イーヴル
浅い呼吸が聞こえる。自身のものであるそれを聞きながら、六角は急ぐように新宿東高校へ向かっていた。
「え、新宿東ですか?」
靴を履き替えながら自身を見上げる六角に朝比奈は肯定を返す。どうやら新宿東高校でネジの反応を感知したらしい。
「これ、連絡用のスマホな」
ほら早く、急げー!などと笑顔で急かす朝比奈に六角は抗議しようとしてやめた。急がなければいけないのはその通りだ。スマホを受け取って、靴にネジを刺し立ち上がる。昨日よりは動きやすいように思えた。
「それじゃ、行ってきます」
「頼んだ」
短く言葉を交わし、六角は急いで隣のビルの屋上へと跳んで行った。その動きは昨日よりも滑らかになっており、速さもぐんと増しているが、やはり多少不格好で不慣れな様子だ。
朝比奈はその後ろ姿を暫く眺めると、どこかへ連絡を入れた。
「あ、もしもし?頼みたいことあってさー......__」
急げ。急げ、急げ。自身にそう命令しながら必死に向かう。
数分もしないうちに新宿東高校へ着いた六角は、呼吸を荒げながら校内を走った。おそらく人目につかないところにイーヴルはいるはずだ。そう予想を立て、人影の少ないところを見渡す。
脳裏に浮かぶのはやはり彼のことで、同じ思いをするのはもう懲り懲りだった。
六角はふと、体育館から音がしないことに気がつく。そして思い出したのは、点検のために今日一日中体育館が使えないと教師が話していたことだった。
そっと音を立てないようにして体育館の扉の隙間から中を覗く。その先に見えたのは倒れ込んでいる男子生徒の姿だった。倒れ込んでいる彼の背中に赤く輝くネジが刺さっているのが見える。ネジが人から抜けかけているのを見るのは初めてだった。光り輝いているように見えるネジは大層美しかった。そのネジへ何者かの手が伸ばされるのを見て、六角は勢いよく扉を開けた。
「何してる?!」
その声と音に相手がびくりと反応するのがわかった。新宿東高校の男子制服に身を包んだ金髪の男がこちらへ振り返る。その姿はあまりにも見覚えがありすぎた。
「三宅......?」
金髪の、優しげな風貌の、自身を嘲り笑ったクラスメイトを咎めていた、六角のクラスメイトの1人だ。それに、床に倒れているのは自身を嘲笑した男子の1人だった。それに気づいて仕舞えば、六角は動揺を隠すこともできなかった。
「なに......してんだよ...」
絞り出すようにして言う六角へ三宅はにこりと微笑む。
六角は学校でよく彼が笑っているのを見ていた。人気者の彼は嫌でも目についた。そんな彼のいつもと変わらない笑みに恐怖を感じざるを得ない。
「何って......保健室に連れて行こうと思って」
如月こそ何してるの?今点検中だよ?などと笑って話す三宅に、六角は眉を顰めた。彼の言っていることは本当のことなのかもしれない。けれど、六角にはそれが嘘としか思えなかった。
「ネジ、奪おうとしたのか」
疑問ですらない、確信だった。
「お前......イーヴルなのか...?」
どうか否定して欲しかった。
「え......なんだ、知ってたんだ」
六角の思いを裏切るようににこりと笑む三宅に、六角は息を呑んだ。自身が思っていたよりも近くにイーヴルはいたのだ。こうやって、何者でもないかのように日常に潜んでいることを実感させられる。
「如月ってNUTだったんだ。知らなかったなぁ」
「......俺も、お前がイーヴルだったなんて知らなかったよ」
「あはは、お互い様か」
三宅の様子が余りにも普段通りで、六角は彼がイーヴルとは到底思えなかった。けれど、ネジを奪おうとしていたことも、イーヴルであることを否定しなかったことも事実で、六角はぐっと拳を握って三宅を見据えた。たとえクラスメイトであろうとイーヴルであるならば、六角は覚悟を決めなければいけないのだ。
次の瞬間、三宅は六角の目の前にいた。にこりと普段通りの笑みを浮かべ、驚く六角の横っ面に裏拳を繰り出す。それをぎりぎりで避けた六角は体勢を整えるも、次の瞬間には蹴撃が自身を襲った。
「うっ......!」
強い。六角はそれしか考えられなかった。余りにも力量差がありすぎた。戦いなれている三宅と初めてイーヴルと戦う六角では経験にも能力にも差があった。それをすぐに理解した六角は逃げるように足を踏み出した。
「あれ、逃げるの?」
三宅はちらと倒れている生徒を見て、それから体育館を出て行く六角を見やる。
「うーん...ま、見える人間のネジの方がきっと喜んでくださるよね」
にこりと笑むと、三宅は六角を追いかけた。六角を彼と同じスピードで追う。ネジの力により強化されている六角と同じ速さで走る三宅に、六角は歯を食いしばった。足を緩めないようにしながら三宅を伺い見る。異常な程に輝くオーラは三宅の背中から発されているように見えた。
高校を取り囲む壁を乗り越える。
「きゃっ!」
六角は声のした方へ視線を向ける。クリーム色の髪を揺らし、パチリと開かれた緑色の瞳は長いまつ毛に覆われて自身を見上げている。シスター服を着た少女に、六角は慌てたように声を上げた。
「ごめん!!」
そのまま逃げ去る六角の後ろを金髪の青年が追う。その後ろ姿を少女は唖然と見つめていた。
「あれは......」
少女がこぼした言葉は誰にも拾われることはなかった。
浅い呼吸を繰り返す。どうにか人のいない方へと足を進めるものの、そのスピードはやはり落ちており、六角には余裕そうに笑う三宅に勝つビジョンが想像できなかった。
「ぐっ......!」
「捕まえた」
薄暗い路地裏で首を掴まれ伏せられる。六角はどうにか立ちあがろうとするも、自身の上に馬乗りになる三宅にすぐに元の姿へと戻されてしまった。
三宅の腕時計がピピピと小さな電子音を鳴らす。
「あぁ、もう、急がないと」
1人そうこぼした三宅は、その拳を六角の背中の中央へと振り下ろした。
「っ!!!!」
鈍い音が鳴る。途端に呼吸が満足にできなくなり、カヒュカヒュとか細い呼吸をもらす。痛みしか感じることができない六角に、三宅はまたにこりと笑んだ。
「如月が悪いんだよ。こんなに長引かせなきゃ君がこんな辛い思いをすることはなかったんだからさ」
その言葉に、思考が止まる。六角は急に、勝つことや戦うことに対する恐怖感や不安感がなくなった気がした。感じるのは怒りのみであった。
三宅がまた拳を振り下ろす。六角はそれを体を捻って受け止めた。三宅がそれに驚いたのがわかった。
ゼェゼェと呼吸を繰り返し、自身を見下ろす男を六角は睨めつけた。
「悪いのはテメェだろ......!!現状から努力せずに、他人のネジ奪ってばっかで何にもなれねぇ半端者が!!!」
六角の言葉に、三宅は止められた拳をもう一度振り下ろした。
「ッ......!!!」
脇腹へと入ったそれに、六角は痛みを堪えるように歯を食いしばった。
「わかってない。わかってないなぁなんでわからないのかな」
三宅は真顔で六角を見下ろしていた。笑顔でない彼の表情に、六角は彼の本心を見た気がした。それと同時に、やはり六角が感じたのは怒りだった。その衝動のままに三宅に頭突きを食らわせると、ふらりと三宅から力が抜けたのがわかった。その隙を逃さず、六角は三宅の下から抜ける。両足で立ち、拳を構えて敵を見据える。
「わかんねぇしわかりたくもねぇ......テメェら半端者のことなんてな!!!!」
三宅はただ、震えながらも真っ直ぐに自身を見下ろす男をじっと見上げていた。