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「あなた、なんでルーを……!」
リナはキッとマモンを睨み付けた。マモンはうっすらと優しい、しかし薄気味悪い笑みを浮かべ、やあ、と手を上げた。
「初めまして、お嬢さん。いや、初めましてではないかな──?」
「え……?」
「一度お会いした筈ですよ、あの時は私は人間に憑依した姿でしたけど」
あっとベルは声を上げた。リナを迎えに行った夜、金欲に溺れた悪魔に憑かれた男に出会った。ロザリオを忘れたリナを連れてなんとか逃げたが……。
マモンはフフッと笑った。
「あの時、貴女を見てすぐに思い出しましたよ。貴女は実にそっくりですからね──」
「止めろ」
地に伏せていたルシファーがマモンの足首を掴んだ。
「それ以上は言うな……!」
「貴女は──」
「言うな!」
静かにしてください、とマモンはルシファーの背中を踏みつけた。ルシファーはうっと唸り、表情を歪めた。
「ルー!」
「リナさん、こいつの言葉を聞いたらあかん……!」
ギリッ。マモンは足に体重をかけた。
「うあっ!」
思わずルシファーから苦痛の声が漏れる。
「貴女は、私が殺した貴女の父親とそっくりですからね!」
え、とリナから小さな声が漏れた。
「てめえ!」
リナより先にベルが飛び出し、マモンを殴ろうと腕を振りかざした。マモンは「おっと」と言いつつも余裕の表情でベルの拳を手の平で受け止める。
「まったく、お嬢さんには悪魔の騎士が沢山いて困ったものです」
マモンは軽々とベルを投げ飛ばした。ベルは地面に叩き付けられることなく、なんとか着地はすることができた。
「悪魔としてはまだ未熟な貴方に私は倒せませんよ?」
「ちっ」
ベルは舌打ちをした。確かにそうだ。しかし、ルシファーは違うだろうに、何故……。
「なんでそんな簡単にやられてんだよ!」
ベルはルシファーに叫んだ。ルシファーはギリッと唇を噛み締めるだけで何も答えない。
マモンはおや、と目を細めた。
「貴方は気付いていないのですね?」
「何を──」
マモンはベルにニコリと微笑みかけた。
「ルシファー殿は今、悪魔の力を三分の一しか使えないのですよ」
はっと気付く。そういえば、ルシファーはまだ羽根を出していない。悪魔の力を完全に解放していないという証だ。
「俺は、コウスケに頼んで悪魔の力をほとんど封印してもらったんや……コウスケがいない今、俺はもう昔のようには戻れへん」
ルシファーは自嘲気味に笑った。後悔はしていないのだろう。しかし、不甲斐ない自分が情けないという表情だ。
マモンは右目の包帯をはらりと外した。石化した瞳が現れる。マモンはそれをツウ、となぞった。
「貴女の父親に右目を潰されましてね……仕方ないので自分で処置を施しましたが、もうこちらは見えません」
ぎらり、と左目が赤く光った。
あかん、とルシファーは短く叫ぶ。
「そいつの目を見るな!」
ぎん、と足に衝撃が走る。はっと見ると、足首から下が硬い石に覆われていた。
「っ……!」
「邪魔はしないでくださいね?私が用があるのはお嬢さんだけですから」
ぽん、と動けないベルの肩を叩き、マモンはベルの背後に立つ硬直したままのリナに近付いた。
「リナ!」
逃げろ、ベルは叫んだ。
リナに用がある──つまり、右目の仕返しをする気だ。
バシャッ!
水がマモンに飛び散る。ジュワ、と熱い煙がマモンの身体から上がった。
「ぐっ!」
マモンから笑みが消え、苦痛に歪む。
リナはハァハァと肩で息をしていた。手には聖水の入っていた小瓶。
リナはすぐさまロザリオを取り出し、十字架をマモンに押し付けた。
「神よ、我に祝福を──」
よろめいていたマモンの目がカッと見開く。そして、十字架を握るリナの腕を掴んだ。
ギリギリと捻りあげ、リナの腕が背中に回される。
「いっ……!」
あまりの痛みに、リナは悲鳴すらあげることができないようだ。
「さて、捕まえましたよ」
マモンはにたりと笑い、リナの身体を引き寄せた。そして、愛しげにリナの顎を掴む。
「そういえば以前も貴女には聖水をかけられましたね。素晴らしい反応です」
「っ……」
痛みから反射的による涙が目に溜まっている。
今すぐ助けに行きたいのに──ベルの足は動かない。
バチン!
リナとマモンの間に雷が弾けた。
瞬時にマモンは飛び避け、リナを突き飛ばした。
バチッとベルの足元でも雷が弾け、ガラガラと割れた石が剥がれていく。
「ベル!リナさんを連れて教会の中へ入れ!」
雷を起こした主であろうルシファーは、地面に倒れたままだが気迫の籠った大声でベルに怒鳴った。
ベルは倒れたリナを抱え、教会の中へ飛び込む。
その瞬間、ガン!と激しい音と共に光の壁が教会の前に現れた。
「これは……結界」
ベルとリナの後を追おうとしていたマモンはぴたりと足を止めた。
「せや……コウスケが残していった非常時用のお土産」
ルシファーはにやりと笑った。
「これに触れたら俺すらも吹き飛ばされる程の強力なもんやで」
「成る程……この場は諦めるしかなさそうですね。しかし」
マモンはルシファーの髪を掴み、引っ張り上げた。
「貴方はどうする気です?」
「俺は……構わへん」
ルシファーは優しげに目を細めた。
「リナさんはもちろん、ベルすらももはや俺の妹弟みたいなもんや。守ることがお兄さんの使命や」
ルー、と結界の向こうでリナは呟いた。
マモンはちらりとそんなリナを見た。
「成る程……しかし、それは彼女達にとっても同じ、ということを貴方はちゃんと理解していますか?」
「ルー!」
リナが叫ぶ。結界から飛び出そうとするリナをベルは必死で押さえた。
「落ち着け!」
「嫌だ!ルー!ルー!」
リナからボロボロと涙が落ちる。小さな肩はブルブルと震えていた。頬からは血の気がひき、青白くなっている。
「嫌だ!私を置いていかないでよ……!」
はっと気付く。
──リナは恐れている。父と同じようにルシファーを奪われることを。
まさに、それはトラウマのようにリナを支配しているのだ。
マモンはルシファーを担ぎ上げ、教会に背を向け去っていく。
「ルシファー殿は私が預かります──またお会いしましょう」
マモンの姿が霧の中へと消えていく。
暴れるリナをベルは押さえ込むように背中から抱き締めた。
「落ち着け、リナ!」
「いや、いや……!」
「ルシファーは大丈夫だ!」
ゆっくりと言い聞かせる。
あの場でルシファーを連れさらったということは、少なくとも今は命を奪う気はないということだ。
ルシファーは人質。再びリナが自分の前に現れる為の材料。あの男の真の目的はリナなのだから。
はぁ、はぁ、とリナの呼吸が小さくなった。
「……私」
リナの小さな声は震えていた。ベルの腕をきゅっと掴む。
「祓おうとしたとき、躊躇ってしまった……一番憎い相手なのに」
──エクソシストにはなれない。
夏祭りの夜、そう呟いたリナ。
ベルが始めてみたエクソシストとしてのリナには、悪魔に対しての情など一切なかった。そんなリナに何か心境の変化があったのだろうか。
「……家に戻ろう」
ベルはようやく腕を緩め、リナを解放した。敵が去ったからなのか光の結界もいつの間にか消えている。
リナはこくん、と頷いた。
二人は教会を出て、離れの家へ向かう。
玄関を開ければいつだって出迎えてくれた「おかえり」という声はない。
ぼうっとリビングで立ち尽くすリナに何と声をかければいいのか分からない。
「あ、えっと……飯にするか」
独り言のように呟き、キッチンの前に立つ。ルシファーのテリトリー。彼が愛してやまない場所。
冷蔵庫を開けて、何を作ろうかと思案する。
不器用な自分でも作れそうなメニュー。
「……」
ベルは思わず頭を抱えた。
何も思いつかない。そもそも、自分でも作れる料理なんて存在するのだろうか?
背後でクスッと笑う声が聞こえた。振り返ると、リナが泣き笑いのように、しかしようやくリラックスした表情をしていた。
「私だって少しくらいなら料理できるよ?ルーほどじゃないけど」
リナはベルの隣に立ち、冷蔵庫を覗き込んだ。
「そうだよね、前に進まないと」
そこにはもう暗い表情などなかった。
リナのその強かさに驚き、そして羨ましいとすら感じた。