月ノ唄
「月神の抱く夢に愛された子よ、歌いなさい。
夜、誰もが寝静まった頃、貴方は歌い始めるのです。
静かに、しっとりと、貴方の確かな鼓動を感じながら、
ゆっくりと、少しずつ、声高らかに歌い続けなさい。
誰もが穏やかな、安らかな眠りを迎えられるように、
貴方が、皆を導くのですよ。
心地良く、落ち着いた気分にさせて、
つかの間の安らぎをお与えになってください。
それが、【天上の眠り仔】の役目なのですから。
……私はいつでも、貴方の事を見守っています。」
僕にあの言葉を残したのは、一体誰だったのだろう。
今でも、時々考える。
月神の使いだったのだろうか、ある日、眠りにつこうとした頃、
誰かの声が耳に届いた。
鼓膜をそっと震わせるような、静かに、囁くような声で、
彼女は僕に語りかけてきた。
僕は、今まで自覚していなかったけれど、
人の心を揺り動かす声を持っているらしい。
これは本当に、歌い始めて気付いた事。
僕は夜になると、世界中のどんな景色も見渡す事が出来るようになる。
だから、僕の声が皆に与える影響の大きさが分かる。
世界中の誰もが、安らかな寝顔を僕に見せてくれる。
それは、大都会のマンションの最上階でも、
砂漠に張られたテントの中でも、
お金持ちの豪邸の寝室でも、飢えに苦しむ貧しい家の居間でも、
一人の例外もない。
ただ、新月の時だけは、その力が一瞬だけ弱まって、
僕はふと、何も見えなくなる。
だから、ちゃんと届いているのか、不安になる。
そんな時、彼女の声はいつも、僕を支えてくれる。
厳かで、だけど、ほんのりと優しさを含んだ声。
その声を聴けば、僕は、歌える。
そして、今宵も、僕は歌う。
瞼を閉じ、ふぅっと意識が遠のいたかと思えば、次の瞬間、
僕は三日月のくぼんだ所に腰かけていた。
今宵は、星が綺麗な夜だ。
三日月の周り、ごく近くの所にも、遥か彼方の、遠くの空にも、
精一杯存在を主張するように、無数の星が輝いている。
だけど、誰かを貶し合う事はせず、自分だけが輝こうともせず、
互いに支え合って、人々が心を奪われるような、星の軌跡を作り出す。
それは、毎日のように夜空を見ている僕の目から見ても、
幻想的で、美しかった。
星達は、僕に色々な事を囁きかけてくる。
(明日は雨が降るよ。)
(今日はね、僕達が輝きやすい空みたい。)
(空気が澄んでいて、気持ち良いね。)
(今日はちょっと、やってくるのが遅かったね。)
(今日は、どんな歌を聴かせてくれるの?)
そんな囁きを耳に入れながら、僕は、すぅっと息を吸い込んだ。
星達が、世界中の人々が、息を呑むのが分かった。
〝全ての夢見る子供達、全ての約束された大人達へ、
今宵も歌を捧げます。
【天上の眠り仔】が歌いし月ノ唄をお聴きなさい。〟
歌の初めは、いつもこのフレーズから始まる。
この後は、毎夜変わる、僕のオリジナルだ。
〝今宵は、星が綺麗ですね。
聖なる夜を守りし僕の目から見ても、長い間この空を見てきましたが、
本当に、美しい夜だと思います。
さぁ、皆さんも思い浮かべてください。
静かな闇に煌めく、無数の星達を、その軌跡を、一つ一つの輝きを。〟
僕の声が、否、吐息のような囁きが、空気を震わせ、
静かに浸透していくのが分かる。
〝黄色い星も、赤い星も、青い星も、白い星も、
皆、懸命に輝いています。
皆さんも、一人一人、今日あった様々な事を思い返してください。
貴方が輝けば、他の誰かも共に輝き、その輪は広がります。
そうすれば、世界はもっと素晴らしくなるでしょう。
富める人も貧しい人も、良き明日を共に迎えられますように。
僕は心から願っています、皆さんの事をいつも、どんな時でも、
見守り続けています。
だから、どうか安心して、お眠りください。
僕は貴方に、世界で只一人の貴方に、安らかな眠りを贈りましょう。
貴方がゆっくりと眠れますように、楽しい夢が見られますように、
僕はこの歌を捧げます。〟
僕は一度、ふぅっと息をついた。
世界は相変わらず、静まったままだった。
僕の声を、彼らは待っているのだ。
僕は再び、大きく息を吸い込んだ。
〝燦然と輝く星よ、彼らを見守りたまえ。
悠然と佇む月よ、彼女らに祝福を与えたまえ。
そして、【天上の眠り仔】として、私も歌を捧げましょう。
私が守りしは聖なる夜、皆の者、身を清め、心を静めたまえ。〟
世界中が、音一つなく、僕の一挙一動を見守っているのが分かった。
〝世界を闇が覆い、人々は眠りに堕ちる。
愛しい貴方は闇の中を歩き回り、そして、光を見つけた。
貴方を優しく包み込む月の光を、貴方を愛する者の姿を。
私は【天上の守り仔】、貴方を見守り、愛し続ける者よ。
月神に愛された子は、その愛を、夢を、尊き貴方に分け与え、
心を込めて、貴方を愛します。
この歌が、貴方には聴こえますか?
僕の声が、吐息のような囁きが、貴方の耳に届いていますか?
聴こえるのなら、僕にそれを教えてください。
少し口角を上げるだけで、そう、十分です。
そして、僕に、貴方の姿を見せてください。〟
僕は皆の表情を、一人一人丁寧に、確かめていった。
皆、うっとりと蕩けたような表情で、僅かに口角が上がっている。
僕は最後の仕上げに、終章を紡いだ。
〝さぁ、皆の者よ、そろそろ時間です。
全ての夢見る子供達よ、安らかにお眠りなさい。
貴方には、美しく楽しい物語を贈りましょう。
大いなる夢の芽を育て、大輪の花を咲かせなさい。
貴方が咲かせた花のベッドは、さぞ心地良い事でしょう。
全ての約束された大人達よ、どうか、安心して眠りにつきなさい。
貴方には、穏やかで優しい、心温まる祝福を、そして、
絶対に途切れる事のない約束を授けましょう。
もう、何も心配する事はありませんよ。
全ての束縛から解放され、静かにお眠りなさい。
さぁ、それでは、……堕ちなさい、何処までも。
世界中の皆さんに、安らかな眠りを。〟
そして、世界ハ無音ニナッタ。
風亜にとって、堕落とは、「頑張らなくてもいい」事です。
現代社会の病に、自分でも知らず知らずのうちに感染してしまった方へ、
私は、【天上の眠り仔】の子守唄を心からお届けしたいと願ってやみません。
<いつも何かをしていないと気が済まない>
<予定がぎっしりと詰まっていて、何だか忙しない>
薄々お気付きになっている貴方へ、少し、肩の力を抜いてみませんか?