空のサカナ
朝、アラームの音で目が覚める。雨季特有の蒸し返した空気を入れ替えるために窓を開けると、イワシの群れは口をパクパクとさせながらのんびりと入ってきてから、部屋を一周し、また出ていった。今日は湿度が高いからかなり内陸の方まで回遊しているみたいだ。僕は出ていったイワシたちを後目に寝まきから制服に着替えて、一階に下りていった。
「おはよう」
「おはよ……」
リビングには既に姉の有紀がいた。いつも通り眠そうにしながらパンを咀嚼している。
「あ、そうだ、今日はこの辺にもジンベイザメ回遊してくるかもだって」
「本当に?」
「さっき町内放送で言っていたよ」
これは願ってもいないチャンスだった。ジンベイザメがこの辺りまで来る、僕の頭はそのことでいっぱいになった。ここ数年間この辺りまでは回遊してこなかったジンベイザメがくる、これほど幸運なことは無いだろう。
「ねえ、ぼーっとしてないでさっさと食べて学校行かないと。聞いているの?」
「あ、ああ、ごめん」
「いくらジンベイザメが来るからって学校さぼっちゃ駄目だからね。それに予想では今日の四時、通過予定だし」
「分かっているって」
本当は通過予定が三時よりも前だったら学校をさぼるつもりだったが、口には出さない。出せば有紀の小言が始めるだけだというのは目に見えているから。
「心配だな……」
有紀はそう言いつつ、自分の食べ終わった食器を流し台に持っていく。
「一緒に洗っちゃうから早くしてー」
キッチンの方からそんな声が響く。僕は急いでパンを牛乳で流しこみ、食器をキッチンに持っていった。
両親が共働きで早朝からいないうちでは有紀が基本的に家事をしている。そんな姉を手伝おうとするのだが、いつも大丈夫だから、と言われて手伝わせてくれない。それでも有紀より早く帰宅できた時は洗濯物を取り込んでおいたり、風呂を洗っておいたりと出来る限りのことはしているつもりだ。
「カイ、そろそろ行くよ」
有紀が手をタオルで拭きながら言った。
「分かった」
僕はリビングで鞄をとって玄関に向かう。靴を履いていると遅れて有紀も準備してきたようで、小走りで玄関に来た。
「じゃあね」
「うん、いってらっしゃい」
私立の女子高に通っている有紀は駅を利用するため、自転車で通学している僕とは毎日、玄関先で別れている。有紀と別れた僕は、駅とは反対方向に自転車を走らせる。空にはイワシとそれを追っているサバの群れが過ぎていった。
***
土手沿いの道に出た。鉄道の鉄橋が見えてきた辺りで僕は一度自転車を止めて首に滴る汗を拭いた。今日は天気が良いので比較的に遠くまで見渡す事が出来るが、暑いのはもう少し勘弁して欲しい。でも暑いおかげか、遠くの方には珍しくシイラの群れが泳いでいるのが見ることができた。
「海人、お前何しているの?」
振り返ると不審そうな顔をした猛がいた。中学時代からの友人で、彼も自転車通学なのでよく一緒に帰ったりする。
「猛か。いや、珍しくシイラが泳いでいたからさ、つい」
「お前、変わらないのな……」
猛に苦笑されてしまった。
「そうかな……。これでも昔と比べたらましになった方でしょ」
また視線をシイラに戻してからそう返す。シイラの群れは獲物を見つけたのか高速で泳いでいき、見えなくなってしまった。
「いや、そうでもないと思う。あとお前、時計見てないだろ。結構時間やばいよ?」
言われて腕時計を確認する。確かにそろそろ行かないと学校に遅刻してしまう。
「よし、行こう」
そう言って僕はペダルをこぎ始めた。猛も後ろから着いて来る。
「そういえばさ、今日の夕方にジンベイザメが回遊してくるらしいな」
「らしいね。かなり久しぶりだから凄い楽しみ」
「やっぱ変わらないわ、お前」
本日二回目の苦笑。そんなに変わってないのかな、なんてことを考えながらペダルをこぎ続ける。学校にはなんとか遅刻直前ではあったが教室に滑り込む事が出来たので結果よしということにしよう。
***
昼休み、僕は階段を上り屋上に出る。学校は安全のため屋上に行く事を禁止しているが、今のところばれた事は一度もない。僕はドライバーで鍵のネジを緩めて、外してしまう。古い鍵だったからこそ出来る芸当だ。その小さめの窓を開けて、そこから屋上に出る。そしてその窓のそばの梯子をよじ登り、給水タンクの上を陣取る。
双眼鏡を使い、僕はここから南の方角を見た。時間になったら南の方角からジンベイザメが姿を見せるはずだが、残念ながらまだ姿を確認する事は出来なかった。
「……何しているの?」
「わっ! なんだ、水島かよ」
隣から突然声を掛けられてびっくりした。双眼鏡でジンベイザメ探すのに夢中で、隣に立っている彼女の事に気が付けていなかったから余計に、だ。これが鬼教師だったらと思うと少しぞっとする。
「女子更衣室でも見ているの?」
冷めた目でそんな事を言ってくる。
「いや違うわ」
「本当に?」
流石に少し戦況が不利だと感じた僕は少し無理矢理だが、話題を変える事にした。
「なんでここに来たの?」
「だって、そこからここによじ登っているのが見えたから」
そう言って彼女は隣接する二号館の校舎を指さす。
「まじか……」
思わず絶句。一年間ばれていなかったのは奇跡だったのかもしれない。ふうっ、と一つ息を吐いて座り込む。
「ところで本当に何を見ていたの?」
水島は僕の隣に座ってそう言った。やはり暑いらしく首筋には汗の粒が見える。
「今日の夕方、ここまでジンベイザメが来るって聞いたから、もう見えないかなって思ってさ。あとは日課の観察作業」
「観察って何の?」
「この辺に回遊してくる青魚とか、たまに浮遊しているクラゲとか」
そう言って空を見上げた。今日ほど気温が高い時はイワシやアジみたいな小型の回遊魚が群れをなして活発に泳いでいる。
「それって楽しいの?」
「珍しいやつを見つけられた時は特にね」
色々答えてみたがあまり興味はないようだ。丁度階下からチャイムが聞こえてきた。授業開始十分前の予鈴だ。僕は教室に戻るために梯子を降り始める。
「ねえ、ジンベイザメってさ、乗れる?」
突然彼女がそんな事を言ったのはその時だった。
「……いけるかも」
あの彼女の一言のせいで僕は午後の授業の内容は一切頭に入ってこなかった。
***
午後三時十五分、六限の授業が終了した。情報によるとジンベイザメの予想進路にうちの高校が当っているらしい。
「絶対やめておいた方がいいって。第一乗ったとしてどうやって降りるんだよ」
「コバンザメを伝って」
「馬鹿じゃねえの、お前……」
猛にはこんな感じで反対されているが、それでも俺はやる気だった。
僕は少しでも高い位置から飛び降りて乗るため、昼休みと同じく屋上の給水塔の上によじ登った。三時三十分、もうあの巨体はこの位置からなら双眼鏡を使わずとも肉眼で確認できる。時速は約五キロ前後。ゆっくり、ゆっくりと大きなひれを動かしてこっちに泳いでくる。その姿は昔映画で見た、空を飛ぶ絨毯のような、そんなものを連想させた。
「お、見えてきたね」
いつの間にか隣には猛のほかに水島も来ていた。
「止めておいた方がいいと思うんだけどな……」
「大丈夫だって。そんなへまはしないつもりだし」
そんな事を話していると、ジンベイザメはもうすぐそこまで来ていた。大きさは約二十メートルくらいだろうか。確か過去に発見された個体で一番大きかったのは二十二メートルのはずなので、それと同じくらい大きな個体と言う事になる。
僕たちは言葉を失っていた。怖いからではない、魅了されていたのだろう。大きな体をゆったりと動かしながら泳ぐその姿と雰囲気に。気がつくとジンベイザメは僕たちの真上を泳いでいた。お腹の模様もそこにひっついているコバンザメの一匹一匹もはっきりとわかるくらい近くを。
「……凄かった」
「うん」
ジンベイザメが泳ぎ去った後も、僕たちは暫く黙ったままだった。
***
「じゃあな」
「じゃ」
土手を降りたところで僕は猛と別れた。まだ夏と言う事もあって日はまだ高い。頬を伝う汗を拭いながら家へと向かった。
「あ、カイ! おかえりー」
「ただいま」
丁度有紀も帰って来たところだったらしい。手にはスーパーの袋を持っている。手がふさがっている姉さんに代わって僕が鍵を開ける。
「そういえばさ、ジンベイザメどうだったの?」
「なんか、凄かった」
「どんな感じに?」
「乗ってみたいな、って思うくらいに」
僕はドアを開けてそう言った。
「まあ、本当に乗ろうとしないでよ? こっちが怖いから」
多分その言葉を守ることは出来ない、僕はそんな気がした。