さよなら、私
彼は、極めて誠実な、真面目な、あるいは頑固な男であった。スラリと高いが、よく見るとがっしりとした骨付きやしなやかな筋肉はまさに彼を形容しているといえる。
かといって、彼は素直な訳ではなかった。寧ろ疑い深く、何もかもを信用していなかった。それは自分自身ですら例外ではなかった。
幼少期。厳格な父と物静かな母の元に育った彼は、愛情という愛情を知らずに育った。父も母も彼を愛していない訳ではなかったが、2人は愛情の表現方法に疎かった。彼が何かを成し遂げる度に、よくやったと声をかけたが、それ以上のものはなかった。もちろん彼に不自由はなかった。生活に必要なものは与えられた。足りなかったのは少しばかりの抱擁であろうか。
学生時代かれは生真面目であった。俗的な言い方をするのであればバカ真面目、であった。そして環境はそんな彼に味方しなかった。
中学時代、少しの悪さや刺激を求め、それに似たものに惹かれ、憧れた同級生たちは彼が輪に入ることを認めなかった。輪に入らない彼にわざわざ近づくお人好しもいなかった。
いや、違う。彼は輪に入ろうとはしていなかった。彼はただ除け者にされ、その理由も分からず毎日毎日一人で帰るだけであった。時折前に向けられる目線は、同級生と目が会いそうになる度に、幸せそうな誰かがいる度に、定位置である自身のつま先に戻るのであった。
彼は悲しくない訳ではなかった。小さな彼にとって、孤独というのはあまりにも酷だった。彼は愛情を、絆を、あるいは帰り道を彩るものを求める病に蝕まれた。
彼は勉強熱心であった。彼らを理解しようと多くを学んだ。学ぶことは彼を強くはしてくれたが、彼と誰かを繋げることはなかった。
そしてそれは、彼の隣のお調子者がヘリウムガスを吸い、ふざけた返事をして、ギクシャクと紺色の筒を受け取る日まで変わらなかった。
高校時代、彼は1人で学び続けていた。中学時代、自分自身も周りも、どこが、なにが悪かったかなんてとっくに気づいていた。そのうえで、もう自分は変われないのだと思っていた。生来のこの性質はもう変えることは出来ないのだと思っていた。それでいいと思っていた。このまま生きていこうと覚悟も決めていた。彼の中にいる、愛情を、抱擁を求めて泣いている小さな子どもは、心の奥深いところに閉じ込められようとしていた。
でも、違った。彼は変わった。
まず変わったのは環境であった。彼が学んだことは決して無駄にはなっていなかった。彼の進学した高校には、彼を輪の外に追いやるような人はいなかった。彼は歓迎こそされなかったものの、除け者になることはなかった。帰り道に眺めるものはつま先だけではなくなった。彼は人と会話することに少しずつ幸せを感じた。同時に、まっすぐ家に帰ることも少なくなった。
両親はそんな息子の変化に気づいてはいたが、ただ見守っていた。「ごめん今日も遅くなるかも」そんな息子のメッセージに、にやけながら気をつけて帰ってね、なんて返事をすることに喜びを感じた。ラップの使用量と、レンジの使用回数は日毎に増えていった。彼の変化は両親も変えてしまった。
高校2年生になった頃、ストイックでありながら人当たりが良くなった彼に惹かれる人がいた。1年生の時から彼の変化を見てきた、猫っ毛のロングヘアを持つ彼女は、彼の隣にいたいと考えるようになっていた。少し骨ばった手に、バスで無言で席を譲る姿に、授業中の横顔と、その瞳に。彼女は彼に恋をしていた。そして彼も、そんな彼女に気づいていた。彼女の誘いで何度か出かけた。4回目の誘いは、彼からであった。5回目の帰り道、2人はお互いの手の温度を知った。 彼女もまた、自身の誠実すぎるところで孤独に蝕まれていた。彼らはお互いの小さな子どもに、やっと手をさしのべられるようになった。愛情を求める小さな子どもたちは、やっと安心して眠ることができるようになったのだ。彼らは深いところで理解しあっていた。お互いの孤独を、理解していた。
彼らは大人になり、そして一緒に暮らしていた。全てが順調とは行かなかったが、お互いを尊重し合い、たまには2人で出かけに行き、そして時々一緒に眠る。そんな毎日が続いた。幸せで幸せでたまらなかった。この幸せを手放さないためならなんでもできた。
幸せになろうと思えた。幸せにしたいと思えた。彼女のためならなんでも出来ると思えた。困り眉が好きだった。何もかもが好きだった。
彼の仕事は警察官であった。生来の真面目な性格もあり、順調に働き続けていた。彼女は、ずっと憧れていたカフェで副店長を勤めていた。落ち着いた雰囲気の店で、客層も良い。決して割の良い仕事ではなかったが、彼女はこの仕事は自分に向いていると感じていた。店長も、自分が隠居したら彼女に店を任せようと思っていた。
ある日、彼は上司に呼び出された。なんでも、隣の市で未解決事件の大きな手がかりがあったとの事だった。解決のため、捜査本部が秘密裏にたてられるようで、そこで指揮を執れとの命令だった。
彼自身、その事件については知っていたので快く承諾した。正直やりがいを感じていた。学習してきたことを出し切れるのが楽しみでさえあった。ただ、それは彼女には言えなかった。
捜査を初めてから数日、帰りが遅くなることが多く、その日も彼の帰りは日が変わる直前であった。家に帰るとまだ電気がついており、ダイニングには彼女が座っていた。
彼は、泣き出した。彼は父親になるのだ。その日はほぼ一晩中泣いていた。深く深く愛情をかけて育てようと思った。彼女と出会った今の自分ならそれができると思えた。
その後、彼はより捜査に打ち込んでいった。父親になるのだ。かっこいい父親でありたかった。また、彼女を支えたい気持ちも強かった。3人で暮らす一軒家も建てたい。出来れば、自家用車もほしい。そんな思いが、彼を動かした。
そして、懸命な捜査は実を結び、犯人の特徴についてより細かいところがわかってきた。単独犯だと思われていた事件の犯人は、どうやら複数犯である可能性が高いことがわかった。
そんな矢先だった。
今日も遅くなる。買い物して帰る。そんな連絡を彼女にしていた。彼女の声を聞くだけで、彼は自然と元気が湧いてくるのであった。分かった、気をつけてねお仕事お疲れ様。今日も愛してるよ。そんなお決まりの言葉が嬉しかった。
____電話越しに、銃声が聞こえた。
彼女の悲鳴と、窓が割れる音。
彼が覚えている限り、最後の彼女の記憶であった。そして、人々が記憶している最後の【彼】の記憶であった。
その日から彼は変わってしまった。寧ろ戻ってしまったのだろうか。それとももっと酷くなってしまったのか。それはもう誰にも分からない。いちばん分かっていた人はもう居ないのだから。両親?両親はもう歳であった。もう彼らには自分の息子と、施設の青年の見分けはつかなくなっていたのだ。友人?彼はめっきり仕事にのめり込んでいた。彼を知る友人は、彼が仕事を行ってからの様子については知らなかった。知る由もなかった。呑みにも行かず、ただ仕事場と家を往復する彼をどうやって知るというのだろうか。
……いや、1人だけいた。実際友人と呼べるのかすら怪しかったが。中学時代、お調子者だったKは、奇しくも警察学校で彼と再会した。なんの縁あってか、Kは彼と同じ捜査本部で事件を追っていた。Kだけが彼に起きた全ての悲劇と事件とその孤独を知っていた。
だからなんなのか、Kに何が出来るというのか。彼に起きたことは、計り知れない何かがある。なんと声をかければいい?どうして励ませばいい?そもそも声をかけていいのか?失ったものが多すぎる彼には、どんな言葉を注いでもきっと流れ出てしまう。ならそのひびを、穴を塞げば良いのか?その覚悟があるのか?いや、無い。どうしてやればいい?俺には何ができる?Kは所謂“良い奴“であった。どこまでも善意でできていた。警察官には向いていなかったが、彼に前を向かせるのにこれ以上の適任はいなかった。
Kは何も声をかけなかった。ただ、操作を進めましょうと、そう言った。彼は亡霊のようにそれに従った。事件の核心にはなにかとてつもなく大きな力が働いているようだった。だが。最早それは2人にとってどうでもいいことであった。彼にとってはもうそれ以外に残されたものは無いのだ。Kは事件の解決は彼の救済になると考えた。お互いに、ただ操作を進めていった。
数年後、Kと彼は沢山のマイクの前に立たされていた。警察絡みの大事件を解決した2人組の相棒としてマスコミがでかでかと取り上げたのだ。本来異例である刑事個人への取材は、もはや視聴率のためなら何も厭わないマスコミの醜悪さを示していた。
彼は淡々と事実を述べた。もう彼には何も残っていなかった。メディアは大々的に彼を『悲劇のヒーロー』として扱った。彼にとっては、蝶の羽ばたきにも満たない小さなノイズでしか無かった。もう、何も彼は感じていないのだと、そう思われた。Kですら、彼を救えなかったのだとそう考えるほどに彼の態度は驚く程に温度がなかった。実感を伴っていなかった。例えるなら、やる気のない教師が本文を朗読するような、説明書を読み上げる機械音声のような。彼の中ではまだ彼女は生きているのだ。彼の時はずっと動いていなかった。あの時から、ずっと。
Kと彼は捜査本部の撤収を行っていた。その日はほとんど掃除も片付けも終わりあとは私物を持ち帰るだけ、といった様子であった。Kは彼に声をかけた。というのも、彼が立ったまま動かなかったからだ。「おい、どうした?」
…。Kは1歩後ろに後ずさった。彼は泣いていた。表情を変えずに泣いていた。右手には1枚のメモ書きがあった。[お弁当あっためて食べてね。最近忙しそうだけど、自分のこと何より大切にね。2人で帰り待ってるよ。]
Kが文章を読んでいる間も、彼は少しも動かなかった、ただ、濃い紺色の床に丸い染みが増えていくだけであった。
Kには堪えきれなかった。彼を見ていると痛かった。犯人が捕まっても、彼は戻らない。彼の愛した人も、愛するはずだった人も、戻らない。彼の痛みを理解できないことが辛かった。隣にいたのに何も救えなかった。変えられなかった。それがただ苦しかった。
Kにできることは、彼を椅子に座らせ、ぬるくなった珈琲を差し出すことだけだった。
数年がたった。傷は癒えていなかった。しかし、日常に笑顔が見られるようになった。Kのサポートもあり、彼は仕事を続けていた。ただ、増えていく賞与も、高くなる役職も彼の興味はひけなかった。お金は貯まる一方だった。
そして、未だに時折顔に滲むくらい影が、Kの心を重くした。
Kは彼に女性を紹介したりもした。彼はずっと断っていたが、Kの優しさを拒否し続けることに心が痛み、1度だけお見合いのようなものをした。その女性はとても穏やかで、彼と同じく心に傷を負っていた。彼に自分が幸せになってもいいのではないかと思わせるほど、とても素敵な女性だった。
何度か食事に行った。その度に彼女の影が浮かんだ。
水族館に行った。彼女の声が浮かんだ。
映画に行った。彼女の泣き顔が浮かんだ。
幸せになろうと思った。きっと彼女もそれを望んでいると思った。でも、彼には無理なのだ。彼女の面影が、声が、全てが、彼の中にずっと生きているのだ。
彼がごめん、やっぱりだめだ。
と伝えると、Kは、少し悲しそうな顔をしたが、吹っ切れた顔をして、じゃあ今日は俺と呑みに行くか!なんて言ったりした。
彼の顔は今日も曇っていた。
悲しいかな、幸せになろうとする彼を阻むのは、かつて彼があんなにも幸せにしたいと願った 私 なのであった。
そう、私。私のせい。
ごめんね。私がもっと用心深かったら、強かったら……なんて。
Kくんが、頑張ってくれたから。
あなたが、頑張ってくれたから。
こっちに来たら、いっぱい抱きしめてあげるから。
頑張ったね、って褒めてあげるから。
また来世も一緒になれるから。
どうか、私のことはしばし忘れて、前を向いて生きて欲しいから。
彼が、明日から幸せになれるように。心からの愛をこめて。
私は彼の中の私を、殺した。