20.白と赤
その光景は、朔の顔から生気を、口から言葉を奪い取った。
朔の目の先に見えたのは、血を噴き出して倒れるマシロの姿だった。それはスローモーションのようになって朔の目に映った。色を失った夜に、マシロの白さが浮かび上がっていた。その白が、赤に染まる瞬間を見た。その一瞬、夜に色がついた。鮮明な赤。透き通る白に覆い被さる、鮮血。
マシロはそのまま肩から傾くようにして地に倒れ込んだ。血の出どころは、首であった。白い髪の先が、血に染まる。
そうなるまでに何があったのか。マシロが倒れるに至るまでの光景が、朔の脳裏で再生される。
マシロの舞が途切れた時。その時カゲも力尽きようとしていて、胴体からは腕が一本だけ伸びている状態だった。それが弱々しくもマシロに向かい、鋭さは保ったままだった自身の指先を、マシロを掴もうとするかのように伸ばした。
カゲもよろめき倒れ込む寸前だった。最後の力を振り絞りマシロに手を伸ばそうとした、そんな具合であった。
その最後の手が、不運にもマシロの首元に届いてしまったのだった。
「マシロ!!」
一番に叫んだのは真那だった。その声に、穂高が体を震わせる。
「朔、どうしたの。マシロさんに、何かあったの」
穂高は朔が纏う夜隠れの衣にしがみつき、朔の体を揺する。
朔は目の前の状況を受け止めるのに精一杯で、穂高の問いに答える余裕を擁していなかった。瞳孔が開いた瞳は揺れ、正常な呼吸も忘れ去られていた。
「ねぇ、朔。光が消えた。僕の目に映っていた、光が消えたよ」
穂高は今度、声を震わせる。瞳は潤み、朔をつかむ手にはより一層力が入る。
体を揺さぶられ、マシロがカゲの攻撃を食らい倒れたのだと朔の頭がようやく認識した。
そして息を呑み、カゲがまだ揺らめいている姿を目で捉えるや、あらゆる思考が頭の中を駆け巡った。
マシロが傷を負った。血が見えた。きっと、もう立てない。でもカゲはまだいて、舞を舞っていた痣子二人ももう息絶え絶えだ。自分が参戦しなければいけない。けれど、穂高がここにいる。もし、カゲが穂高に向かってきたら、誰が守る。誰かが、穂高のそばにいないといけない。それは、自分だ。いや、一旦穂高をもっと遠くにやって、カゲの手が確実に伸びてこない場所まで行って、その後自分が還に入った方が良いのか。あぁ、でもマシロはどうする。マシロをそのままにしていいのか。マシロをあのままの場所に横たわらせていたらまたカゲに襲われてしまう。助けに行かなければ。でも、その前に穂高を――……。
「穂高が……、でもマシロも……。いや、穂高を先に……。マシロ……マシロ……。穂高は……」
頭に浮かんでいた名前が声となって口から漏れる。それは揺らぐ呼吸の間を潜り抜けて、次々に落ちていった。
穂高の耳がそれを受け止めていく。暗闇のなか朔の声がいくつも揺らめいて聞こえ、朔が冷静を欠いていること、またマシロが危機に陥っているらしいことを、即座に判断した。
穂高は奥歯を噛み締める。瞳が揺らぐのを必死に抑え込むと、落ちてくる声の出所に顔を向けた。
「朔、マシロさんを、助けに行って!」
張り詰めた穂高の声。それが、朔の堂々巡りの思考を弾けさせた。
朔は自分を見つめる穂高を見やる。真っ直ぐで力強い瞳を向けられていて、色をなくしたような顔がそこに映り込んでいるのが見えた。それが自分だとわかるや、朔は唇を引き結ぶ。何て顔をしているんだ、と。
「僕は、大丈夫だから。――だから朔、まずはマシロさんを」
そう言うと、穂高は朔の衣にしがみつかせていた手に力を込め、ぐいと朔の体を前へと押しやった。
朔はぐらりと傾き、それを支えようと咄嗟に出た手を伸ばす。そのまま地にはつかず、そこに置かれていた舞刀の鞘の上に乗った。
ガシャリ、と音が鳴る。それが耳の中で弾け、朔は目が覚めたかのように、顔に生気を取り戻した。
「穂高……」
穂高の名を呼ぶ。その名の主は力強く頷いた。その頷きにまた背中を押された気がする。
朔も、穂高を見つめ頷き返した。
「……うん。行ってくる。穂高、待ってて」
朔は舞刀を握りしめると、そのまま腰に差した。鈴が震え、りんと音をひとつ鳴らす。
それからまたりん、りん、と音を弾かせ、地を蹴る朔の足に連動して鳴り続けた。その音が遠ざかっていくのを、穂高は一人聞いていた。
カゲはマシロに一太刀浴びせたあと頭を垂れるように胴体ごと地に倒れ込み、伸ばしていた手も縮こめていた。
しかしその木の枝のように細くなった腕と手を駆使してゆっくりと体を這わせ、なおもマシロに近づこうとする。
そのカゲをマシロの方には向かわせまいと、魁成と真那は歯を食いしばっていた。
一度力が萎えた体は容易に動かすことができなかった。体が言うことを聞かない。まさにその状態であった。疲労が溜まりに溜まって固まり、魁成も真那も、体が鉛のように重く足が棒のようになっていた。
魁成は舞刀を地面に突き刺し、必死に体全体に力を込め足を引き摺り、何とか前に進み始める。
真那も手から抜け落ちそうだった舞刀を力を込めて握り直し、ふらつきながらカゲに向かっていった。
一秒先、何が起こるかわからない。そんな恐怖心に囚われながらも、魁成、真那、朔の三人は進むべき方向に足を向けていた。どの先にも、倒れるマシロの姿があった。
朔がマシロの元まであと数歩という距離まで辿り着き、真那と魁成も刀を伸ばせばカゲに追いつくというところだった。
今まで息を潜めていたように静かだった夜風が、急に音を立てて皆の間を通り抜けていった。
何もかもを攫っていくような鋭さと、包み込むような柔らかさ、両方をはらんだ不思議な風だった。
それが、倒れるマシロの髪をなびかせる。もう光は纏っていなかったが、小さな小さな光の粒が、一瞬だけ舞い上がったように見えた。
――と、次の瞬間。カゲが、その場にゆっくりと崩れ落ち始めた。
まるで泥の塊が落ちていくように、ボロボロと姿を崩していく。その塊たちが地面に山を作る。そして音をはらんだ風がまたひと吹きすると、カゲの躰を粉塵させ、跡形もなく連れ去っていった。
真那と魁成、どちらの舞刀も、まだカゲを貫いてはいなかった。
一体何が起こったか。一同は目を丸くし動きを一瞬止めたが、カゲの姿がなくなったことを認めるや否や魁成は刀を鞘に納め、その顔を引き締め直した。
安堵するには早かった。崩れたカゲの塊がなくなった地面には、血に染まるマシロが横たわっている。その血の出どころである首を、朔が押さえていた。
魁成は胸元に忍ばせていたスマホを手に取るや、素早い手つき操作し耳に当てる。電話だった。相手はすぐに応答する。
「マシロが負傷しました。氣をより強く送り、囲ってください。今すぐツナギの元へ向かいます」
それだけ言うと、魁成は最後の力を振り絞ってマシロをおぶろうとした。そこへ朔が間に入り、自分がおぶると申し出る。
それを受けた魁成は穂高を迎えに行っていた真那を目で確かめ、急ぐぞ、と言って先頭を走り出した。その後をマシロをおぶった朔が、そのまた後ろを穂高の手を引く真那がついて行った。
下駄は重々しい音を鳴らしながら地を踏んでいく。皆、それぞれバラバラに音を立たせ、ひたすら社の方へと走っていった。
マシロは静かに息をしていた。意識はまだ光の中にあった。もうそこで舞は舞っていない。マシロは、光の中で、揺れていた。
首元が押さえつけられている感覚がある。微かに鉄のような匂いもする。血が出ているのかと、ぼんやり理解する。体から何かが抜け続けている感覚がある気もする。それと同時に、白い霧が一気に押し寄せ頭の中を覆い出していた。
しかし不思議だ、とマシロは思う。血が出ているらしいのに、そこに痛みは些かにも伴わない。苦しみもない。
体がふわふわと揺れて、ただただ心地良い。
薄っすらと開いた瞼の隙間からは、光だけが見えている。とても、美しい光だ。
あぁ、懐かしい、と心でつぶやく。
……懐かしい。
その感情が湧いたことに少し驚く。それは、どんな時の感覚だったか。懐かしいとは、なんだったか。また、わからなくなる。頭が白い光でいっぱいになる。手を伸ばして触れてみたいような、柔らかい光に包まれている。
この光は一体なんだろう。どこから生まれて来たのだろう。
考えながら、マシロはそっと、目を閉じた。




