32.カゲノチ
グラスが汗をかいていた。茶は少しも減っておらず、マシロはそれに口をつけることなく、魁成が語るこの地で起こった話を、ゆっくりと飲み込んでいった。
魁成のこと、真那のこと、萌子のこと。マシロが知り得なかった一面が、それぞれにあった。
それは重い重い、過去だった。
「萌子ちゃんのお姉さん、……春子、さんは、その時亡くなった、ということですか」
息が詰まったようなマシロの声に、魁成はゆっくりと頷く。
「春子は仕事から帰ってくる俺を待っていつもの庭にいたところに、土砂崩れに巻き込まれた。巫女も痣をつけられているから、死んだ瞬間に体はなくなる。そのとき身に着けていたものだけが、土の中から掘り起こされた。痣子関係者だった人が、それを見つけて持ち帰った」
そう言って魁成は立ち上がると、引き出しの中から何かを取り出し、マシロの目の前にかざした。
花と、木細工のキーホルダーだった。色がくすみ、光を失っている。それを見て、マシロは胸が締め付けられる思いになった。
「その災害は、カゲによるものとされたんですか」
マシロが重い口を開いて訊くと、魁成は目線を落としたままに答える。
「あぁ。町の人らの中では、災害の原因は謎に包まれたままだったけど、痣子関係者はすぐにカゲが原因だって気づいたよ」
「……じゃあ、真那くんのお兄さんと、他の人たちは、そのあと……」
マシロの声は尻すぼみになっていった。魁成が後を引き取るように言う。
「すぐに、災害があった前日に儀を任されていた奴らが集められた。俺もその場にいたけど、問い詰めたらすぐ白状したよ。口火を切ったのは、真那の兄の真人だった。偽りなく、正直に話したよ。今まで真面目を貫き通してきたから、今更嘘で塗り固めることはできなかったんだな。――で、そのあとその四人は痣子を辞めた」
マシロは目を丸くする。
「四人、全員ですか……」
「あぁ。責任持って、その後の儀を務め上げさせるべきって声もあったけど、四人ともそれはできなかった。精神的に病んで学校すら行けなくなった奴もいたし、家族ごとここから引っ越していったやつもいるし、真人はそこまではなかったけど、高校卒業すると同時に家から出て行って、それから一度も帰って来てないと思う。――みんな、痣子の世界から離れていった」
マシロは思わず俯いた。
どこか作り話のようなことが、実際数年前に起きていたのだと、受け入れ難い気持ちになっていた。
「今、田平さんが話してくださった話は、他の痣子のみなさんは知っているんですか?」
「あぁ。このことは年々、新しく痣子になって半年くらい経った子らに、教えるようになってる。決して、同じことが起こらないように。――マシロにも、もうそろそろ伝えようかってなってたんだけど、今日あんなことがあったからな。急遽、俺から伝えることにした。たぶん、他の中学一年のやつらにも早急に話をすることになるだろうな。……休んでる二人にするかは、わからんけど」
魁成が言った、今儀を休んでいる大樹と悠馬にこの話をするのは酷ではないかとマシロは思った。
けれど、語り継いでいかなければならないことであり、同じことが二度とあってはならない。その思いは、マシロの中に強くあった。
ギシ、と椅子が軋む音が部屋に響いた。目の前にいる魁成が、足を組み直していた。
「それ以降俺は、毎日のように夜の儀に付き添ってる。助っ人役としてもあるけど、監視役としてもな。……しっかりしてる痣子たちを見てると錯覚することがあるけど、中高校生なんて、まだまだ未熟なもんなんだよな。体も心も」
聞いて、マシロは以前、高校一年生の痣子である越佐澪二が言っていたことを思い出した。自身の悩みを打ち明けた後、彼は”痣子は普通の人間であり、普通の中学生と高校生なのだ”と零していた。
巫女役の奥住楓にもあったように、年相応の悩みも日常の中にある中で、儀を務めなければならないという痣子の立場における悩みが重なっている。それを、その身に抱えている。
彼らにとって、それがどれだけの負担になっているかは人それぞれでありマシロも計り知れないところではあるが、痣子たちは様々な感情を押し込めながら、この地や人々を守るため儀に携わっているのだった。
「そう思うと、真那は精神力が人並み外れてると思うよ。兄があんなことになったっていうのに、痣子として儀を務め上げてる。誰よりも強い責任感を持ってる。……萌子ちゃんも、よくやってくれてる」
魁成はまるで二人を慰めるような優しい口調で言った。それを受け、マシロも吐き出す声を落ち着かせる。
「僕、前に、特に約束もしてないのに萌子ちゃんとばったり会った場所があって。……会ったと言うか、見つけた、と言うか。それからも、そこで何度か萌子ちゃんを見かけて。――そういう時は、萌子ちゃん大体何か考え事をしている風なんです。その、場所って言うのが、さっき聞いた、春子さんの秘密のお庭なんですけど……」
へぇ、と魁成が口の中で言う。先を促した。
「――あそこって、もうお花とかは咲かないんですか?木も草も、花も全くなくて、ほとんど陽射しも入ってこなくて、さっき魁成さんの話で聞いた雰囲気とは、全然違うように感じたんですが……」
魁成の話に出てきた秘密の庭は、花が咲き、自然で溢れている印象を受けた。しかし今はそれとは真反対で、緑ひとつないのだった。
もう、以前の状態には戻らないのだろうか。蘇ることはないのだろうかと、マシロは願うような心持ちになっていた。
「――”カゲノチ”に、なったからなぁ」
魁成が表情に陰を落として言った。マシロは顔を傾ける。
「カゲノチ……」
初めて聞く言葉に、マシロは繰り返し眉を顰める。
「カゲによって枯れた地。”ケガレチ”をもじったものだと思うんだけど」
「ケガレチ……?」
マシロが訊き返すと、魁成が空中に指で文字を書くふうにした。
「気が枯れる地と書いて、ケガレチ。一般的にもごくたまに聞く言葉なんだけど、基本的には、植物、作物が育たないとか、事故が起きやすかったり、家を建てるとそこに住む人が病気になりやすかったりする。簡単に言うと”あまり良くない土地”。――反対に、良い土地のことを、癒す土地、”イヤシロチ”って言う」
「イヤシロチ……と、ケガレチと、カゲノチ」
「うん。痣子の世界では、カゲに侵蝕された土地のことをカゲノチって言うらしい。一度カゲノチになったら、もうそこで植物は一切育たない。植えてもすぐ枯れる。川も、枯れる。……春子の庭は、カゲノチになった。もう、戻らない。――でも萌子ちゃんは、まだあそこに行ってるんだな」
魁成が寂しげな表情で言い、それにマシロは黙って頷くことしかできなかった。
「俺はもう、あそこには行けねぇな。悪い土地になったから近づきたくないとか、そういうんじゃなくて。……春子との思い出の場所だけど、その思い出があり過ぎて、足を向けるだけで苦しくなる。――もう、何も戻ってこないからな」
魁成から静かなため息が漏れる。一方マシロは口を閉じたまま黙していた。
マシロは魁成の話を聞き、春子が魁成にとってどれだけ大切な存在だったかが汲み取れ、その春子がすでにこの世にいない事実を知り、言葉だけでなく息も詰まりそうになっていた。
自分が魁成に掛けてやれる言葉などひとつとしてない気がし、ただ見つめていることしかできなくなった。
その視線の先で、魁成がいつもの憂を帯びた笑みを滲ませる。
「前にさ、俺、結婚する気ないって話しただろ。その時言った、子供を育てる自信がないっていうのも理由のひとつとしてあるんだけど。……それ以上の理由として、春子以外の誰かと一緒になるっていうのがそもそも考えられない。加えて、春子との思い出を一秒たりとも忘れたくないっていうのが揺るぎない思いとしてある。痣がなくなったら、どこかの記憶が抜け落ちる可能性があるからな。――聞いたか?子供を作って痣が消えたら、灰になって消えた者の記憶がどこかしら消えてなくなることがあるって話」
訊かれても、マシロはまだ無言のまま頷くだけをした。それに応えるように、魁成もまた小さく頷く。
「――俺は、ほんの些細な、どんなに小さなことでも、大切な人との記憶はなくしたくないんだ」
あぁ、とマシロは息をつく。
子を作ると、痣はなくなってしまう。しかしもともと痣を持たない人と違い、過去に痣を持っていたという事実があれば、その後万が一痣子や巫女が亡くなったとしても、その記憶は完全には消滅しない。――が、どこか一部分がなくなってしまうことがある。そのことを、マシロは以前小野から聞いたことがあった。文也の、弔の儀が行なわれた場で。
もし魁成が誰かと結婚し、痣子を継承させるために子を作れば魁成の脇腹にある痣は消える。そうすると、今は亡き、痣を持っていた春子との記憶が抜け落ちてしまう可能性があるということになるのだった。話によれば、どこまで記憶を失うのかは未だ判然としておらず、なくならない可能性もなきにしもあらずという状況なのであったが、魁成は、少しでも可能性があるならばそのような状況を自ら作りたくないのだろうとマシロは察した。
考えようによっては、記憶を失ったとしてもその記憶がもともとなかったものだと思ってしまえば気は楽になるのかもしれない。そもそも、忘れてしまったということに気づかないことだってあるだろう。しかし魁成は、忘れるかもしれないというその事実に対し、恐怖を抱いているのだった。
「こうやって、俺にとってはどうしても忘れられない存在なのに、痣を持たない他の人たちからは完全に忘れられるんだよな、不思議なことに。……父さんも、忘れられたし」
魁成は椅子に肘をかけ頬杖をつき、ぼんやりとした目を床に落とした。そこには細かな木屑が散っていた。
「……正臣さん」
マシロが思い出したように正臣の名をつぶやく。
「父さんはさ、カゲにやられたわけじゃなくて、まぁ、普通の人と同じように、よくある病気で死んだんだけど。自分が作った子供はいないからさ、痣はそのままで、家で死んで。――そのまま、布団の上で灰になったよ」
魁成の前で何度目だろうか、またしてもマシロは息を詰める。そういうことになるのか、と心中でつぶやき、事実を改めて飲み下した。
子供を作れば痣は消える。痣子の使命を子に託し、親は痣子ではなくなり、その子を見守る側になる。一方正臣のように子を作らず痣子でい続ける選択をすれば、痣はそのままであり、亡くなれば痣の力によって灰になる――……。
そこで、マシロはふと魁成を見た。切れ長の目が合う。マシロが考えていることを理解してか、魁成はその目元を緩め、ふっと淡い笑みを作った。
「……俺も、いつかそうなるってことだ」
マシロは静かに視線を落とす。うな垂れるまではいかないが、頭をわずかに垂れさせた。
――どうにかしたい。
その思いが、マシロの心に大きく巣くった。
痣子の世界は、なぜこんなにも苦しいことばかりなのだろうと思った。この地を守るために力を尽くしているのに、誰にも知られず、命を落とせば忘れ去られる。そんな世界が、もう何年も続いている。
床を見つめるようにしたまま、マシロは強く唇を噛んだ。同時に手にも力が入り、ぎゅっと握りしめる。自分が何とかすると、何度も何度も決意しているのに、何もできていない気がしてならなかった。無力な自分に、身悶えした。
そこに、魁成の穏やかな声が浮かぶ。
「――前にマシロ、もっと儀を頑張るって、自分がこの世界を終わらせるって、言ったことあったろ。その時俺、頑張り過ぎるなよってその場では言ったけど。……本当に、根を詰めるようなことはしてほしくないんだけど。今は、マシロが頼みの綱なんだよな。そう思うと荷が重いかもしれないけど、事実はそうなんだよな。……でも、俺らも頑張ってるからさ。マシロ一人だけに任せようとはしてないから。恩地さんもいろいろ調べたりしてるし、俺も、マシロの舞がもっと上達するよう力添えするから。だから、みんなで、頑張っていこう。これ以上の犠牲を、作らないためにも」
マシロを見つめる魁成の眼差しは優しかった。けれど、その奥には強い決心が確かに控えている。マシロはそれをじっと見つめ返し、固く結んでいた唇をほどいた。はい、と深い返事を返した。
そのいくらか後。雨が屋根を叩き始めた。それを聞いて、
「降ってきたなぁ」
と魁成が天井を仰ぐ。それからおもむろにスマホを開いた。今夜、誰が儀の担当だったかを確認し始める。今日も、いつもと変わらず儀が行なわれるのだ。それに魁成は、自分が持つ使命をその胸に強く抱いて同行する。
儀を終えた後、その時分の魁成は、いつも脱力して見える。それは、その日痣子が責務を全うし、また誰も欠けることなく儀を終えることができたという安堵からくるものなのかもしれないとマシロは思った。
そんな日々を、魁成は幾年も続けている。その心の中には常に春子の存在があるのだろうと思った。




