8.変化
バスの時刻表を見ると、次のバスが来るのは一時間も後だった。マシロは立ち尽くす柊を一旦ベンチに座らせ、自身も隣に腰を下ろした。
そのあと柊は口を噤んだまま、自分の影が落ちる地面に視線を落としていた。
先ほどの女についてマシロは話を聞こうかどうか迷ったが、事の重大さを感じ、柊の背に手を添えながら訊いた。
「……さっきのは、柊くんのお姉さん?」
マシロの問いに、柊はゆっくり頷いてみせる。そして俯いたまま、ポツリポツリと地面に言葉を落としていった。
「お姉ちゃんは、ここで痣子をしていました。けど、途中でやめてしまって。そのすぐ後に、家からも出て行ってしまいました。……それで、今日、久しぶりに帰って来たんですけど、……」
そこまで言って、言葉に詰まった。それから口を開かなくなり、マシロも何も言えなくなった。柊の丸まった背中を優しく撫でる。
真那も黙って柊の傍らに立ち様子を窺っていた。
が、空を見上げ、雲の端が翳り始めたのを認めると、ベンチに座るマシロに声をかけた。
「マシロ、もう帰れ」
言われ、マシロも自身のスマホで時間を確認する。思っていたよりも時間が過ぎていた。しかし柊のことが気掛かりで、すぐに腰を上げることができない。
「でも、柊くんが……」
柊に手を添えたままマシロが真那を見上げると、真那は柊を見やってから言った。
「バスが来るまで、俺が寒水とここにいる。だから、お前は儀に行け」
「――わかった」
そう言ってマシロが立ち上がると、入れ替わるようにして真那が柊の隣に腰を下ろした。その光景を見て、いくらかの安堵がマシロの不安を撫でる。
寄り添う姿はまるで兄と弟のように見え、柊の姉のように、真那の兄もまたこの地から去ってしまい帰って来なくなっていることをマシロは思い出した。
同じ境遇に身を置くものとして気持ちを理解しようとしているのか、柊を見つめる真那の目は穏やかだった。その真那に柊を託し、マシロはその場を後にした。
***
家に着くと、割烹着を着た小野がマシロを出迎えた。
「おかえりなさい。恩地さんから連絡が来たわ。急だけど、頑張ってね。簡単な夕食を用意しておいたから、食べなさい」
小野は事情を細かく知っているのだろうかと思ったが、どちらにせよ取り乱すようなことはせず、いつも通りの様子で言った。
一方マシロはそんな小野を前にして、一瞬息が詰まるような思いになった。
柊の一件で忘れかけていた、真那との約束を思い出す。
大人たちには内緒でカゲや痣子について探りをいれていることを、小野に悟られないようにしてほしい――。そう言っていた真那の顔が、脳裏に蘇った。
直後マシロは、今自分はしっかりと表情を繕えているだろうかと、一抹の不安を覚えた。笑みを浮かべようとした顔が引き攣る感覚がした。
それを悟られまいと、急いで儀の準備に取り掛からねばという素振りを見せ、マシロはすぐさま自分の部屋に駆けていった。
逆に怪しまれたかもしれないと、部屋に入った瞬間思ったが、やはり平常心ではいられなかった。
図書館で借りた本と、真那のノートを文机の引き出しに仕舞う。できるだけ奥の方に、隠すようにして入れた。
そしてそのあと深呼吸を何回か繰り返すと、小野が用意した軽食を食べに台所へと向かった。
食事中、小野は敢えてなのか儀のことを話題に出そうとはせず、なんでもない話をいくつかしてきた。マシロは小野が握ったおむすびを頬張りながら、ただただ相槌を打っていた。
夕食後、夜隠れの衣に着替える際、マシロは自分の脇腹に目をやった。
痣を持たないマシロには、それが消えていないかの確認は必要ないものの、柊のことが気かがりで仕方なかった。
いつ、どのように、柊は痣が薄まっていることに気付いたのか。その時の心境は、いかなるものだったか。
痣のことのみならず、柊の姉についてもマシロは考えを巡らせる。
柊にとって、痣が薄まったことよりも、突如目の前に現れた姉のことの方が、心を揺り動かしていたように見えた。
何事においても、儀の時でさえも表情をあまり変化させてこなかった柊が、姉を前にした瞬間、それを崩した。体にも力が入り、震えてさえいた。
柊の姉の顔を思い出すと、マシロも心なしか、背中に寒気が走って体が震える気がした。
着替えてからしばらくの後、マシロはやってきた迎えの車に乗り込んだ。中には越佐澪二と歩岐島朔、そして瀬取琉也がいた。後部座席の前列、澪二の隣が空いており、マシロはそこに腰を下ろした。
「澪二くん、今日はよろしくお願いします」
マシロが言うと、澪二は「うん」と小さく返した。
この日、柊と儀をする予定だったのは澪二だった。その澪二と、柊の代わりであるマシロは今日組になるのだった。
痣子の痣が薄くなり一部欠けたという事実は、夕方の時分に全痣子に通達された。それは柊やマシロが所属する第三支部に留まらず、第一支部、第二支部にも話は行き渡り、今一度、痣子は自分につく痣が薄くなっていないか、欠けていることはないか、確認せよと添えられていた。
車が出発した後も、マシロの後席に座る二人は痣について仕切りなく話していた。そんななか澪二も、前を向いたまま少し抑えた声で言った。
「痣が薄くなることなんて、あるんだな……」
それにマシロは小さく頷いてみせる。その後少し間を置いてから、問うてみた。
「今までこういうことはなかったんですか?」
真那や澪二の反応、そして支部長の恩地の対応を見ると、今起きていることは今までになかった異例の事態のように思えた。何か、不穏な空気が漂っているよう。そんなふうに感じられた。
マシロの問いに、澪二はやはり首を傾げる。
「うーん……。どうなんだろな。もしかしたら過去にもあったかもしれないけど、俺は聞いたことないな」
頷き、マシロは質問を重ねる。
「他の皆さんは、大丈夫なんでしょうか」
「うん。車内で話が出た分には、他の痣子は大丈夫らしい。俺も、大丈夫だったし」
「そうなんですね。……よかったです」
マシロは少し安堵したが、マシロ以外の痣子のことを思うと心はどこか落ち着かないものになる。
恩地からの通達を受け取った後、痣子たちは恐る恐る自分につく痣を確認したのだろうかと、その様子をひとり想像していた。
通達では痣子の名前は伏せられていたが、今から儀に向かう、魁成含む車中の四人はそれが柊であることを知っていた。
柊の代役を務めると知ったうえでマシロがこの場にいることも皆承知していたが、まさかマシロが直接柊から話を聞いているということは知る由もない。マシロ自身も、自分からそのことを話そうという思いは全くなかった。
と、会話が途切れたかと思うと、澪二の方から長く息を吸う音が聞こえてきた。マシロが横目で見やると、澪二は息を吸い切った後、きゅっと唇を引き結んだ。顔からは、先程までほのかに浮かんでいた笑みが消えている。
澪二は本来、底抜けに明るい性格の持ち主なのだった。町を歩けば至る所で知り合いに声をかけられ、そんな人たちに声をかけ返し笑顔を振り撒く。持ち前の愛嬌で、老若男女問わずみんなから好かれているという印象があった。
しかし今はそれも影を潜め、顔も若干強張っているように見える。――儀になると、澪二はいつもこうなるのだった。
澪二は緊張、不安感を持ちやすく、社での舞となると精神が不安定になり、うまく舞うことができなくなるという性分の持ち主だった。
過去に、誘の舞を終えたマシロの前で、自身の鎮の舞の途中に過呼吸になってしまうということがあった。
特に還の舞がダメなようで、何度か挑戦しているものの、全て失敗に終わっていたのだった。高校生であるが、今は誘の舞までが限界だった。
それらのことについて、マシロは数ヶ月前の夏に、澪二本人の口から話を聞いた。澪二に対して明るい印象を持っていたマシロはその時心底驚いたものだったが、痣子にも当然心があり、様々な事情や思いをその身に抱えながら儀に臨んでいるのだと改めて心得たのだった。
「――マシロ、今日、急にごめんなぁ」
澪二がポツリとつぶやく。
唐突な謝罪に、マシロは首を傾げ澪二を見やった。何に対して、とマシロの思考が一気に回る。
急に儀を担当することになって、と言うことならそこは澪二が謝るところではないと思われた。マシロは恩地の指令によって今そこにいるのだ。
もしくは自分が組で申し訳ない、と言うことなら、すでに今まで何回か組になってきたのに今更急に何を、と言う話であった。
そして今に至るまでの数分の間に何かされた記憶もないので、謝罪の対象が何かが全く見当つかなかった。
「……あの、どうして澪二くんが謝るんですか?」
澪二の落ち度が何一つ見つからないマシロは素直に訊ねた。それに対し、澪二は少し視線を泳がせたあと、マシロにしか届かないほどの声で答えた。
「……俺が、柊の代わり、マシロにしてほしいって恩地さんに頼んだからさ」
「――澪二くんが……?」
澪二は頷くと、マシロの方に少し身を寄せる。衣が擦れる音の中に、鈴が鳴る音がくぐもって聞こえた。
「実はさ。痣のことが通達で回った後、恩地さんから俺に、個別で連絡が来たんだ。今日の儀、やめておくかって。――ほら、俺こういう“特別な何か“が起こってる状態って、めちゃくちゃ苦手だからさ。実際、通達来たあとちょっと具合悪くなったし。……しかも、今日はかなちゃんたちもいないから」
“かなちゃん“とは、第三支部の中では魁成に次ぐ二番目の年長者である、栗巣奏多のことだった。
澪二の姉と同級の社会人で、男性ではあるが、見た目は誰が見ても女性に見えるような風貌をしている。
栗色の髪は肩ほどまであり、表情が柔らかく声も女性のように高い。痣子からは"クリス"と呼ばれていた。
しかし幼い頃から家族ぐるみで交流のある澪二は、クリスのことを「かなちゃん」と呼んでいた。それを、クリス本人も気に入っているらしい。それより先にクリスが澪二のことを「澪ちゃん」と呼んでいて、そんなクリスは澪二にとって、気心知れる存在になっているのだった。
クリスは澪二の性格について他の誰よりも理解しており、明るい澪二ともう一面の澪二の両方を受け止めていた。マシロが初めて澪二の不調を目の当たりにした際も、クリスは澪二のそばに寄り添い、介抱していたのだった。
澪二の話を聞き、言われてみればと、マシロはこのあと儀を担うメンバーを改めて確認する。
いつも澪二が儀を担当する時大体組を共にしているクリスが、今日はいない。しかもそれだけでなく、高校二年の琉也と朔、高校一年の澪二と、年長組枠の中でも年下に位置付けられる層で固められていた。
「今日はもともと、年上の人たちなしで儀をやる日だったんだよ。社会人のかなちゃんと、高校三年組を除いたメンバー。……三年生たちは、春になったらいなくなるだろ」
それを聞き、マシロは納得したふうに頷いた。
澪二が言うには、今の高校三年生が卒業する約半年後に残っている痣子たちで儀を滞りなく行なえるようにするため、次に年長組になる琉也と朔を中心に据えたメンバーで、この日は儀を行なう予定だったという。
さらにそこにまだ中学一年生である柊が据えられたのは、柊は技術で見れば中学二、三年相当、しかも今後儀の中心となる痣子の一員になるであろうという考えがあってのことらしい。
――しかし、その柊が儀に出られなくなり、しかもその理由が痣に異変が起きたという前代未聞のことであった。
様々な事情が重なる日に、果たして澪二が冷静を保って儀が行なえるだろうかと、恩地は懸念したらしかった。
「柊の代わりをかなちゃんにすることはできなかったんだ。かなちゃん、今日夜仕事だから。出張で、そもそもこっちにいなくてさ。それで、俺が儀をやめるか、どうするかってなったんだけど。……その話が出た時、俺すごく自分が情けなくなったんだよね。こんな時にまで周りに甘えて、迷惑かけるのか、って」
マシロは胸の内で首を横に振っていた。それは甘えではない、と同時に思う。
けれど、言葉にはできなかった。そんな言葉は澪二とって、慰めにもならないと思った。そもそも、慰めすら欲しくないと思っているだろうとも思った。
「……それで、どうして僕を……?」
かける言葉を考えあぐね、マシロは話を本題に戻した。
澪二が伏せていた目をマシロに向ける。そんな澪二をマシロも見返し、二つの視線が交わると、澪二は小さく息をついてから言った。
「……俺、マシロと組む時、精神的に余裕ができるのか、落ち着いて舞ができるんだ。――実は、初めてマシロと組になった時から、そう思ってた」
澪二の唇の端には淡く笑みが浮かんでいた。
マシロはそれを見やって、初めて澪二と組になった日のことを反芻した。
マシロは儀をするようになってしばらくの間、なかなか澪二と組にならなかった。今考えれば、他の痣子とは少し異なる存在であるマシロと組をさせることは、澪二の精神的不安になり得ると考えられていたのかもしれなかった。
しかし、還の儀ができず崩れ落ちた澪二の姿を見た数日後のこと。澪二は自分の心内を教えてくれ、さらにその後、澪二自らマシロと儀をしてみたいと言ってくれた。
数日後に、それは叶うこととなった。
そしてその儀の当日。実際隣に並んで舞をしてみると、澪二の緊張の程がよくわかった。祈火は確かにあるのだが、それが正常に灯るのをまるで何かが邪魔をしているように、時折不安定に揺れるのを感じた。
――が、その揺らぎが、歩みを進めるごとに小さくなっていくのがわかった。祈火が確かな灯りを見せ、さらには強く感じるようになっていき、その日は無事、カゲを社まで誘うことができたのだった。
儀が終わるや、澪二が少し興奮した様子で「不思議と落ち着いてできた」とマシロに言ってきた。それはマシロにとって、とても嬉しく感じる言葉だった。
それからマシロは何回か澪二と儀を共にするようになり、回を重ねるごとに、澪二の祈火の揺らぎは早いうちから消えるようになっていった。
自分と組になる時は、落ち着いて舞ができる。
そう思ってもらえるのは、嬉しいの一言では収まらないものがあるように思えた。
今まさにその状態になっているマシロに、澪二が優しげな瞳を向けて言う。
「――やっぱりマシロには、特別な力があるんだろうな。なんとなく、そう思う」
「……特別な力……?」
マシロは澪二に言われた言葉を何度か胸の内でも繰り返し言った。
自分では、よくわからなかった。しかし、何度か同じようなことを言われたような気もした。
それはやはり"伝説の巫女"に関わる何かによるものだろうかと、マシロは思った。それに関し、ずっと確かな手ごたえがないと思っていたのだが、ゆっくりと眠りから覚めるように、知らぬ間に何かが変化し始めているのかもしれないと思った。
「……というわけで、ごめん。急に、儀をやらせることになっちゃって。そこだけ甘えさせてもらった」
澪二に再度謝られ、マシロは首を横に振る。それから絞り出すような声で言った。
「……謝らないでください。そういうふうに、――落ち着く、と思ってもらえて、僕はすごく嬉しいです。ありがとうございます」
自分が誰かの力になれること。自分の存在が、誰かに勇気を与えられること。それがマシロにとって、どれだけ大きな喜びになるか。
自分を求めてくれた澪二に対し、マシロの方が感謝したい気持ちになった。
マシロは真っ直ぐ澪二を見据えた。マシロの澄み切った瞳に、澪二の顔が映る。その顔には笑みが浮かんでいた。今日見た笑みの中では、いつもの笑顔に、一番近いものだった。
笑みを乗せた口元が、ありがとう、と動く。そのしばらく後に、車は社に到着した。




