13
数日放置された生ごみによる悪臭が漂う湿気った路地裏にその烏は落ちた。
もう飛ぶ体力など残っていなかった。
その烏はただの烏ではなく、悪魔であった。名もなき、小さく弱い悪魔。
自分より格上の悪魔に喰われそうになって、命からがら何とか逃げたが、もう駄目だろう。同族に傷つけられて消えていくなんて、なんて惨めでちっぽけな終わりか。
悪魔ではない烏が集まってきた。こいつらに喰われるのか。嗚呼、なんて惨め。それならさっき悪魔に喰われた方が随分マシだった。
バササササッ!
突如、烏達が一斉に飛び立った。黒い羽根が舞い散る。
カツン、カツンという足音が近付いてくる。
見上げると長髪の美しい人間、いや、悪魔が立っていた。
ざわり、と鳥肌が立つ。
──圧倒的な力。上級悪魔の中でも更に上の位であろう。
一度だけ彼を見たことがあった。遠くから、悪魔達の中心に立つ彼を。
ルシファー。確かそういう名前だった筈。
ルシファーが歩く度に背から伸びた大きな翼から黒い羽根がひらりと舞う。烏のものとは違い、美しい漆黒の羽根。
一枚の羽根が烏の目の前に落ちた。
──この方になら喰われもいい。むしろ嬉しい。
しかし、ルシファーには彼を喰う気などなかった。
「哀れやな」
ぼそっと呟いた。そして、彼とは比べ物にならない烏の小さな翼にそっと触れる。
「俺ら悪魔は力がすべての世界。弱いもんは生きていけへん──ほんま、つまらん世界や」
その声には烏への憐れみなどは感じられなかった。
退屈さにすら飽き飽きしてしまった、生気のない声。美しく高貴な姿とは裏腹だった。
「だから、お前の運命とやらを歪めてやるわ」
バチッとルシファーの手から雷が走り、烏の身体に光が纏った。
全身に鋭い痛みが走る。
「あああああああ!」
絶叫し、悶え苦しむ。ビリビリとした感覚は暫く消えなかった。
ようやく痛みが収まった時、烏は自らの異変に気付いた。
「これ、は……」
──人間の姿になっていた。
それはすなわち、悪魔としての能力が上がったということ。弱い悪魔は人形を成すことはできない。
「アンタ……」
烏は赤い瞳でルシファーを凝視した。
どういうつもりだ。無言で問う。
「お前の死に行く運命をぶち壊したんや……お前に俺の力を与えた。今日からお前の主は俺や」
ルシファーはくすりと笑った。してやったり、という風に。
「ついでに名前も与えたるわ。赤目やから──ルビー」
*
卵焼き作りを阻止されたベルはルビーに促され、家の外の広場へ出た。
リナ達の姿はなく、どうやら教会の中にいるらしい。
ルビーに言われる間でもなく今からやることは分かっている。力を使う練習だ。
もう何十年も使っていない。天使だった頃の記憶を呼び起こす。
──出てこい
静かに念じようとした、が。ビクッと手が震えた。うまく集中できず、焦りからじわりと嫌な汗が背中に浮かんだ。
ルビーのわざとらしいため息が聞こえる。
「そんなにリナに嫌われるのがイヤなのかよ」
「……」
悔しいことに、そんなことはない!とは言い返せない。
悪魔の力を使ったくらいでリナは自分を嫌ったりなどしない。そんなことは分かっている。しかし、苦い記憶が蘇ってくるのだ。
悪魔に堕ちた自分を拒絶したサラ。サラとはちゃんと和解できたというのに、あの瞬間はトラウマになっているようだ。
ルビーはチッと舌打ちをした。
──情けない奴だ。
力が欲しくても手に入らない悪魔は多い。それなのにこの男は。
ずきっと胸が痛んだ。ルビーは手で胸を押さえる。しかし、すぐに消えた。
妙な違和感に首を傾げる。なんだったんだろう。
その時──
ゴウ、と突風が吹いた。はっと顔を上げると、黒い羽根が風に流され舞っている。
闇色の大きな翼がベルの背から伸びていた。
ズズ、と地面が揺れ、ボコリと土が飛び出てきた。
ムクムクと盛り上がり、それは次第に人の形を成していく。
不恰好な土人形が現れた。
「……やっぱり俺下手だな」
自らの不器用さにベルは苦い顔をした。
イメージではもっと綺麗な人形になる筈だが、いざ形にするとぼこぼこになってしまう。
「すげ……」
ルビーは思わず声に出していた。
さっきまでできないとウダウダ言っていたくせに、腹をくくればすぐにできてしまった。元々の能力が高いとはい、数十年のブランクを感じない。
やはり、この男──
「やっぱりアンタ……ただのへたれだったんだね」
「うるさい」
自覚はしているベルの耳は真っ赤だった。
「なんで急にできたの?」
ベルは口ごもり、視線を逸らした。
「……俺が戦えなきゃ、きっとリナはマモンに殺される。それに比べれば、嫌われた方がマシだ」
成る程、とルビーは目を伏せた。
*
「ちょっと……その悪魔はまだなにもしていないでしょ!」
カンナギの制止など聞こえていないかのようにエクソシスト達は悪魔を攻撃し始めた。悪事を働いていたというわけではない。その存在が『悪魔』であるという理由で。
──なんて残酷な。
まだ少女だったカンナギは先輩エクソシスト達の背中に向かって叫んだ。
「どっちが悪魔よ!」
それがきっかけだったのか。気を病んだカンナギはエクソシストであるにも関わらず、悪魔に憑かれた──。
未熟者、と仲間から罵られ、居場所を失ったカンナギが連れてこられたのは小さな街の教会だった。
そこの神父は、他のエクソシストとは違い、カンナギを馬鹿にすることなく話を聞いてくれた。
「俺もお前とおんなじ想いだよ」
ニッと力強い笑顔でカンナギの頭をワシャワシャと撫でた。
同じ考えを持った人間がこの世界にいる。孤独感からようやく解放された瞬間だった。
嬉しくて涙が出た。
「ありがとう、コウスケ」
自然と言葉が溢れた。
それからいくらか年月が経って、エクソシストに復帰してからも、カンナギは時折コウスケの教会を訪れた。
いつしか、教会であるにも関わらず悪魔まで居候にしてしまっていたコウスケを思わず笑った。コウスケのあの共感を示した言葉は嘘ではなかった。
小さなリナとルシファーが仲睦まじくじゃれあう姿は、カンナギの長年のモヤモヤした疑問をほどく優しい光だった。
悪魔と人間は分かり合える。
ここにはカンナギの求めた答えが在った。
それから程なくしてコウスケは死んだが、カンナギは変わらず教会を訪れた。
ある時、ルシファーがカンナギに提案をしてきた。
「うちの子と契約せぇへん?」
──うちの子?
ルシファーが口笛を吹き、呼び出したのは赤目の少年の悪魔だった。
普段教会には悪魔の姿はルシファー以外見えないが、たまにルシファーが自分の配下の悪魔を使っていることは知っていた。外出時のリナの身辺を守らせたり、情報収集させたりしているようだ。
「こいつはルビー。数年前に拾って俺の力を与えた」
ルビーはカンナギに軽く会釈をした。あまり愛想はよくない。
「エクソシストが悪魔と契約なんてしていいの?」
カンナギがハッと笑うと、ルシファーは参ったもんや、と肩を竦めた。
「外国のエクソシストの中には悪魔を使い魔にしてより力を手に入れとる奴もおる」
「へぇ」
それは初耳だ。
まあ危険も伴うけど、とルシファーは目を細めた。
「お前なら大丈夫やろ」
「え?」
「悪魔と分かり合おうとしているお前ならちゃんとルビーとも契約できるって言うてるんや」
そんなことを言われても、とカンナギは困惑したが、あまりにもルシファーの目が確信に満ちていて、何も言い返せなかった。
なかなか心を通わすことができずに、喧嘩も幾度となくしてきたが、気付けばルシファーの言う通り、唯一無二のパートナーとなっていた。