レッドアイ
僕は昔から運動が苦手だった。体育の成績は言うに及ばず、運動部にも入ったためしがない。大学でも文芸同好会に所属していて、体力が平均以下だと自覚している。二の腕の筋肉を膨らませることができる人は尊敬に値する。
「疲れた?」
彼女の囁き声で軽い自己嫌悪から覚める。
「うん、少し」
正直に答えて後悔した。こういうときは嘘でも大丈夫というべきだろう。
「休んでていいよ」
田村絵美は毛布を引き上げ、肌を合わせてきた。まだ火照った身体が熱い。腕枕をするとき、彼女の肘の内側が湿っていることに気づいた。僕の背中も汗をかいていた。
汗臭くないだろうか。
首を曲げて自分の匂いを嗅いだ。大丈夫そうだ。
「友之の匂い、好きだよ」
心が読まれたようでどきりとした。あわてて彼女の顔を見ると、目を閉じていた。
空耳だったのか。
僕は釈然としないまま、疲労に負けて目を閉じた。
筋肉のついていない腕の内側。
やわらかくて白い皮膚。
ちくりとする。
小さな痛みは夢の中に消える。
朝起きると、絵美はいなかった。
こたつの上にメモ紙と一緒に弁当が置いてあった。
一限から講義だから先に行きます。菓子パンばかりじゃ飽きるでしょう。今日はお弁当作ったから食べてください。
「ありがとう」
感謝の言葉は冷えた空気を白くする。
鳥肌が出てきたので、だるい身体を引きずってシャワーを浴びた。
「あれ、まただ」
手のひらが二の腕の傷に気づいた。内側の白い肌にふたつの傷。こすると若いかさぶたが剥がれて血がにじんだ。
「なんかいるのかな」
蚊にしてはかゆくないし、腫れてもいない。悪い虫でも潜んでいるのだろう。
「やばい」
風呂場の外に置いておいた携帯が鳴った。起床のアラーム音。のんびりしていると遅刻だ。
「田村さん、おはよう」
大学の廊下で絵美を見つけた。
「おはよう、小西くん」
少し距離を置いた挨拶を交わす。友人や同好会のみんなは僕らが付き合っていることを知らない。聞かれれば答えるつもりだったが、今のところ誰も気づいていない。冷やかされたくなかったから、僕はこの状態がちょうどよかった。
「これから世界史の講義だよね。ちゃんと出席しないとダメだよ。代返はNG」
「わかってるよ、田村先輩」
彼女は一年先輩だ。だから僕のカリキュラムも、世界史の教授のクセも知っている。
彼女のお節介なところは嫌いじゃない。人によってはうるさく思うだろうが、僕は感謝している。気遣ってくれているのがわかるから素直に受け入れられる。
「よろしい」
彼女は廊下の先で待つ友人に手を振った。
「またね、友之」
絵美は囁きを残して駆けていった。
「あとで」
去り際に触れた左手の小指同士が名残惜しげに離れる。
文芸同好会の集まりに顔を出し、期限の迫っていた短編を提出した。一ヶ月に一回、こういった締め切りがある。提出された短編をそれぞれが読み、評価し、上位数名の作品を次の会誌に掲載する。会誌は学食や駅前の喫茶店に置かせてもらっている。僕らのささやかな活動だ。
「小西。もう提出した?」
「うん、さっき出したよ。三輪は?」
「今回はパス」
同じ学部の三輪法子は癖毛を撫でつけながら僕の隣りにどっかり座った。
彼女は少しがさつなところがあるが、作品は細やかな描写が多く落ち着いていた。物語の世界観もくっきりとしており、書き慣れていることがよくわかる。作品を評価する回し読みは作者名を伏せる慣例だが、彼女の短編はすぐに書き手がわかるほど安定したクオリティだった。
「なんだ、楽しみだったのに」
大学に入って物語を書き始めた僕にしてみれば、彼女のしっかりした文章は憧れだった。毎回、彼女の短編を心待ちにしている。書き方の勉強にもなるし、何より世界に引き込まれる。
「そうなの? なんか、ありがとう」
ぶっきらぼうに言って彼女は目を逸らした。褒められて恥ずかしいのだろう。尊敬していると言ったら逃げ出しそうだった。
「そうだ、小西。世界史のノート貸してくれないかな。先週、バイトで講義に出られなかったから」
「いいよ」
彼女は講義を真面目に受ける学生だった。少しくらいサボってもいいという考えはないらしい。以前にもノートを借りる姿を目にしたことがある。
「ありがと! 今日はこれからバイトだから、今度、お礼するよ」
三輪は早足で部屋を出て行った。急いでいるというよりは落ち着きがない。珍しい行動だ。そんな姿を他の同好会の面々も不思議そうに見送った。
ワンルームのドアを開けると、絵美が夕食の準備をしていた。
実家住まいの彼女が週末だけ泊まりに来ていた頃から数えると、同棲生活は半年を過ぎる。今や彼女の手料理を食べるのが日課になっていた。
「今日は冬らしく、牡蠣鍋です」
「いいね。あったまる」
空になった弁当箱をシンクに置いて、上着を脱いだ。部屋の温度に震える。
「寒くない? エアコンつければいいのに」
僕はエアコンのスイッチを入れ、うがいと手洗いをする。蛇口から出る水も冷たい。給湯器も電源が入っていなかった。
「ごめんごめん。火を使ってたから気づかなかったよ。あ、本当だ、寒いね」
絵美は思い出したように手を合わせた。
「絵美は寒さに強いな」
僕はスカートから伸びる脚に目を泳がせた。中高生と見紛うしなやかな素足だ。
「何見てんの。やらしい!」
少し頬を染めた彼女がかわいい。
「ごめん。絵美って北国の生まれだっけ?」
この寒さが平気となると、子供の頃から鍛えられているのかもしれない。大学生活のことはよく話すが、家族のことは聞いたことがなかった。
「私は東京生まれの東京育ちだよ。あ、でも、お祖父ちゃんが北欧出身だ。だからかな、寒いのは平気。夏の炎天下のほうが苦手」
「え、クォーター? すごいじゃないか!」
僕は驚いた。学校の先生は別にして、外人が身近にいたことはがない。ハーフでもクォーターでもこんな近くに外国を感じられて、物珍しさが先に立った。
「すごくないって。私、日本語しか喋れないもん」
「なんだ。英会話の勉強になると思ったのに」
ふて腐れた絵美の機嫌を取るために、僕は精一杯おどけてみる。
「お祖父ちゃんの母国語は英語じゃないよ。あっちでも第一外国語は英語で日本と同じ!」
返す刀で切り返されて僕は苦笑いを浮かべた。
大学の図書館は閑散としていた。
試験前ならいざ知らず、平日は本好きしか集まらない。時間を潰すのは学内のカフェか学食が相場と決まっていた。
僕は講義の合間に同好会で書く短編のネタ探しに来ていた。書棚から目についた本を数冊抜き取り、個室の机の上で広げてみた。そうしては見たものの、陽気が良いせいか目蓋が重くなってきた。
うつらうつらしたところで、ドアがノックされた。
「三輪」
縦長のガラスの向こうに三輪法子が手を振っていた。
「やあ」
立ち上がる前に彼女が個室に滑り込んできた。二畳もない狭い室内に二人が入ると、窮屈になる。椅子もひとつしかないから彼女は立ったままだ。
「資料探し?」
机に広げた伝奇小説を彼女は取り上げた。
「今度はホラーっぽいの書こうと思って。今までどんな話があるのか調べてた」
僕は少し早口に答えた。というのも、今日の三輪はいつもの癖毛がなりを潜め、化粧っ気もあったからだ。唇の濃さが妙に女らしい。香水もつけているようで、心臓の鼓動が早くなる。
「日本だと口裂け女や首なしライダー。西洋は狼男、吸血鬼とかが一般的」
屈み込んだ彼女の胸元が目に入る。
「え、うん。そうだね」
僕は冷静さを失わないように努める。お陰で彼女の言葉が耳を素通りした。
「あのさ、小西」
三輪の声が震えていた。もしかして胸を見ていたことに気づかれたのか。僕は怒られることを覚悟した。
「この間のノートのお礼をしようと思うんだけど」
「え、ああ」
彼女は気づいていなかったようだ。
「それと、頼みもあるんだ」
「頼み?」
「同好会の短編。行き詰まっちゃって」
三輪はしゃがみ込んだまま、囁くような小さな声を出した。この間の提出をパスしたのは書きかけの短編がうまく書けなくなったからという話だ。
「キーパーソンが風俗嬢なんだけど、どう書いたらいいかわからなくてさ。それで小西に頼もうと思ったのよ」
「風俗嬢か」
頼むと言われても困った。男ならみんな風俗に行ったことがあると思っているのかもしれないが、あいにくと僕はそういった店に出入りしたことがない。経験がある振りをしてもすぐにぼろが出る気がする。
「ごめん。僕は風俗に行ったことがない」
恥ずかしかったが正直に答えた。適当なことを言いつくろっても、彼女の作品のクオリティが下がってしまう。そんなことは一読者としても、同じ書き手としてもすべきじゃない。
「違うの」
三輪の手が僕の太ももに乗った。しっとりと汗ばんでいるのがジーンズを通して伝わってくる。
「男から見てじゃなくて、女――風俗嬢の心情が知りたいのよ」
僕は合点がいった。
三輪がいつもより女らしくしているのは、少しでも風俗嬢に近づこうとしているのだ。彼女の思惑とは裏腹に、派手さや華やかさに欠けているのはうまくいっていない証拠だ。
「だから、小西に、してみてもいい? ノートのお礼になるかわからないけど」
何を、と聞く前に彼女の手が股の付け根に伸びた。
「小西なら彼女がいるから大丈夫よね」
三輪の手の動きに戸惑いながら、絵美の存在に気づかれていることに驚いた。彼女の小説と同じで僕たちの些細な行動が目についたのだろうか。
「今日だけだから。ちょっと、するだけだから」
彼女は言い訳のように呟いた。
「どうすればいいか、教えて」
跪いた三輪は顔を埋めた。
僕は彼女が何をしようとしているのか理解し、頭に血を上らせた。
そして、息を潜める。
罪悪感を抱えたまま午後の授業に出た。
ひとときの興奮が過ぎれば重く垂れ込めた気持ちが僕を押し潰した。身体には三輪の感覚が残っている。数メートル向こうに座る風俗嬢見習いの背中はいつもと変わらない。
「くそっ」
心の中で毒づいた。三輪は何を思ってあんなことをしたのだろう。同好会の短編小説のために、彼氏でもない男にできることなのか。
ありがとうと三輪は喉を鳴らして言った。唇を拭いて笑った彼女にがさつさはなく、胸を騒がせる女になっていた。
やられてしまった。
そんな思いがプライドを逆撫でする。
絵美にもされたことがない行為は、初めてだからこそ、深く脳を刺激し続けた。一時は満足した下半身の疼きが今になって騒ぎ始めた。
僕はいても立ってもいられず、授業を抜け出した。
左腕に痛みを感じた。
まただ。
苛立たしげに腕にとまっている虫を叩き潰す。しかし、そうはならなかった。右腕が上がらなかった。僕は絵美を腕枕していたことを思い出し、肩を回して腕を引き抜いた。
抜けない。肩だけでなく、腰も回らない。まさかと思って足先に意識を向けたが、ぴくりともしない。
金縛りだ。
何度か経験したことがある。それより少し違和感があった。熱を出したときのように、身体にふわふわした膜がまとわりついている感じだ。ねっとりとした水の中に放り込まれた状態と言ってもよい。
金縛りになった時、音は聞こえていた。今は耳に綿を詰め込まれているようで聞こえづらい。身体が動かないことで目蓋も開けられない。虫刺されに気づいたことで痛覚があったのはわかる。その痛みもいつの間にか去っていた。代わりに別の感覚が渦を巻き始めた。
快感。
僕は思わず吐息を洩らした。虫に刺されたはずの二の腕が性感帯になっていた。腕を通して背筋に抑えられない衝動が走った。脳がじんじんと刺激される。こんなことは初めてだった。
昼間、図書館で三輪法子にされた行為とオーバーラップする。尊敬する人からのお礼――試行錯誤の実験をされた。どうすれば気持ちいいのか。どこが一番感じるのか。上目遣いに質問されながら観察された。屈辱的でありながら支配欲を感じた。終わった後に湧き起こったのは虚しさと燻る情欲だった。それを消してしまいたくて、絵美を乱暴に抱いた。
二の腕の感覚は僕の頭を混乱させる。
やめてくれ。
脳がはち切れそうになる。
やめないでくれ。
三輪のぎこちない舌使いよりも、絵美の中に入るよりも、気持ちよくてたまらなかった。筋肉の薄い柔肌が男性器でも女性器でもない何かに変わっている。
男の部分が反応し、感情が暴れる。
堪えきれず、声が出た。理性が弾けた。
快楽に身を委ねる。身体がふわりと浮かび上がった。
僕は受け入れた。絵美と三輪を差し置いて、得体の知れない何かから得られる喜びを。
音が戻ってきた。ベッドが軋んでいた。
鼻が利いてきた。近くで血の匂いがした。
目蓋が開けることができた。
左腕のところにそいつがいた。
「ひっ」
見てしまった。
小さな虫なんかじゃなかった。もっと大きな物体が腕をまさぐっていた。
頭が真っ白になる。
逃げる。身体が言うことを聞いてくれない。
自分の臆病さと筋力のなさを嘆いた。普通の男なら突き飛ばすことができたはずなのに、僕にはできない。弱くて、惨めな存在だからだ。
嘘だ。
僕は力が強くないことを言い訳にして、被害者ぶっているだけだ。心の底では快楽に溺れることを望んでいる。罪悪感を感じても、本当は望んでいる。図書館で三輪にもっとして欲しかった。些細な実験で終わりにせず、最後までしたかった。絵美に黙って別の女を抱いてみたかった。
絵美。
僕はぞっとした。彼女は今どうしている。僕が何者かに襲われているのなら、腕の中にいる絵美に気づいているはずだ。
どうしているのか確かめなくてはならない。
絵美にバレてないことを確かめないといけなかった。
首を回した時、二の腕に取りついていた何かが動いた。
赤い目。
ぎらついた二つの瞳が揺らめいて、遠ざかった。
叫びがした。
そいつは毛布に絡まり、もつれて転がっていた。
見えてしまった。僕は見てはいけないものを見てしまっていた。
「絵美」
紅色の唇。
朱に染まった犬歯。
血染めの舌。
どれもが絵美を示していた。
「絵美?」
腕の中にいるはずの彼女はいなかった。
「これは何でもないの」
二の腕に触れると手のひらに血の色が移った。
「友之、何でもないのよ」
月明かりが彼女の濡れた頬を照らしていた。透明な涙が光る。
絵美は言葉を続けようとして詰まり、口をつぐんで震えていた。寒さに強い彼女が震えていた。
「絵美だったのか」
僕はおかしくてたまらなくて、声を立てて笑った。
絵美は脅えた顔をした。僕がおかしくなったと思っているのだろう。だが、僕は自分でも驚くくらい冷静だった。
「そうだったのか」
絵美との性交よりも強い快感を与えてくれたのが、他ならぬ彼女自身だったのだ。快楽に溺れながら、絵美を裏切っている罪悪感が少なからずあった。
二人が同一人物とわかり、都合の良い展開に恐くなる。だが、罪の意識は消えない。絵美に隠し事をしようとしたことは間違いないのだ。
「血が欲しいのかい」
絵美は血を舐めていた。虫刺されと思っていた傷は、絵美の鋭い歯によるものだった。
図書館で見た伝奇小説をぼんやりと思い出す。吸血鬼。そんなものは物語だけだと思っていた。だが、現実に存在するというわけだ。
思考が彷徨った。
僕は来月の短編のネタを彼女にするというのはどうかと思った。目の前に本物がいるならうまく書ける気がする。三輪を驚かせるかもしれない。
「舐めるかい?」
僕は絵美に腕を差し出した。菓子パンからいちごジャムが垂れるように、白い腕から固まりかけた血が垂れた。
吸血鬼のことを知りたい。心の底から思った。本にも書いていない真実を知りたい。体験したい。血を吸われるくらい訳はない。
絵美はおずおずと腰を上げた。彼女の震えは治まっていた。やはりこの寒さでも鳥肌すら立っていない。僕は寒さと貧血で震えているのがわかったが、意識ははっきりしていた。
「君になら吸われてもいい」
絵美は驚くほど安堵した様子だった。僕に隠れて血を吸っていたことがよほど後ろめたかったのだろう。それでもやめなかったのは、吸血鬼としての習性上どうしようもない。
僕はどうなんだ。
僕は絵美に隠れて快楽に溺れた。知らなかったとはいえ吸血鬼としての絵美、同好会の仲間の三輪に浮気した。仕方がなかったんだろうか。男の習性上どうしようもないのだろうか。
「いくらでも吸っていいよ」
絵美は僕の罪を知らない。だから彼女の満足がいくまで吸って欲しい。彼女が吸血を罪だと思う分だけ、僕の罪が消える気がした。