もんもんぐんぐん
時刻は、二十三時十五分。
魔王城、最上階。
天を衝く黒き尖塔。その最奥にある魔王の寝室からは、冷え切った夜空が一望できた。眼下に広がる魔族の都も、今だけは眠りについている。まるで世界そのものが息を潜め、明日の決着を待っているかのように。
漆黒のローブに身を包んだ長身の男──魔王モンドールは巨大な窓の前に立ち、闇に沈む世界を見下ろしていた。
「明日は血塗られた歴史に、ようやく終止符が打たれるのか」
低く落とした声が、静寂の中へ溶けていく。
人類最後の希望、勇者。
対するは、魔族を統べる王。
生き残るのは、どちらか一人。明日の戦いによって、この世界の未来が決まる。モンドールはしばし夜空を見つめたのち、静かに瞼を伏せた。
「余も、眠るとしよう」
明日は、世界の命運を懸けた最後の戦い。
万全の状態で迎えなければならない。
モンドールが窓に背を向けた──次の瞬間。
ばりいいいいいいいいんっ!!
「やっほー、モンドール!! 一緒に枕投げしようよ!!」
「はぁぁぁあああ!?」
窓ガラスが盛大に砕け散る。何者かが寝室へ飛び込んできた。
絨毯の上を勢いよく一回転。
そして何事もなかったかのように立ち上がったのは、剣となぜか枕を背負った、一人の少女だった。
「な、な、なにをしている貴様ぁぁ!!」
「え?」
少女──勇者フィアグンナはきょとんとして、足元に散らばるガラス片を見下ろした。
次に大穴の開いた窓。最後にモンドールを見てからニカッと笑った。
「窓から入ってきた」
「見れば分かるわ!!」
「だってなんか正面玄関、閉まってたんだよ」
モンドールは頭を抱えた。
明日。
正確には、あと十二時間と四十五分後。
この二人は世界の命運を懸けて殺し合う予定である。
「んじゃ、枕投げしようよ、モンドール!」
フィアグンナが背中から枕を引き抜き、満面の笑みで掲げる。モンドールはもんもんとした気持ちと一緒にため息をこぼした。
「フィアグンナ。ひとつ確認していいか」
「なに?」
「三日前の果たし状には、『明日の正午、正々堂々、最後の決着をつけよう』と書いてあったな?」
「うん。書いた書いた」
「ならばなぜ、前日の二十三時十五分に!! 余の寝室の窓を叩き割って!! 枕を持って現れるのだ!!」
魔王の絶叫が、夜の城に響き渡る。
対する勇者は、まるで悪びれる様子もない。
「いやぁ、ごめんごめん。ボクだってちゃんと寝ようとはしたんだよ? ベッドに入って羊を十匹数えたり、素振り一万回やったり……。でも、明日キミと全力で戦えると思ったら、心臓がバクバクして全然寝られなくなっちゃって!」
「遠足前夜のガキか貴様は!!」
「だから、枕投げしにきたんだ!」
その謎理論に、モンドールはこめかみを押さえた。
「断固拒否する!! 余は万全のコンディションで貴様を叩き潰すと決めているのだ。睡眠不足になったらどうする!!」
「一日くらい寝なくても戦えるでしょ? 魔王なんだから」
「戦えるかどうかの話ではない!!」
「じゃあ、なんだよ」
「決まっているだろう!」
モンドールはカッと目を見開き、声高らかに言い放った。
「夜更かしなどしたら、肌が荒れてニキビができるではないか!!」
「…………」
フィアグンナが瞬きをした。
「……ニキビ?」
「ニキビだ」
「そんなこと気にしてるの?」
「気にするに決まっているだろうが!!」
モンドールは拳を握り締めた。
「貴様、少しは考えてみろ。明日は勇者と魔王による、世界の命運を懸けた世紀の決戦だぞ?」
「うん」
「当然、後世まで語り継がれる!」
「まあ、たぶん」
「そんな歴史的瞬間に──」
そこでモンドールは、自らの頬をびしりと指差した。
「余の顔面にでっかいニキビがあったらどうする!! 肖像画に残るかもしれんのだぞ!?」
「知らないよ、そんなこと!!」
「余は敏感肌なんだ!!」
言い切るなり、モンドールは話は終わりだとばかりにベッドへ向かう。
「とにかくだ。貴様の相手なら明日、嫌というほどしてやる。今日は帰れ」
「だぁーかーらー、もんもんしちゃって全然眠れないんだってば〜。ねぇ、お願いモンドール。眠くなるまで付き合ってよ〜」
フィアグンナはその後ろを追いかけ、拝むように両手を合わせる。
「断る」
「えー。せっかく枕もってきたのに!!」
それでも諦めず、今度はぐんぐんとスピードをあげて回り込みモンドールの行く手を塞いだ。
「…………」
右へ避ければ、右へ。左へ避ければ、左へ。
フィアグンナも、ちょこちょことついてくる。
「貴様……」
「お願い!」
モンドールは眉間に皺を寄せた。
「そもそもだな、フィアグンナ。貴様は決戦というものを甘く見すぎている」
「え?」
「戦いとは、剣を抜いた瞬間から始まるものではない!」
「そうなの?」
「当然だ!」
モンドールは大きく胸を張った。
「睡眠、食事、身体の調整。それらすべてを整え、最高の状態で戦場へ立つ。そこまで含めて戦いなのだ!」
「へえー」
「余は明朝六時半に起床する。まず白湯を一杯。七時には朝食。その後は入念に身体をほぐす」
「うんうん」
「特に肩甲骨周りだ。ここが僅かに鈍るだけでも、剣の初動に差が出る」
モンドールの講義は止まらない。
「衣装も重要だ。外套の皺ひとつ、留め具の位置ひとつで動きやすさは変わる。ゆえにアイロンも今日のうちに──」
「うん……」
いつしかフィアグンナの相槌も、ずいぶん頼りなくなっていた。
だが、熱の入ったモンドールは気づかない。
「余とて貴様を侮ってはいない。むしろ貴様相手だからこそ、ほんの僅かな不調すら命取りになりかねん! つまり何が言いたいかというとだな──」
そこでモンドールは、満を持して振り返った。
「最高の決戦というものは、前日の夜からすでに始まっているのだ!! 分かったか、フィアグンナ!」
しん、とした。
「…………フィアグンナ?」
返事がない。
そのとき、モンドールは妙に寝室が明るいことに気づいた。
砕けた窓の向こうへ目をやる。
東の空が、白んでいた。
「…………朝?」
いったい、いつから喋っていたのだろうか。
モンドールは恐る恐るベッドへ目をやる。
キングサイズベッドの中央。布団に包まり、持参した枕に顔を埋めたフィアグンナが、気持ちよさそうに胸を上下させていた。
「すぴー。むにゃむにゃ……」
スヤスヤと響く、完璧な寝息。
モンドールの頬が引きつった。
「貴様、いつから寝ていたのだ。朝食か? 肩甲骨のあたりか? というか──」
魔王のこめかみに青筋が浮かんだ。
「人のベッドで勝手に寝るなぁぁぁぁっっ!! あと余の睡眠時間を返せぇぇぇぇっ!!」
魔王の悲痛な絶叫が、朝焼けの空へと空しく響き渡った。
* * *
──その朝。
各国にいつものようにお触れが出回った。
『本日予定されていた、勇者フィアグンナと魔王モンドールによる最終決戦は延期となりました』
「……また?」
「それで、今度の延期理由は?」
「魔王の寝不足。ニキビできちゃったみたい」
「あー」
誰も、それ以上は気に留めなかった。
勇者と魔王が「決着がつくまで休戦」と言い続けて、はや数年。今では国境の市場で人間と魔族が肩を並べて買い物をし、酒場では同じ卓を囲んでいる。
「次こそ絶対に決着をつけるぞ、フィアグンナ!」
「もちろん。この最終決戦はボクが勝つんだからね、モンドール!」
──なお。
世界はもう、とっくに平和であることをこの二人は知らない。
こうして勇者と魔王による世紀の最終決戦は、これで八十四回目の延期となったのだった。




