第二話 夏祭りの夜
昔と同じ道を進んで行くと、神社の境内には既に多くの人が集まっていた。赤い提灯の灯りが夕暮れの空を照らし、太鼓の音が夜風に乗って響いている。子どもたちの歓声と大人たちの笑い声が混じり合って、昔と変わらない祭りの風景が広がっていた。
でも僕には、その風景がどこか色褪せて見えた。十年前の記憶と重ね合わせると、何かが決定的に欠けている。それが何なのかは、分かりすぎるほど分かっていた。
神社の裏手にある小さな森を見つめた時、足がすくんだ。あそこには少女と一緒に作った、僕たちだけの秘密基地があった。木々に囲まれた小さな空間にある、少女と僕の二人だけの特別な場所。でももう十年間、僕はあの場所に足を向けることができずにいる。
祭りが本格的に始まり、境内は人でごった返していた。僕は適当に屋台を冷やかしながら時間を潰していたが、心ここにあらずという状態だった。早く帰りたかったのに、なぜかボーっと祭りを見て回っていた。
金魚すくいの前で立ち止まった時、ふと懐かしい気持ちになった。彼女は金魚すくいが大好きだった。でも手先が不器用なので、いつも紙のポイをすぐに破ってしまう。僕がコツを教えても、興奮して力が入りすぎてしまうのだ。
「もう!どうして簡単に破れちゃうの!」
悔しがる彼女の声が、まるで昨日のことのように蘇ってきた。
その時だった。
人混みの向こうに、見覚えのある少女の後ろ姿を見つけた。今まで祭の穏やかな雰囲気に浸っていた僕の心臓が跳ね上がる。まさかと思いながらも、足が勝手に動いていた。人混みをかき分けて近づいていく。やっと追いつき、僕の視界にとらえたその少女の後ろ姿は、確かに僕の知っている彼女に似ていた。
でもそんなはずはない。きっと他人の空似だろう・・・僕の心が作り出した幻覚かもしれない。
少女は本殿の前で立ち止まっていた。僕は数メートル後ろで足を止め、じっと見つめた。身長、髪型、服装・・・そのすべてが記憶の中の彼女と同じだった。
すると、少女がゆっくりと振り返った。
その瞬間、僕の世界が止まった。
間違いなく彼女だった。十年前と全く変わらない、十歳の時の彼女の顔がそこにあった。
「嘘だろ・・・」
僕は声にならない声を上げた。
少女も僕を見つめ、いつものように人懐っこい笑顔を浮かべて言った。
「久しぶり!」
彼女は僕に向かって手を振っている。その仕草は、まるで昨日も会ったばかりのように自然だった。
僕は混乱していた。これは夢なのか?それとも本当に彼女がそこにいるのか?周りの人々は普通に祭りを楽しんでいて、特に彼女のことを気にしている様子はない。
「どうしたの?顔色が悪いよ?」
彼女は心配そうに僕を見上げた。その表情、その声・・・すべてが記憶の中の彼女と同じだった。
「君は・・・誰?」
と僕が声を掛ける。しかし彼女の返事は、予想をしていないものだった。
「どうして一人で先にお祭りに来たの?いつも一緒だったのに、どうして私を置いてお祭りに来たの?」
「一緒って・・・」
僕はまだ状況を理解できずにいた。でも、彼女は当然のように僕の隣に並んで歩き始めた。
「私、やきそば食べる!そして金魚も救う!」
まさに記憶の中の彼女の口調だった。彼女は昔から金魚すくいの事を、金魚救いと言っていた。その事も含め、本当に昔のままの彼女だった。
僕は夢遊病者のように彼女について行き、一緒にやきそばを食べ、金魚すくいを試してみた。やはり、彼女は相変わらず下手だった。
「もう!なんでなの!」
悔しがる彼女の表情を見ていると、十年という時間が嘘のように感じられ、まるで時が止まっているかのような錯覚を覚えた。
「君は本当に・・・」
聞きたい事が口から出かかるが、どうしても最後まで言い切れない。
「何?」と首を傾げながら僕を見上げる彼女の瞳は、十年前と同じで澄んだ黒い瞳だった。
「・・・いや、何でもない」
僕は頭を振った。今はまだ真実を確かめる勇気がないのか、この夢から覚めるのを拒んでいるのかは分からない。
そして僕には、彼女に言わなければならない事もあった。
二人で屋台を回りながら他愛もない話をしていると、彼女は現代的なものに興味を示した。僕のスマートフォンを指差して尋ねてくる。
「これ何?」
「携帯電話だよ」
「すごいね!まるで魔法の道具みたい」
彼女の驚き方は、まるで本当に現代の技術を初めて見るかのようだった。
綿あめを買って一緒に食べながら、僕は恐る恐る尋ねてみた。
「君はどこから来たの?」
「どこからって、いつものところからだよ?」
「いつものところって?」
「秘密基地!」
「え?」
「まだあるの?」と言いかけて、僕は口を閉じた。言ってしまったら、この不思議な時間が終わってしまいそうな気がした。
「お祭りに来たの?」
「違うよ」
「え?違うの?」
「うん。私が今日ここに来た理由はね」
今まで穏やかだった彼女の顔が、僕を睨みつけるような険しい表情に変わった。そして彼女は静かに呟いた。
「・・・君を、迎えに来たんだよ」
「え?」
「私と一緒に、早く行きましょ」
昔に聞きなれた彼女の声とは思えない低い声だった。
「え?なに?僕を迎えに来たの?」
そう聞き返す僕を見て、彼女はお腹を抱えて笑い出した。
「ぷっ!あははははは。どう?怖かった?」
突然、笑いながらそう言ってくる彼女に、僕は呆気にとられていた。
「・・・怖いって言うか、びっくりはした」
「昔の君なら、今ので確実に泣いてたのになぁ」
少し残念そうな顔をして彼女は僕を見ている。
「僕はもう子供じゃないからね」
「そっかぁ・・・そうだよね」
何かを納得したような彼女の顔を見て、僕はまた昔の事を少し思い出してしまった。
祭りが進むにつれて、僕は彼女の存在について少し分かってきた。周りの人々は彼女が見えていないし、たぶん声も聞こえていない。焼きそばの屋台で注文した時、「箸は二人分お願いします」と僕が言うと、おじさんは不思議そうな顔をした。
きっと屋台のおじさんには彼女が見えていないのだと思った。
彼女は本当にそこにいるのか?それとも僕の幻覚なのか?
でも、彼女との会話はあまりにもリアルで、幻覚や夢とは思えなかった。
「・・・君は本当に僕の知っている君なの?」
「私は私だよ?」
「でも君は・・・」と言いかけて僕は止まった。
『死んだ』という言葉が喉まで出かかったが、どうしても声にできなかった。
十年ぶりの夏祭り。十年ぶりの彼女との再会。
僕はまだ、この不可思議な状況のすべてを受け入れることができずにいた。でも同時に、この時間が永遠に続けばいいのにとも思っていた。




