれる。理由なんて聞かずに応援してくれる。それが嬉しかった。
「じゃ、またね」
「うん。またね」
気づけば分かれ道だ。柏さんに別れを告げて、一人で歩く。
一人の時間というのは好きだ。何もしなくてもいいから。誰にも気を遣わなくていいから。
「あ……」
でも、一人になると、色々なことが脳裏をよぎることがあって、それに悩まされることもある。
今日もそうだった。兄の言葉の続きを思い出してしまった。
『――なんか、時々お前が怖いんだよ』
どうしてそんなことを言われたのか、全く分からなかった。
「まあ、どうでもいいや」
忘れてしまえ。きっと、どうでもいいことだから。
早速、テニス部に入部届を出し、入部の日を迎えた。先輩や顧問の先生に案内され、テニスコートへとたどり着いた。
「仮入部の人もいるだろうけど、とりあえず今日は基本的なラケットの持ち方、振り方を覚えてもらおうと思います。経験者にはつまらないかもしれないけど、今日は我慢してくれ。初心者もいると思うから」
顧問の先生の声が響く。あまり熱血そうな先生でなくてひとまず安堵する。
「まずラケットは――」
先生の指示通りにラケットを握り、無心に振る。何度かわからないくらい振ったところで腕が痛くなる。それでも、無心に振り続ける。
「おい、ええっと、遠藤だっけ? ちょっと軸ずれてる。あと面が上向いてるぞ」
「はい。すみません」
疲れてきて集中力が切れたのかもしれない。フォームがずれていたみたいだ。すぐに修正する。教えられた通り、教えられた通り。
「お前、初心者だったかな? 結構筋がいいんじゃないか? まあ、素振りだけじゃ判断できないけど」
筋がいいかどうかなんて、僕にはわからない。ただ、無心に振っていた。うまくなりたかったわけじゃない。きっと、無心になりたかった。打ち込んでいるんだと思い込むために。
「それで、遠藤はテニスで何がしたい?」
「え?」
かけられた言葉に、何故だか不安になった。胸騒ぎがするようだった。
「だから、遠藤は何がしたいのかって聞いてるんだ」
「――僕、は」
答えに詰まる。僕は何がしたいんだ? なにがしたいなにがしたい。何がしたいって、なんだ?
「テニスには前衛と後衛があってな……ってまだ説明してないしわからないか。すまんな。続けるのなら、これから考えて決めてくれ」
「あ……」
前衛か、後衛か、どちらをやりたいか聞いているだけだったのか。なんだ、たったそれだけのこと。
――何を、なんで、僕は不安になったんだ。心臓が早鐘を打っている。大丈夫。落ち着いていい。焦る必要なんて、どこにもないんだから。
最初の内は試合は出来ないだろうと思ったけど、部活を始めて一週間くらいたっても、まだ全然やらせてもらえる気配はない。多分こんなものなのだろう。
先輩たちの練習中、僕や他の一年生は玉拾いをやっている。その途中、フェンスの外に人影を見つけた。柏さんだった。
「あ、柏さん」
なぜ彼女がここにいるのかわからなかった。どうしてだろう、と思う間もなく。
「サーブレシーブ!」
メニューが変わった。
「じゃあね、また」
すぐに行かないと。
対応がてきとうになってしまったけど、大丈夫だろうか。
でも、今は練習しないと。
「ライン踏んでる!」
「あ……」
サーブでは、コントロールはそれなりにあったと思う。でも、打ち終わる前にラインを踏んでしまうことが多かった。
理由なんてわからなかった。
「遠藤君だよね」
休憩に入る時、声をかけられる。
マネージャーの清水さんだ。
「私のこと知ってる?」
当然知っている。まだ部に入って日が浅いけど、部活の、部員皆のサポートをしてくれる人のことを知らないなんておかしいと思う。
「マネージャーの清水さん。だよね?」
「え? あ、うん」
なんだろう、少し動揺しているような気もする。いつもの清水さんらしくないような。
「そっか。覚えてないか……」
怯えたように俯きながら、小声でそんなことを言う。だから、知ってるって言ってるのに……。でも、次の瞬間には、パッと顔を上げていた。いつもの清水さんに戻っていた。まあ、いつものと言っても、付き合い長いわけじゃないけど。
「よしっ! 切り替え切り替え。遠藤君さ、前に行き過ぎだから、もうちょっと落ち着いた方がいいよ。焦らなくても大丈夫だから」
「あ、うん。ありがとう」
自分でもわかってはいた。でも、直らない。
「そうだ、桜とはうまくいってるの?」
「へ?」
唐突な質問に、虚を突かれた。でも、どう答えればいいだろう。うまくいっているかどうかって、どういう判断基準だろう。
それに、もう僕と柏さんが付き合っているのだと知っているなんて、情報とは、伝わる速度が速いんだなあ。
きっと、清水さんは柏さんにどう言っていたかを伝えるだろう。どう言えば、何を言えば彼女は喜ぶ?
「柏さんは……一緒にいると、救われるんだ」
「救われる? どういう意味?」
「ああ、いや。部活とか頑張りがいがあるなあって、そういう感じの」
「そっか。うまくいってるんだね! よかった……。これで、安心だね」
清水さんが一瞬、悲痛な表情を見せた。それに、安心って何のことだろう。
いや、気にしてはいけない。僕には……おそらく関係のないことだ。
そうこうしているうちに部活も終わった。帰りがけに柏さんと会った。
どんな話をしただろう。僕は何を言っただろう。
頑張れと言ってもらえた気がする。彼女の事を名前で呼んだ気がする。
どうして、彼女は僕の事を好きでいてくれるんだ? 好きって、そもそもなんなんだ?
わからなくなってきた。一緒にいると、楽だったはずなのに、なんだか、重たくなってきた。
僕は……。僕が好きなのは、なんなんだろう。
――秋、続き――
新人戦が終わって次の日曜日。試合が終わったばかりということで流石に部活は休みなのか、隆明と部活外で会うことができた。
昨日の今日なだけあって、疲れているように見える。というか、試合した後だし、そりゃ疲れてるよね。でも、そんなに疲れてても私が呼んだら応えてくれる。そんなところも、隆明のいいところだ。
いつも待ち合わせする公園で、遅れてきた隆明の横顔を眺めていた。
「ごめん。遅れた」
「待ってないよ」
それに、待つ時間があったとしても、それは、幸せな待ち時間。
――本当に?
「昨日の今日で悪いけど、伝えたいことがあって呼んだの」
気に病む必要はないんだって、隆明のせいじゃないって、伝えなきゃ。
「きっと、かっこ悪かったよね。負けたんだから」
そんなことはない。ただ、信じられなかっただけ。
「失望、させたよね」
どこまでも落ち込んでいって、疲れ切った笑顔で話す隆明を、もっと見てみたいと思ってしまった。これだけは、この表情だけは、きっと私だけのものなんだから。
でも、そんなの勝手だ。それに、やっぱり笑顔が見たい。頑張っている姿を見たい。だから伝えに来たんだ。落ち込む必要なんかないってことを。
きっと、笑顔になってくれる。それを想像したら、私まで笑顔になる。
「失望なんか、全然してない。だって、隆明のせいじゃないんだから」
「え?」
「だって、最後のは隆明のミスじゃない。隆明は、負けてないじゃない」
「……今、なんて言った?」
「ん?」
一瞬、沈黙があった。きっと驚いたんだろうなって思った。こんな簡単なことに気づけなかったことに対して。それから、笑顔になってくれるんだろうと思った。
驚くのは、私の方だった。
「今なんて言ったんだよ?」
聞いたことのない声だ。低くて、冷えた響きを含んでいそうで。だから、嘘だと思った。わからなかった。怒った隆明なんて見たことなかったから。
「僕のせいじゃないなら誰のせい? 最後ミスしたのが加藤だから、あいつのせいだって?」
加藤と言うのは、ペアの人のことだろうか。
でも、そんな時だというのに、こんな声を聞かせてくれるのは、感情を見せてくれるのは、私にだけなんだと思ったら……嬉しかった。
「だって、そうだよね? だから、隆明が気に病む必要なんかないよ」
「何を……」
目つきが変わる。きつく私を睨みつける。肩を震わせている。ああ、やっぱり怒っているんだ。こんなに感情をあらわにしている隆明は初めて見る。
でも、なんで、何を怒っているんだろう。私は、間違ったことも、怒らせるようなことも、言っていないはずなのに。喜んでくれるはずなのに。
「何を知っているんだよ。なんでそんなことがわかる? テニスのこと、何も知らないくせに」
隆明は、何を言っているんだろう?
「テニスはあんまりわからないけど、隆明のことはわかるよ。ミスしてないし、頑張って来たし、何も悪くないってこと」
私は、何も間違っていないのに。怒らせるつもりなんてないのに。
「だから、テニスを知らないくせに、なんで知った風なことが言えるんだって言ってるんだよ!」
「だって……」
テニスなんて知らないけど、隆明が……。
「私は、隆明が落ち込んでるから励まそうと思って、元気になってもらおうと思って、それで……」
「励ますためだったら、見当違いなことを言ってもいいし、誰かを貶めてもいいって君は言うのか?」
そんなこと、思ってない。私はただ……。
「君は僕のペアを侮辱して……それは、僕を罵ることと同じことだ」
「違う。違うよ! そんなつもりない」
「そんなつもりがなくても、君が言ってるのはそういう意味になるんだよ!」
違う。そんなこと言っていない。逆なのに。隆明は悪くないって言ってるのに。どうしてそれをわかってくれないんだろう。私が、隆明のことを悪く言う訳がないのに。
それに、さっきから、
「君は――」
さっきからさっきからさっきから――
「うるさい! さっきから私のこと君きみキミって……私はそんな名前じゃない! 桜だよ! 忘れたの? ずっと会ってなかったから名前忘れちゃったの? だったら、ずっと会ってたらよかった。待つことだって苦しいのに。忘れちゃうんだから!」
――もう、止まらない。我慢していた。でも我慢なんてしてないと言い聞かせていた気持ちが溢れ出してきた。そんなことを思ったら嫌われてしまうと押し隠して、せき止めて、封じ込めようとした気持ちが、濁流となって頭の中を駆け巡る。
「桜?」
「そうだよ桜だよ! なんだよ今さら。ずっと待ってた。ずっとずっとずっと待ってた。名前で呼んでもらえるのを、笑ってもらえるのを、会えるのを。なのに、忙しくて会えないからって突き放して遠ざけて。会いたくなかったんじゃないの?」
「それ、は……」
言い澱む隆明を見て、初めて隆明に怒りが湧いた。そうか、そうだったら、もっと早くに言ってくれれば……。
「そう、隆明は私の事が嫌いになったんだね。だから――」
「違う! そうじゃない! 嫌いになんてなってない」
「だったらなんで!」
声が裏返る。息が荒くなる。胸が張り裂けそうになる。あーあ。こんなに怒ったら、嫌われるに決まってるのに。隆明にふさわしい女の子じゃなくなるのに。
「……わからなくなったんだ。僕が、何を好きなのか、テニスに本当に拘りたいのか。桜が、どうして僕のことを好きだと言ってくれたのか」
「そんなの理由にならない!」
直接聞けばよかったじゃないか。いつでも、いくらでも答えられるのに。私が隆明のことを好きな理由なんて。テニスだって、続けたくないんだったらやめればいい。
「怖かったんだよ。理由を聞いたら、嫌われるんじゃないかって」
なんで勝手にそう思い込んでしまうんだろう。嫌いになんてなるわけないのに。
「それで、テニスとだけ向き合おうって思って、それだけで頭がいっぱいになって」
「……それで、今は?」
「わからない。わからないんだよ。僕が、何を好きなのか」
「そう……。そうなんだ」
それから、言葉が続かなかった。私は何かを言おうとして、でも何も言葉にならなくて、途切れて。隆明が何かを話そうとして、やめて。繰り返した。
何が好きかわからない? それって、今までの私のことは? これからの私のことは?
いままでずっと気を使っていたの? ずっとずっとずっと。そんな、そんなことって……。
「ピエロ……みたいだ……。昨日の今日だし。それで、冷静になれてなかったみたいだ。だから、今日は帰ろう、桜」
「……うん」
――隆明、答え――
私は、嫌われたくないだけだった
私は、私を見るのが嫌だった
私は私を見放した
私が悪役になって私以外は皆いい人で
それでも、時が来る
私が私を見つけなおす時
いつかくる
きっとくる
それは、花香る季節と共に
新人戦に行けることが決まった。僕だけの力じゃない。もちろん、ペアの、加藤の力の比重が大きい。彼は中学生の時からテニスをやっている経験者だから、とても頼もしかった。
でも、
「なんで俺、お前とペアなんだろうな。足だけは引っ張らないでほしいけど」
初心者である僕が、足を引っ張っていた。
「いままでは部内だから何とかなってたけど。まあ、新人戦でもよろしく」
「うん。足を引っ張らないように、勝てるように頑張るよ」
「ふん」
そう。僕が弱いせいで、彼は歯がゆい思いを強いられていた。彼が、初心者であるぼくとペアになったせいで。
僕ができることは、強くなることだけだ。
強くなりさえすれば、僕は嫌われることもないだろう。ああいう態度を取っているのは、僕に非があるからだ。彼の言っていることは、全て本当だから。
「ゲームオーバー、ゲームセット」
試合終了の合図が響く。本当に接戦だった。どこかで勝負を仕掛けなければ、負けていただろう。タイミングはよかった、でも、狙いすぎたのか、力み過ぎたのか。
加藤のボレーは、ラインをわずかに外れ、アウトに。
仕方ないと思う自分、十分やったと思う自分。そして、腑に落ちないと思う自分がいた。
試合翌日。伝えたいことがあるからと、桜に呼び出された。
桜は、先に公園で待っていた。
「ごめん。遅れた」
「待ってないよ」
いつも、そうやって気を使ってくれる。でも伝えたいことと言うのはやっぱり、僕が負けてしまったことに対してのこと、なんだろう。
「昨日の今日で悪いけど、伝えたいことがあって呼んだの」
「きっと、かっこ悪かったよね。負けたんだから。失望、させたよね」
幻滅させたと思う。インターハイどころか、新人戦の時点で負けたんだ。きっと、嫌になったはずだ。
「失望なんか、全然してない。だって、隆明のせいじゃないんだから」
「え?」
ただ、言われた言葉は予想外のもので、驚いてしまう。
「だって、最後のは隆明のミスじゃない。隆明は、負けてないじゃない」
僕のミスじゃない。そんなの、わかってる。でも、だからなんなんだろう。今回の負けは、あのミスがあったからだけじゃなくて、色々な原因があってのもので、相手より自分たちが弱かっただけで。だから、納得できなかった。
――本当は違う。
「……今、なんて言った? 今なんて言ったんだよ?」
声が震える。何かが、堰から溢れそうで。
「僕のせいじゃないなら誰のせい? 最後ミスしたのが加藤だから、あいつのせいだって?」
あの試合は、僕の力不足が原因だ。誰も悪くない。そもそも、あのタイミングでないと、勝負に出られなかった。あれを逃せば、勝機を逃したはずだ。
――本当は、図星だった。
「だって、そうだよね? だから、隆明が気に病む必要なんかないよ」
「何を……」
何を言おうと、してるんだろう。
「何を知っているんだよ。なんでそんなことがわかる? テニスのこと、何も知らないくせに」
僕じゃない誰かが言っているような錯覚にとらわれる。
「テニスはあんまりわからないけど、隆明のことはわかるよ。ミスしてないし、頑張って来たし、何も悪くないってこと」
そうかもしれない、間違ってないかもしれない。でも、認めるわけにはいかない。
「だから、テニスを知らないくせに、なんで知った風なことが言えるんだって言ってるんだよ!」
もう後には引けない。自分でも抑えがきかない。
「だって……私は、隆明が落ち込んでるから励まそうと思って、元気になってもらおうと思って、それで……」
「励ますためだったら、見当違いなことを言ってもいいし、誰かを貶めてもいいって君は言うのか? 君は僕のペアを侮辱して……それは、僕を罵ることと同じことだ」
引っ込みがきかなくなった僕の口が、悪辣な言葉を並べ立てていく。初めてだこんなこと。こんなに、
「違う。違うよ! そんなつもりない」
「そんなつもりがなくても、君が言ってるのはそういう意味になるんだよ! 君は――」
言いたくないことを、
――思っていることを、
そのまま吐き出すなんて。
「うるさい! さっきから私のこと君きみキミって……私はそんな名前じゃない! 桜だよ! 忘れたの? ずっと会ってなかったから名前忘れちゃったの? だったら、ずっと会ってたらよかった。待つことだって苦しいのに。忘れちゃうんだから!」
――気圧された。その迫力に、慣れていないことに、感情が押し寄せて、ぶつかってくる感覚。
「桜?」
桜が怒るなんて、初めてだ。それと同時に思った。僕はさっきまで、桜に対して、怒っていたのか? と。
いや、そもそも、誰かに怒られるなんてことが、初めてだった。
「そうだよ桜だよ! なんだよ今さら。ずっと待ってた。ずっとずっとずっと待ってた。名前で呼んでもらえるのを、笑ってもらえるのを、会えるのを。なのに、忙しくて会えないからって突き放して遠ざけて。会いたくなかったんじゃないの?」
「それ、は……」
話がどんどん脱線している。そう思わないこともない。でもそんなことを言えるわけはない。それに、こういう時理屈で返すと逆効果だって、昔読んだ雑誌に書いてあった。
会うのをためらってしまったことは、否定することができない。
「そう、隆明は私の事が嫌いになったんだね。だから――」
「違う! そうじゃない! 嫌いになんてなってない」
「だったらなんで!」
嫌われたくないから、人を嫌うことだけはしなかったんだ。だから、そんなことはありえないんだ。
だから否定する。声を荒げてでも。
――強く否定するのは、何とも言えない自分がいるから?
考えないと。納得できる答えを。これ以上嫌われない答えを。唯一好きだと言ってくれた人の期待を、裏切ってはいけないのに。
答えは、
「……わからなくなったんだ。僕が、何を好きなのか、テニスに本当に拘りたいのか。桜が、どうして僕のことを好きだと言ってくれたのか」
わからない。
「そんなの理由にならない!」
「怖かったんだよ。理由を聞いたら、嫌われるんじゃないかって」
嘘だ。嫌われるのが怖かったんじゃない。聞いてしまえば、戻れなくなるから。
――何から?
「それで、テニスとだけ向き合おうって思って、それだけで頭がいっぱいになって」
嘘だ。ただ何も考えたくなかっただけだ。何にも向き合いたくなかったんだ。
「……それで、今は?」
「わからない。わからないんだよ。僕が、何を好きなのか」
わかるわけがない。向き合って、来なかったんだから。
「そう……。そうなんだ」
桜が喋らなくなり、うつむいて、顔を上げては、下を向く。
僕は、そのたびに何か言おうとするんだけど。何も出てこなかった。今度こそ、失望されてしまっただろう。
それで僕は、元に戻したいと、好かれたいと、考えているだろうか?
――いつもと同じじゃないかと、考えている。
「ピエロみたいだ……。昨日の今日だし。それで、冷静になれてなかったみたいだ。だから、今日は帰ろう、桜」
「……うん」
このままで、いいのだろうか。いいや、よくはない。好きだと言ってくれた人を傷つけてしまった。それがそのままでいいはずがない。
そもそも、好きって何なんだ、僕は、何がしたい?
家に帰り、部屋に入り、一目散に布団の中に籠る。
様々な思考が、頭の中を駆け巡る。色々なことが、ありすぎた。
新人戦、途中で負けてしまった。それは、僕たち二人ともが未熟だったせいだと思い込ませようとした。
――実際は、加藤のせいだと思った。負けたくなかった、腑に落ちなかった。そもそも、失点は彼のミスによるものが多かった。経験者だから、慢心しているんじゃないかとさえ、思った。
なんでそんなことを思った? ……わからない。まだ、わからない。
じゃあ、好きってなんだ。執着? 独占したい気持ち? 一番?
――わから、ない。
なあ桜。何故君は僕の事が好きなんだ、好きと言ってくれるんだ。なあ遠藤隆明。僕は何がしたい? 何が好きで何が一番で何に執着したい?
コンコン。部屋の扉をノックする音が聞こえる。でもごめん。今は一人にしてほしいんだ。だから、ほうっておいて――
「よう、たか。久しぶり」
……は? この声は……。
「ふむふむ。へえ、部活を始めたし、彼女も出来ましたっと。そんな感じ?」
この、がさつで、だからなのか髪がばさばさで、人の部屋を勝手に物色する長身男性は、
「いきなり帰ってきて、なんなんだよ」
僕の、兄だ。
僕より五歳年上で、離れた大学に通うために一人暮らしをしていた、名前は遠藤圭吾。
「久しぶりに帰ってきたのになんだよその反応」
完全に予想外。思考が乱れて、もう、めちゃくちゃだ。
「部活のことと、彼女こと、どこで知ったわけ?」
「この部屋の本棚と、それからお前の勉強机にある本。ベッドの上に散らかってる雑誌」
「……ああ。それで」
テニスの本や、女性とデートに行く時の対策法、みたいな雑誌のことを言っているのだろう。
「名推理、だろ?」
「ああうん」
得意気になった兄はめんどくさいので、スルーするのが一番だ。
「よっこいしょっと。いやあ、それにしてもたか、お前に彼女と趣味ができるとは、安心だよホント」
勝手に椅子に座っては、勝手なことを言い出す。
「お前、趣味とか好きなこととかなかったじゃん。だから笑顔が嘘くさくて怖かったんだよね」
実の弟に、そこまで言いますか……。
「いや、でもよかった。好きなことができたんだな。兄は感慨深うござる」
予想外の出現と、今日までの疲れと色々がたまって、油断していて、だから、つい漏れてしまった。
「わかんないんだよ。好きってどういうことなのか」
「へ? そうなの?」
ああしまった。こんなことを言ったら、また怖がられてしまうかもしれないのに。
「でもお前、テニス好きだろ?」
「え?」
返ってきた反応は、またもや予想外で、返答に詰まる。
「だってお前、試合に負けて悔しがってたろ?」
……ん? とてつもなく違和感を覚えるけど、そこはまあ、スルーして……。
「昨日の新人戦で負けて悔しかったろ。それに見たぞ。今日近所の公園で彼女さんにテニスのことで何か言われて怒ってたの。プライドがないとあんなに怒れないって」
違和感は確信に変わったけど、それも置いといて……。あんなになったのは、理解が追い付かなかったからで、感情が追い付かなかったからで、だから、好きだとは……。
「初めて見たもんよ、あんなに感情剥き出しにしてるたかなんて。驚いたけど感心したわ。ああ、女の子に対してってのはどうなのかと思うけど」
「ぐう……」
桜に対して激情に駆られてしまったことは反省すべき点で、謝罪すべきだから、反論の余地がない。
「いやあ、試合で負けてそんなかっこ悪い姿見せちまったもんだから彼女にふられちまって、ハートブレイクで布団にくるまって、んでもってそんな弟を慰める俺かっこいい」
「うっわ……」
半眼で睨みつけてやる。
「やめろ蔑むなその目気持ち悪い。本気で言ってねーから落ち込むなって。試合に負けちまったのはしょうがない。実力不足だ。でもな、彼女さんは多分お前のこと嫌いになってないだろうし、お前のお兄ちゃんは誰かの弱みに付け込んで慰めてポイント稼ぎするような計算高くて頭のいい人じゃありません」
最後のほうの言葉の印象が強くて、半分聞き取れなかった。
「なんだって?」
「あの子も同じだ。あんなに怒ってたのは、お前のことが嫌いだからじゃない。好きだったからだろうよ」
「なんでそんなことがわかるんだよ!」
まただ、また感情があふれ出てくる。なんでだろう。自分でも、止められないのは。
「じゃあテニスやめるか?」
「それは……」
駄目だ。ここでやめられるわけがない。インターハイに行く約束だってした。
「桜と約束したんだ。インターハイに連れて行くって」
「へえ。かっこいいじゃないの。じゃあその桜って子と別れればいいじゃんか」
好きじゃないんだろ? 言外にそんな意味を含んでいるんだろう。皮肉気味に笑っている。でも、駄目だ。理由があるんだから。
「そんなことしたら、桜が悲しんで……」
あ、れ? なにかが、おかしい気がする。いや、何もおかしくないはずだ。だって、正しいはずだ。
「桜が、寂しがって……待ってるのは辛いって。……なっ」
「ぷ。あっははは。はあ、あーおかしい」
何を大笑いしてるんだよ真面目な話をしてるのに!
「お前言ってる途中で気づいたろ。自意識過剰だって」
「うっ……」
確かに、何かおかしいと思った。違うと思った。でも、それはそういう理由じゃ……。
「いやあ、卑屈も一周まわるととんだ自意識過剰の自分大好きちゃんになるんだな。ああおかしい」
腕を上げ、手をひらひらさせて演じるように笑いに笑う。何で、なんでこんなんなのに、反論できないんだ。
「恥ずかしいなあ、たか」
上気して、顔が赤くなっていくのがわかる。顔の辺りが熱くなっていく。体温が高くなって、熱でも出たみたいだ。
「いや、でもよかったよ。トラウマ克服して、彼女までできてるんだもんな。これでまたふられでもしたらもう見てらんないからな」
「何がよかっただよ……」
こっちとしては全然よくない。好きかって言われて、したり顔されて、笑われて……。勝手にトラウマだとかまたふられただとか――
――それは、本当になんのことだ?
「トラウマって? またふられたって?」
「ああ。小学生の頃、お前好きな人に告白したじゃん。それで、その子に泣かれたとかふられたとかでお前塞ぎこんで」
なんだそれ? 知らない。そんなこと覚えてない。
「あれ? 覚えてない? ……いや、忘れたからこそ前に進めたってことかな。結構結構」
勝手に納得されても困るんだけど。
「その話、詳しく」
「思い出さない方がいいかもしれないぞ? あと、そんなに詳しく知らない」
何故かわからないけど、それは知っておかなきゃならない気がした。心臓が、脳が焦っているから、早く聞けと、フル回転しているから。
「いいから、知ってることだけで」
「……わかった。簡単に話す。小学校の頃、お前には好きな人がいた。お前はその子に告白した。そしたら、その子は泣きだして、収拾がつかなくなった。その後、その子は転校して、多分その頃から、お前はなにもしなくなった」
……大体、全部知ってるんじゃないか、嘘つき。
「……ふう。話し疲れた。どう? 少しは落ち着いた?」
「ん? ああ、うん。だいぶ落ち着いた」
不本意だけど、兄と話すことで、本当に落ち着いてきた。……腑に落ちないけど、認めたくないけど。
さて、安心したところで、無視したところを掘り返してみよう。
「なあ、僕に彼女がいるってこと、部屋に入る前に――」
「ああ。痴話喧嘩見ちまったし、知ってたよ」
ちわ……。いや、まあいいや。
「テニスの事、試合見に来てたってことは?」
「ああ、全部母さんから聞いて知ってた」
この、兄さんはほんとに、呆れるほど。
「うっさんくさい人だな!」
「ひでえ。実の兄にそこまで言うか?」
うるさい。僕なりの意趣返しだ。
兄と話してると、なんか、すごく疲れる。
「まあいいか。あと、もう寝るけどその前に」
「何?」
軽く聞いたけど。その時の兄は、笑っていなかった。むしろ真剣な表情をしていて、驚いた。
「テニスをする理由に、インターハイに行きたいという思いに、彼女を利用するのはやめなさい」
「え……」
言うなり、立ち上がって部屋から出て行った。途中あくびをしていて、本当に眠そうだったから寝たのだろう。
「はあ……」
それにしても、どっと疲れた。今思い知った。兄と話すのは、苦手だ。
再び一人になって、考える余裕ができる。僕は、テニスが好きなのかな? 想像してみる。テニスを取り上げられた日々、テニスができなくなった日々を。
わからない。想像なんてできなかった。僕は、テニスをしていたい。何故かわからない、理由なんて、ない。
――執着、してるじゃないか。十分すぎるほどに。
でもやっぱり、テニスができなかったら、辛いだろう、苦しいだろう。想像することすら、恐ろしいけど。
「あ……」
だとしたら、僕を好きだと言ってくれた桜は……。どれだけ、苦しかったのだろう、辛かったのだろう。想像すら、できない。そうか、付き合うって、その責任を負うことまで、好きという気持ちを背負い込むことまで含めて付き合う、なのか。
だとしたら、なんてことをしたんだろう。僕が自分と向き合うことから逃げたから、自分可愛さに、桜のことを遠ざけたから、自分勝手だったばっかりに。そんな勝手な僕を、好きだと、言ってくれたのに……! 僕は、桜にふさわしくないのかもしれない。そう思うことすら、自分勝手なエゴなのかもしれないけど。
それと、大事なことがもう一つ。僕はもう覚えていないけど、無意識に忘れて、封印してしまったのかもしれないけど。小学生の頃、僕が告白して、ふられた相手。何故だろう、多分この人だろうと思う人が同じ高校にいた。心当たりと言うか、無意識に、思い出したのかもしれない。
聞きに行かなくちゃ、どうして泣いてしまったのか、傷つけてしまったのか。
僕が、僕を見つめ直すために。
そして、テニスに、桜に、答えを出さなくちゃ。もう、逃げ場を用意するのはやめよう。
そんな風に、あれこれと思考を巡らせているうちに、僕は次第に眠りに落ちていった。
――冬――
この雪を溶かせるのは、太陽ではいけない
炎でも熱すぎる、水では流れるだけ
風では飛んでしまう、土では埋もれてしまう
そうこの雪を溶かせるのは、あなたの思いだけ
あなたの思いがあれば、きっと綺麗な花が咲き誇るから
もうだめだ。終わった。おしまいだ。感情に身を委ねてしまった。あることもないことも何もかもぶつけてしまった。きっと嫌われたに違いない。
もう嫌だ。彼に嫌われてしまったのなら、生きていることだって苦痛だ。ただの苦行だ。どうして私がこんなに辛い思いをしなきゃいけないの? 私と隆明は好き合っていたはずなのに。付き合っていたはずなのに。
どうして、こうなっちゃったのかな? 誰が悪いのかな? ただ励まそうとしただけなのに。元気になってほしかっただけなのに。
九月。夏休みも終わり、気だるげながらも、皆登校する。課題がどうだの、先生がどうだのと話しているらしい。
うるさい。そんなこと、どうでもいい。私は……。
「おはよー、モッチー」
――うるさい!
「っと。びっくりした。どうしたのモッチー? 顔怖いよ。かわいいのに台無しだよ」
恵美だった。心に余裕が無いと、駄目だな、私。
「本当に、かわいいと思う?」
余裕がないついでに、変なことを聞いてしまう。何を言ってるんだろう、私。
「そうだね。かわいいと思うよ。知らないかもしれないけど、密かに男子たちに人気なんだよ、モッチー」
「そうなんだ」
「聞いておいて、興味はないんだね……。あ、わかった、遠藤となんかあったんでしょ」
ドキリ。心臓が跳ねる。恵美は、毎度意外と勘が鋭い。いや、私がわかりやすいのか。
「だから、遠藤とモッチーじゃ釣り合わないと思うんだよね」
「確かに、隆明はすごくかっこいいけど」
「逆だよ逆」
――怒りそうになる。恵美に対して、なのに。すんでのところで押さえる。隆明への侮辱は、許せなかった。もう嫌われてるのに、それでもまだ好きなんだ。
「私には遠藤の良さは分からないからね。モッチーだけだよ多分。遠藤の良さがわかるのは」
「優しいし、かっこいいし、裏表ないし。魅力的だと思うんだけど。いなくなったら不安になると思うし。私、隆明に依存してるのかな?」
「それも逆じゃない? 甘えてるのは遠藤の方じゃないかな」
どうして、どうしてそんなことがわかるの?
「まあ、ほんとはわかんないんだけどね。さ、教室入ろ」
結局わからないんじゃないか……。
そうして、教室に入ると、
「あ……」
隆明の姿が、既にあった。
「あの、桜――」
聞かずに、自分の席へ座る。わがままだ、わかっている。こどもみたい、わかってる。でも、でも体が勝手にそう動いてしまうんだから仕方ないじゃないか!
怖いんだ。話を聞くのが、話をするのが。嫌いになったと、はっきり口で言われるのが、怖いんだ。
十月。隆明とは一度も話さないまま、メールも届いていたけど見ないまま、時間だけが過ぎて行った。
「ねえ桜ちゃん」
「なに、涼子」
心はもう、摩耗して擦り切れてしまっているんじゃないかと思えるほど、自分の中に何も感じることができなくなっていた。
「遠藤君とうまくいってないの?」
「うん。嫌われちゃったのかもしれない」
「その原因、小学校の時の事件が関係してるのかもしれない」
「どういうこと?」
全然興味なんてなかった。ご機嫌取りだった。涼子の話を聞いてあげるだけ、いつもの通りだと、思っていた。
「春頃だったかなあ、言おうかどうか迷ったんだけどね。あまり大人数に知らせるべきことでもないし。でも、桜ちゃんには関係あるかもしれないから、伝えるね。遠藤君の初恋の人の話なんだけど――」
結果的に言えば、その話は私と隆明の現状とは、何も関係なかったと思う。でも、衝撃的な話だった。それに、私があの人に遠慮していた、気が引けていた理由がわかったような気がした。
「ありがと、涼子」
「うん。遠藤君と仲直りできるといいね」
「そうだね……」
話をしないといけない。問い質さないといけない。誰が悪いという話ではないけど、それでも、無駄でも。だだ、伝えたいことがある。彼女に。
「お話って何?」
やっと、この日が来た。ゆっくり、じっくり話すことができる日が。校舎の中、食堂と教室の間にある、ベンチのいくつかある、中庭で待ち合わせをした。
「ねえ綾。小学生の頃の隆明の話だけど」
「そっか。また、その話か」
また? またってことは、以前にも話をしたことがあるの?
「この前、遠藤君にもそのこと聞かれたけど。でもまあ、仕方ないか」
なんで、隆明が聞きに来る必要があるんだろう。当人なのに。
「遠藤君、ショックでそのこと忘れててね。でも、忘れてるはずなのに、心の痛みって言うのかな? それだけは、覚えてたみたい」
それで?
「私、怖かったんだ、その時は。人から好意を向けられて嬉しくはあったんだけどね。受けいれた後の世界とか想像すると怖かったし。断った時のこと想像するのも怖かった。だから、自分が傷つかないために泣いたの。いっぱい泣いた。それで、遠藤君を悪者にしたの」
どうして、どうして隆明は、こんな人を……。頭が痛い。聞いているだけでも、我慢できない。暴れそうになる。
「転校したのは、前から決まってたことで、その時期に重なってたのは偶然だった。でも、だからこそ時機が悪かったんだね。よくは知らないんだけど、それで傷ついて、人や、何かを好きになることが怖くなったのかな」
「なんで、よくは知らなかったの!」
「ごめんね」
知れるわけがない。転校したんだから。私だって、全然知らなかった。だから、ここで責めることなんて筋違い。わかってる。わかってはいるけど……。
「高校で初めて会った時は驚いたよ。テニス部に入って来た時も。でも、これはチャンスだとも思った。ちゃんと謝れるチャンスだって。でも、彼は覚えていなかった。勝手だけど、心の中で責めたよ。どうして覚えていないんだって。これじゃあ、謝ることも償うこともできないじゃないかって」
「責めてどうするんだよ。勝手すぎるよ!」
「……本当にね。でも、彼には彼女がいるってわかった。だから、償いの方法を変えることにしたの。彼を幸せにするのが償いにつながるんだって思った」
本当に、本当に勝手だ。自分のことしか、考えてない。
「だから、強い選手になってもらうため、精いっぱいアドバイスしたし、好きな子と一緒にいられるように、色々便宜を図った。桜、あなたをマネージャーに誘ったりもした」
息遣いも、仕草も、言葉も、彼女の全てが、嫌になってきた。
「でも、桜はマネージャーになってくれなくて、ちょっと焦りもした。これじゃあ、彼が幸せになれないんじゃないかって」
「隆明の幸せを、あなたが勝手に決めないでよ!」
「そうだよね。本当にごめんね。……これで、私の話は終わり。全部、良かれと思ってやってた。贖罪のつもりだった。覚えてなんていなかったんだから、自己満足でしかないのにね」
中庭の真ん中で、悲劇的な目をしてうつむいて。でもその姿が妙に絵になっていた。それだからか、私は無性に腹が立った。ああ、違う。それだからじゃない。元々なんだ。
「綾、私、あなたの全部が嫌い」
「そう……。私は桜のこと、結構好きだったけどね」
「消えて、ほしい。けどそうもいかない! 綾が、テニス部のマネージャーとして優秀だって知ってるから」
「我慢しなくても、桜の頼みなら聞くよ」
「我慢なんてしてない! 私の頼みは、隆明をインターハイに行けるようにしてほしいってことと、今日はもう、帰ってほしいってこと!」
「そっか。ありがとう」
何に対してのお礼だろう。それだけ言うと、彼女はどこかへ去って行った。
「ピエロ、みたいだ」
隆明は、何が好きなのかわからないって言った。まだ、傷が残ってるんだ。ずっと、ずっとずっと私は勘違いをしていたんだ。隆明も私の事を好きなんだと思っていた、思い込ませていた。でも違った。隆明は人を好きになる事なんてできないんだ。私が好きだって言った時、受けいれたのは、ただ、安心できたからなんだ。嫌われることがないだろうって思ったからなんだ。ただの依存なんだ。好きなんかじゃ、ないんだ。
「私こそ、ピエロだ」
私だけがそのことを知らなかった。知ろうとしなかった。隆明がそこにいればそれだけでいいと思ってしまった。もっと話すべきだったのかな?
「う……あ、ああ」
嗚咽が漏れる。もう、我慢できない。
「ああああああ……ぁぁ……」
泣く。大声を上げて泣く。しゃくりあげて泣く。赤ちゃんみたいに泣く。止まらない。涙が次から次へと溢れてくる。思いが、涙ごと溢れてくる。
ただ好きなだけでいい? 違う。待ってるだけでいい? 違う。私はよくばりだから、好きな人からは好かれたいし。求めるだけじゃなくて求められたい。
そんな、悪い子だから。だから、泣くことしかできない。
――そして、桜が咲く季節――
そうして私は、針を進める
次のゲームへと
地区予選、インターハイ予選、個人戦。とうとうこの時がやってきた。先輩や後輩の声援を受けて、その二回戦へ進み出る。
「わかってるな、ここで勝てばインターハイ出場は堅い。逆に言えばここで負ければ絶望的だ」
もちろん、わかっている。だからこそ、ずっと練習してきたんだ。
「相手はお前も知ってると思うけど、去年のインターハイで決勝まで進んだペアだ。気合を入れて本気でやって全力を出したって勝てるかわからない。でも」
わかってる。
「もちろん。負けるつもりはないよ、加藤」
「俺もだ。遠藤」
相手は実力者で、シード選手で、前回のインターハイ準優勝者。正直びびるし、気後れする。でも、負けるわけにはいかない。だって、まだ果していない約束がある。
「ありがとう。遠藤がペアでよかった。嫉妬してたんだ。お前の強くなっていくスピードに、憧れてたんだ。足を引っ張ってきたのは俺の方だったのに。でも、ここまでこれた。本当にありがとう」
「何言ってるんだよ。僕たちはインターハイに出場するんだ、この先に行くんだ。そんなこと言うな」
ああでも、その言葉は、僕にはもったいないほどに、嬉しい言葉だった。それに、
「でも、僕の方こそ、加藤とペアでよかったよ。勝とう! 勝たなきゃ進めない!」
それは、僕だって同じ気持ちだ。
「ああ!」
腕を合わせ、お互いのやる気は十分だと確信する。勝てる、そう思わないとどんな相手にだって勝てない。だから、自分たちを信じて、勝利を信じて進むしかない。
さあ、行こう。そして勝たないと。
負けたら悔しいからじゃない、誰かにかっこつけるためじゃない、自分自身が、気持ちよくなるために、ただ勝つためだけに勝つんだ。
ああでも、僕にはちょっとだけ違う理由もあるんだ。
――桜との約束。インターハイに連れて行ってくれと頼まれたんだ。
「サーブ権もらった、サーブよろしく」
「ああ」
指定位置に着く。呼吸を整える。ボールの跳ねを確かめる。相手の位置を、ラケットの持ち方を、癖を見極めないと。焦るな。大丈夫、不思議と落ち着いている。まずは、一球に、全力で。
「フォルト」
「ドンマイ! 次いける!」
やってしまった。狙いは外してなかった、ちゃんとエリア内に入った。でも、足が先にコートの中へ入った。
「ふう」
でも、焦らなくて大丈夫だ。フォルトは一度なら失点じゃない。だから、このサーブを、決めればいい!
なあ桜。僕はきっと約束を果たすよ。インターハイへ君を連れて行く。そうしたら、そうしたら話がしたい。もう一度、ちゃんと君と向き合って――
――そして、桜が散る季節――
とうとう、この季節がやってきた――
――私だけの季節
逃げたかった。聞きたくなかった。面と向かって会いたくなかった。きっと嫌われた。きっと思い出している。きっと捨てられる。
そうとしか、思えない。
「話、聞いてくれてありがとう。桜」
「ううん。そんなの当然だよ。だって、彼氏の、隆明の頼みなんだから」
断りたかった。でも、そんなことができるわけがない。だって、好きなんだから。どうあがいたって、嘘ついたって、好かれないと分かっていたって、この気持ちは変えられないんだから。
「この公園も、何度目だろうね……。話、聞いてくれないかと思ってた。嫌われたかもって、思ってたから」
何度も待ち合わせをした公園。もちろん思い出がいっぱいある。楽しいのも、辛いのも。
嫌いになる、わけがないのに……。
「それで、話っていうのは……」
ああ、もう来てしまった。逃れられない。きっともうお別れだ。だって、好きでも何でもない女の子と、悪い子と、ずっと付き合うはずがない。そんなの、そんなの嫌だよ!
「別れよう……」
「何を、言って――」
だから、私は、
「だって、こんな人全然かわいくない」
「待って」
自分を守るために、
「なにも取り柄がない」
「そんなこと」
隆明にふられたってことに、嫌われたってことにしないために、
「だから、私なんて選ばなくていい! 気を使わなくていい!」
「何言ってるんだよ桜!」
自分から、彼に別れを切り出すのでした。
「だって隆明、私のこと好きかどうかわからないのに付き合ってくれてたんでしょ?」
「それは……」
その上で、
「私、いちいち重い女だし、嫉妬深いし、付き合ってたってなにもいいことないよ?」
隆明が悪者にならないように、
「それに、ブスだし、勘違い女だし、それに、それにそれにそれに!」
私が全部悪いんだと、
「だから、隆明は、私じゃだめなの! 私じゃ、足りないの。私じゃ釣り合わないの!」
言い聞かせる。
「そんなことない! 僕は……」
「そんなことあるんだから! だから、もう終わりなの。もうだめなの。だめなんだよお!」
もう、声も聴きたくない。
――聴きたい。
もう、顔も見たくない。
――そんなことない!
思い込む。今までの全てが勘違いだった。だってほら、隆明なんてなんでも、ないんだから。
――全部が、好き。
「なんでそこまで言うんだよ、桜」
名前で呼ばれると、嫌気がさす。
――くすぐったくなる。もっと呼んでほしい。
「言うんだよ。私、ずっと勘違いしてた。隆明、ずっと無理してたんだよね。気を使ってたんだよね。ありがとう。そして――」
その言葉を言ってしまうと、もう、引き返せない。
「さよなら!」
「待って! 桜!」
待ちたくなる。呼び止めてくれている。でも、それだって好きだからなんかじゃないんだ。だってあれは、違うんだから。依存、なんだから。それでもいいと思った、隆明の傍にいられるなら。でも、やっぱりやだ。だって、本当の好きになってほしい。だって、そうじゃないと――
「桜――」
振り返らない。歩いて進む。振り返ると、もうだめになってしまいそうで。
「約束、守るから」
約束、なんのことだっけ、そんなの、したっけ?
「きっと、インターハイに行くから。ううん、絶対君を、インターハイに連れて行くから!」
そう言えば、そんな約束もしたかなあ。
――覚えていてくれた、嬉しい。
違う! それだってただの気遣い。言葉の呪縛だ。だから、だから、だから!
もう、忘れてしまわないと。
――こびりついて、離れない。
だって、隆明なんて、そんな、たいしたこと――
声が好き。顔が好き。性格が好き。指の形が好き。髪質が好き。目が好き。頑張ってる姿が好き。脚が好き。ラケットを振っている姿が好き。微笑んでいる姿が好き。私の言葉を覚えていてくれるのが好き。不器用で情けないとこが好き。怒っているところが好き。名前呼ぶのにも時間がかかったのが好き。好きだよ。全部全部ゼンブゼンブ全部全部――
全部が、好きなんだよ!
もう、振り返っても、隆明は見えない。
――期待なんて、してなかったよ。
あんなにいっぱい言ったんだ。変な子だと思っただろう。もう付き合えないと思っただろう。
――本当は、もっと、もっと、話していたかった。名前を呼んでほしかった。声を聞かせてほしかった。手をつないでほしい、目を見てほしい、怒ってほしい、褒めてほしい、求めてほしい! 追いかけてきて、ほしかった。好きになって、ほしかった。
でも、後ろには誰もいない。だから、もう、本当に、終わり。
「あ……れ?」
また、涙があふれ出してくる。情けない。本当に勝手なんだ。自分勝手に好きになって、自分勝手にあっちも好きなんだと思い込んで、自分勝手に別れて、自分勝手に、追いかけてきてほしかったと思うなんて……。
あーあ。だめだな私。どこで間違ったんだろう。なんて、もうわかっている。
――最初から、間違っていたんだ、だめだったんだ。だって隆明は、傷を抱えてて、私は勘違いしてて。最初から、噛み合ってなくて、勝手に好きになっただけで、一方通行だ。
――フットフォルト。そう、私だけ、勝手に大丈夫な気になって、舞い上がって。でも本当は、足を踏み入れたその瞬間、もう、全部終わっていた。私は勘違いし続けた痛い子で、隆明はずっと、気を使い続けてきた。私のために、演じていた。
全部、全部失ってしまった。私には、隆明だけなのに。
ふわり、桜の花びらが目の前をよぎる。そうか、もうそんなになるんだ。桜は既に満開の時期を過ぎていて、風が吹くたび吹雪のように、桜の花びらが散っていく。
――どうせなら、全部散ってしまえばいいのに。
桜の樹の群の中の一本に近付き、背伸びして、細い枝と、それよりは少し太い枝を折る。
桜の樹の下で、私は桜の花びらに埋もれる。
それは綺麗で、穢れなくて。だから桜なんて、枯れてしまえばいい、散ってしまえばいいと、呪いながら。
またいつか