第一話 罪悪感という名の鎖
これは僕が大学二年生の夏休みに体験した、忘れられない出来事である。
蝉の鳴き声が響く八月の午後、僕は数年ぶりに故郷の駅に降り立った。駅舎は昔と変わらず小さく、ホームに立つと懐かしい田舎の匂いが鼻をついた。けれど、その懐かしさと同時に、胸の奥に重たい何かが沈んでいくのを感じていた。
故郷は僕にとって複雑な想いを抱かせる場所だった。
子供の頃の楽しい記憶と、避けたい痛ましい記憶が、まるで古いアルバムのページのように重なり合っている。街を歩けば、普通なら懐かしいと思いにふける場所なのだろうが、僕にとっては彼女との思い出が蘇ってきて、その場所からすぐにでも立ち去りたくなってしまう。公園のブランコ、通学路の角、駄菓子屋の前・・・そのすべてが僕を過去へと引き戻そうとする。
最近の僕は大学でも一人でいることが多かった。同級生たちが楽しそうに談笑している横を素通りし、一人で図書館の隅に座って時間を過ごす。過去の後悔と、将来への不安ばかりが頭を占め、何をしていても心から楽しむことができずにいた。まるで心の一部が十年前のあの日に置き去りにされたまま、僕だけが時間に取り残されているような感覚だった。
久しぶりの実家も、懐かしさと昔の思い出が入り交じり、なんとも言えない気持ちで過ごしていた。そんな僕を見かねてのことだろうか。母が台所で夕食の支度をしながら、何気ない調子で提案してきた。
「久しぶりに、地元の夏祭りに行ってみれば?」
母の声には、息子を心配する親特有の優しさがにじんでいた。僕は手にしていた本から顔を上げ、窓の外を見やった。夕暮れが近づき、空は薄いオレンジ色に染まり始めている。
そんな母の優しさに、僕は内心で首を振った。祭りなんて、もう何年も興味を失っていた。人混みも、騒がしい音楽も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられる。けれど、母の心配そうな表情を見ると、断る言葉が喉につかえてしまった。
「そうだね・・・行ってみようかな」
嘘の笑顔を浮かべて答えた僕に、母は安堵したような表情を見せた。
夕方になって、僕は渋々家を出た。神社へ向かう馴染みの道を歩きながら、十年前の記憶が鮮明に蘇ってくる。あの頃は祭りの日が近づくと、何日も前からわくわくして眠れなかった。浴衣を着て、お小遣いを握りしめて、一緒に祭りを回る約束をして・・・。
「昔はあんなに祭りが好きだったのに」
母の言葉が胸に深く刺さった。確かに小学生の頃は、夏祭りが一年で最も楽しみな日だった。でも今の僕には、その頃の純粋な喜びを思い出すことすら辛い。なぜなら、その記憶には必ず彼女の笑顔が含まれているからだった。
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十年前の夏の日。僕は朝から体調が悪く、熱っぽさと頭痛に襲われていた。そんな僕の額に母が手を当てて心配そうに言った。
「今日は学校を休みなさい」
僕は布団の中で、学校に行けない悔しさを感じていた。なぜなら、毎朝僕を迎えに来てくれる幼馴染との約束があったからだ。彼女はいつものように玄関のチャイムを鳴らし、僕の母から事情を聞くと、僕の部屋へやって来て少し心配そうな顔をした。でも、すぐにいつもの明るい笑顔を取り戻して言った。
「明日は絶対に一緒に遊ぼうね」
その時の彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。少し上向きにした手のひらを振りながら、スキップするように学校へ向かっていく後ろ姿を、僕は窓から見送った。そのときは、それが彼女を見る最後になるなんて、想像もしていなかった。
彼女はいつものように明るく手を振って学校に行った。それが僕が見た彼女の最後の姿だった。
事故が起きたのは、彼女が学校から家への帰り道だった。いつもなら僕も一緒に歩く、見慣れた住宅街の道路。角には小さな花屋があり、その先には公園がある。僕たちが何度も通った、何の変哲もない平凡な道だった。
運転手は居眠りをしていたという。対向車線に突っ込んで電柱に激突し、その弾みで歩道を歩いていた彼女を巻き込んだ。一人で下校していた彼女は、避ける間もなかったのだろう。救急車が到着した時にはもう手遅れだった。即死だったそうだ。
僕がその事を知ったのは、翌日学校に一緒に行こうと伝えるために彼女の家に電話をかけた時だった。受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼女の母親の嗚咽だった。その泣き声は、僕の心に深い傷を刻み込んだ。今でもふとした瞬間に、あの絶望的な泣き声が蘇ってくる。
それから十年間、僕はずっとその想いに囚われ続けていた。もしもの連続が僕の心を蝕んでいく。
あの日僕が風邪を引かなかったら・・・
あの日僕が学校を休まなかったら・・・
あの日僕が一緒に学校から帰っていたら・・・
きっと彼女は死ななかった。
きっと今でも僕の隣で笑っていたはずだ。
僕は今でも彼女の名前を声に出して言うことができない。「幼馴染」「彼女」「あの子」──そんな代名詞でしか呼べずにいる。本当の名前を思い浮かべると、胸が押し潰されそうになってしまうからだ。
葬儀の時ですら、僕は涙を流すことができなかった。周りの大人たちが皆泣いている中で、僕だけが石のように固まっていた。なにも感じない・・・まるで感情が麻痺してしまったかのようだった。ただ呆然と、小さな棺の前に立ち尽くしているだけだった。
僕が彼女を殺したんだ。
その想いは僕の心の奥深くに根を張り、十年という月日を経ても色褪せることはなかった。
それ以来、僕は故郷を離れたがるようになった。この町にいると、あらゆる場所が彼女との思い出に染まっている。通学路、公園、駄菓子屋、図書館・・・どこを見ても彼女の笑顔が蘇ってくる。
中学高校は隣町の学校に通い、大学は県外に出た。できるだけ故郷から離れた場所で生活することで、痛ましい記憶から逃れようとした。けれど、物理的な距離が記憶を薄めてくれることはなかった。むしろ、一人になる時間が増えれば増えるほど、あの日の後悔が心を蝕んでいく。
この町にいるとあらゆる場所が彼女との思い出に染まっている。思い出すと息ができなくなり、まるで水の中に沈んでいるような感覚に襲われる。だから僕は、故郷からも、彼女の思い出からも、ずっと逃げ続けていた。