10
「そういえば、最近レヴィ見掛けないんだ」
朝、ルシファーの作った味噌汁をすすりながらリナはぼやいた。
「いつから?」
「夏祭りの日」
──あの日からか。
ベルは少し考えた。あのお調子者の性格からして、気分が変わったから帰ったのだと思っていたが、夏祭りから一週間経っても現れないとなると、何かに巻き込まれたとも思える。しかし、またふらっと現れるようにも思えた。
「ほらリナさん、はよ食べな遅刻するでー」
自分の茶碗にご飯をよそいながら、ルシファーは時計を見た。あっとリナは声を上げ、慌てて味噌汁を飲み干す。
「ベルも今日は買い物行ってもらうから、食べたら支度してや」
「はいはい」
最近のベルの役割は買い物である。不器用なベルは他の家事はうまくできない為、ルシファーも任せようとすらしないが、買い物は不器用でもできるやろ、とルシファーに押し付けられている。
「行ってきまーす!」
リナが玄関を飛び出していくのをルシファーは笑顔で見送り、ベルの前に買うものを書き出したメモを置いた。
「いつものスーパーと、ちょっと遠いけど精肉店に行って欲しいんや」
「分かった」
ベルは頷き、メモをポケットにしまった。
残りの朝食を食べ、出掛ける支度をする。
玄関に向かう前にルシファーをちらっと覗くと、鼻歌を歌いながら上機嫌で洗い物をしていた。
──どう頑張っても、悪魔のリーダーだった男には見えない。
ルシファー同様、人間のようにのほほんと過ごしている自分だって悪魔っぽくはないのだが。
「行ってくる」
声をかけると、おーう、と呑気な返事が返ってきた。
*
ベルが出掛けたのを気配で察する。ルシファーは最後の一枚である皿の水滴を布巾で拭き取り、ふう、と息をついた。
「行ったか」
テレビのリモコンを手に取り、チャンネルを回していく。昨日からテレビは全く見ていない。いや──見せていない。
ぱっとニュースが映った。女性キャスターが深刻な表情で早口に手元の資料を読んでいた。
『現在も犯人は銀行に立て籠っており、人質も昨日から解放されていません』
『金を出せ!』と血走った目で喚く男が映る。時折奇声や笑い声も混じる狂気的な映像は見ていて心地よいものではない。
テレビを消し、家を出る。教会に入り、「コウスケ」と友の名を呼んだ。
「お前の残して行ったお土産、使わせてもらうで」
ルシファーは哀しそうな笑みを浮かべ、「じゃあな」と呟いた。
まるで最期の別れを告げるように。
恐怖のせいで全く心が休まらない人質達は、すっかり疲弊していた。それは常に神経を尖らせている犯人も同じ筈だが、依然として目はギラギラしていて殺気に満ちている。
時折人質の方を向いて包丁で脅す。
「変な真似はすんじゃねーぞ!」
人質の中には銀行員以外にも一般の客もいる。若い女性などは顔色が蒼白で可哀想な程震えている。
運悪く、犯人はその女性に目をつけてしまった。
近寄ると女性はきゃ、と悲鳴を上げた。
「動くなっつってんだろーが!」
犯人は女性に包丁を突き付けた。刃が白い頬を掠め──
「え?」
犯人は目を見張った。
女性に包丁は届いておらず、それどころか手は全く動かなかった。
はっと手首を見ると、第三者の手がぐっと力強く掴んでいた。
「よっ」
軽い調子で第三者──ルシファーが片手を上げる。
「貴様、人質の中にはいなかった……!どこから入ってきた!」
犯人が激しく動揺を見せる。ルシファーはふん、と鼻で笑った。
「どこからって……『俺ら』にその説明は必要か?」
ぴくり、と犯人の頬が動く。そして、にたり、と笑った。さっきまでの狂気じみた表情ではない。新しい玩具を見付けた子どもの表情。まるで別人だ。
「ああ──そうだな」
犯人がそう呟いた瞬間、ぐるりと白目を向いた。
「ああああああああ!」
奇声を上げ、ガクガクと震え出す。そして、糸が切れたマリオネットのようにガクンと崩れ落ちた。
黒い煙が犯人の身体から溢れ、取り囲む。それは次第に形を成し、人形になった。
「初めまして、ルシファー殿──私はマモンです」
恭しくマモンは会釈をした。ルシファーはフンと鼻から息を吐いた。
「初めましてやけど、俺はちゃあんとアンタを知っとりで」
「そのようですね、私も貴方を知っていますし」
もっとも、とマモンはきゅっと口角を持ち上げた。
「私が用のあるのは貴方ではないのですが?」
知っとるわ、とルシファーは口をへの字にした。
「分かりやすい悪魔憑きの人間演じやがって……あれでリナさんを誘き寄せようとしたんやろ」
リナさん達にテレビ見せないの、苦労したんやで、とルシファーは肩を竦める。
リナにマモンと会わせるわけにはいかなかった。
「私は彼女にお礼をしたかったのですがねぇ。彼女も私に会いたいに違いありませんよ?」
ルシファーはマモンを見据えた。
「会いたいとか気色悪い言葉使うなや。お兄さんはこんな男は認めませんよ?」
「つれないですね」
マモンはクスクスと笑った。
「貴方は彼女が大切なんですね。同じように彼女も貴方が大切なんでしょうね」
「……」
ルシファーは答えない。
──大丈夫や。リナさんはもう一人ではない。アイツがいる。
そう自分に言い聞かせる。
パチッと手の中で刺激が走る。
タン、と床を軽やかに蹴った。バチバチと激しい光が手から溢れる。
ルシファーは自らの手で生み出した雷をマモンにぶつけた。
バチン!
反応よくマモンは石の爪を地面から出現させ、雷を防ぐ。石に阻まれた雷は分散され、散り散りに飛んだ。
マモンはくすりと笑った。
「そんな身体で私を倒せるとでも?」
ルシファーははん、と鼻で笑った。
「やってみな──」
バチッ!
雷が手元で弾ける。
「分からんやろ!」
*
「ただいま。あれ、ルーは?」
学校から帰ってきたリナは、いつもなら当然のように迎えてくれるルシファーの姿がないことに首を傾げた。
「俺が買い物から帰ってきたときからいないんだが……」
ベルも不審に思っていた。こんなことは少なくともベルがここに住むようになってから一度もなかった。
ルシファーが自分で言っていたように、ルシファーは「リナの唯一の帰る場所」であるこの家を守っている。故に、極力外出をしたがらない。
そんなルシファーが何時間も帰ってこないのは異常だった。
ズゥン……
家の外で地響きがした。ハッと二人は家を飛び出す。
巨大な尖った石が地面から突き出ていた。その下に、黒い羽根を広げた隻眼の男が立っていた。そして、その男の足元には──。
「なに……!」
ベルは息を呑んだ。目の前の異常事態に。
「ルー!」
リナは叫んだ。
隻眼の男に長い髪を掴まれ、引き摺られていたのは、ボロボロのルシファーだった。