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いのりびと  作者: 奥宮イツキ
第一部
5/180

5.名前

 家を移ることを知らせるためまず恩地が少年の部屋に赴くと、そのあと入れ替わるようにして真那と文也の二人が揃って少年の部屋を訪れた。

 調子はどうかと声をかけるなり、文也は布団から半身を起こした少年のそばに腰を下ろす。真那はというと無言のまましばらく襖近くで様子をうかがい、しばらくののち文也の隣に正座した。


 ――昨夜と服が変わっている。少年はそう胸の内でつぶやく。目の前にいる二人は漆黒の和の服ではなく、紺色の生地に青い一本線が入った上下長袖のジャージを着ていた。鈴はどこにもついておらず、刀もその手に携えていない。ただ二人とも、腰骨が立って背筋から頭までがすらりと伸び、座す姿も一寸の乱れのない美しい佇まいであった。

 その姿に見惚れた後のこと。少年はふと真那の面差しに目をやるなりそこにあった変化に気づき、瞳を丸くした。


 ――あれ……。


 声にならない声が口の中に仕舞われる。傷がない、と思った。昨夜真那の右頬にあった傷が、跡形もなく消えていたのだった。

 そのことを訊ねようとして、少年は言いどもる。彼の名前はなんだったかと、昨日今日と自分の耳で聞いたいくつかの名前を頭に浮かべてみたのだが、文字が旋回するだけで、手繰り寄せることができなかった。


 自分の顔を無言のまま見つめられわずかに眉間に皴を寄せた真那の隣で、文也が取りなすように不器用に笑って見せる。と、そこへ何やらビニル袋をがさがさ言わせながら秀子がやって来た。追って恩地も再度姿を見せ、真那と文也は立ち上がった。


「剣くん、これ小野さんのところに持って行ってくれる?畑で採れた野菜。こっちのはちょっと見た目が悪いんだけど、味は問題ないからね」

「それと真那、お前の荷物はあとで親御さんが持ってくるそうだから、このまま小野のところに行ってくれ」


 秀子、恩地と続けて真那に言った。そこで、あれ、とまた少年の息のような声が口内にこもった。

 自分の目の前で、一人の人物がふたつの名前で呼ばれている。秀子は「剣」、恩地は「真那」と呼ぶのを見て、少年の顔に困惑の色が浮かんだ。

 その一連の様子を見ていた文也が、すっと間に入る。


「彼ね、剣は苗字で、真那は名前だよ。(つるぎ) 真那(まな)


 文也が言って、少年は頷いてみせた。次いでぶつぶつとつぶやき始める。剣、みょうじ、真那、なまえ。剣、真那――……。


「”剣くん”って呼んだ方がいいかも。とりあえず、今のところは」


 文也は少年に顔を近づけると、耳元でこっそりささやいた。顔を離すなり、ふふ、と微笑む。それを見やってから、少年は「剣くん」と小さく復唱してみせた。


「ちなみに僕は、瀬取(せとり) 文也(ふみや)。改めて、よろしくね。僕は、文也くん、文也、どっちでもいいよ。ほとんどみんな名前で呼んでる」

「文也、くん。――文也くん……」


 同じようにぶつぶつ名前をつぶやく少年に、文也は思わず声を出して笑った。始終微笑む文也を目の前にして、少年も口もとを緩ませる。


「あ、笑った」


 そう言うと、文也はさもうれしそうにして、笑みを深くした。目が線になる。とても柔らかい笑顔だと、少年は思った。




   ***




 真那と恩地がいくつか話を終えたのち、少年は真那と文也の二人に連れられ恩地の家を後にした。

 新たな家へは徒歩で向かった。恩地はすでに電話で、少年の新しい宿主に挨拶を済ませたそうだった。

 その道中、少年は常に文也の隣を陣取って、その文也が歩きにくくなるほど互いの幅を狭めて歩みを進めていた。




 ――いざ恩地の家を出発するという時に、起きた出来事だった。


「お前、礼を言えよ」


 それまでより一層鋭く刺すような声音(こわね)で真那が少年に言った。目を光らせ、信じられないとでも言うような顔つきで少年を見た。目を泳がす少年に、文也が一歩近づき耳元で「お世話になりました、ありがとうございました、って言うんだよ」と助言した。


「お世話になりました。ありがとうございました」


 オウムのように言う少年を、真那はやはりねめつけるように見やった。

 それから少年は、またいつ鋭い言葉を浴びせられるかと怯え、真那から少し距離を取るようになったのだった。

 そんな状態で恩地の家を出発することになったのだが、新しい家まで文也がついてきてくれることになったのは少年にとって唯一の救いだった。文也自らが名乗り出てくれた時、少年はほっと、胸を撫で下ろした。




 三人が連れ立って小野の家に向かう頃、空は墨が滲むように暗くなり始め、茜色が山の方へと押し込められているところだった。風は冷たく、少年は恩地宅で借りた上着に体を包み、秀子から借りたサンダルをつっかけ、地面をカラカラと鳴らしながら歩いた。昨夜とは違い、この時は真那が先頭に立ち、そのあとを文也と少年の二人がついて行った。


 十五分ほど歩くと、家が見えてきた。周りに他の家はなくぽつんと建っており、豪華ではないが大きく、清閑とした佇まいで趣のある日本風な家である。


「あの家だよ」


 指さして、文也が少年に教えた時だった。どこからか、小走りで駆けてくる音が聞こえてきた。少年がその方に目をやると、脇の道から着物を着た女性がやってきた。

 そして家の前で鉢合うようになり、互いに足を止めると、真那と文也が頭をさげて着物の女性に挨拶をした。

 少年はその隣で、女性の顔をまじまじと見る。恩地の妻、秀子よりもわずかに白髪が多く、笑い皴が濃く刻まれている。女性は少し荒くなった息をふうふうと整えると、目の前の三人を見比べるようにした。


「こんにちは。ごめんなさいね、ちょっとそこまで行ってて……」


 そう言って自分が来た方を指で示すと、その後少年にぴたりと目を留め、


「――あなたね、いらっしゃい。小野(おの) (みどり)です。はじめまして」


 深々と頭を下げた。棒立ちになっている少年の背中を、文也が優しく触れる。それに押されるように、少年もわずかに腰を折った。


「すみません。お世話になります」


 続けて真那も、深く腰を折って言う。それを見て、小野は上品な風貌に釣り合わないケタケタという笑い声を響かせ真那の肩を何度か叩いた。


「そんなにかしこまらないでよ。ちゃんと任されてウチに来てるんだから。それに、家に人が増えて私もうれしいわ」


 そう言いながら、小野は三人を家の中へと促した。少年は少し戸惑う様子を見せたが、小野に優しく手を添えられ、なんとか家へと歩を進めた。そしてその間も例によって「小野、緑、小野、緑……」と小声で名前を何度も復唱し、そんな姿を小野は目を細めながら見つめていた。




 小野の家は年代を経た外観と同様、中も古い様式の物がそこかしこに鎮座していて風情があった。しかし重厚感はそれほどなく、丁寧に手入れされているのであろうそれら全ての存在はうまく調和しており、そこはかとなく、心がふと落ち着くような雰囲気を醸し出していた。


「真那くんも、うちにはそれほど来たことがないわよね」


 そう言って、小野は早速日常で使用する部屋たちの案内を始めた。

 台所、風呂場、手洗い場などを順々に巡り、各所で足を止め説明を受けるたび、真那は「はい」と言って頷いた。少年は依然として文也の隣にくっつくようにして小野と真那の後ろをついて行く。

 そして最後、とある部屋の前に着くと、小野は声音を改めて言った。


「ここが、これから二人に使ってもらう部屋よ。真那くんと、それから――……」


 そこで小野は言葉を止め、少年の方に向き直り腰を屈める。真っ白な肌をした顔をじっと見つめた。


「……そういえばこの子、自分の名前もわからないのよね?仮に呼ぶ名はあるの?恩地さんのところではなんて呼んでいたのかしら」


 言って、真那、文也を交互に見た。それを受け、文也があ、と声を落とすと同時に口元に手を添える。


「……そういえば名前、呼んでない……。どうやって呼ぶかは、決まっていないと思います」


 答えると、小野は少し驚いた様子で目を見開いた。


「あら、そうなの?それは可哀想だわ。一緒に住むんだから、名前がないと困るしねぇ。恩地さん、そこはあんまりちゃんと考えてなかったのね。――まったく、そういうとこあるんだから、あの人は」


 そう言って困ったような笑みを零す。


「確かに名前がないと、彼のことを呼べないですよね」


 文也も苦笑いを浮かべ、小野は「そうよねぇ?」とさらに同意を促すように目をやった。

 それからしばらく考え込むようにし、口から漏れる唸り声が止んだと思うと、突然パチンと手を叩き、子気味良い音をその場に響かせた。


「……もう、私たちで、つけちゃいましょうか」

「え」


 思いもよらぬ提案に、文也は目を丸くする。


「いいんですか……?」

「良いも何も、つけなきゃ呼べないんだから。恩地さんは他のことで頭がいっぱいでしょうし……、私たちで決めましょうよ」


 小野は文也と真那を見、それから少年の方を見た。少年は状況を飲み込めずただ首を傾げる。


「でも、どんな名前にします――?」


 文也が問うような顔を小野に向ける。小野は少年に視線を注いだままに答えた。


「そうねぇ。この白い髪と肌、白を連想する名前がいいんじゃないかと思うけれど。そのままシロ、は犬みたいだし。白がつく名前……、白いもの……。雪……は、だめだし。雲……うーん、なにがいいかしらね……」


 小野は少年をじっと見つめ、また唸り出す。文也は少し躊躇いながらも、顎に手を当て考え始めた。

 そんな二人を少年はただただじっと見つめ、真那も無言のまま、傍らで唸る二人を眺めていた。


「人の名前なんて、そう簡単につけられるものではないからねぇ。じっくり考えて、決めましょうか」


 と、小野がそう言った時だった。家に、ひとりの来客があった。それは真那の母親で、早速真那の荷物を持って訪れたのだった。しかし玄関先で荷物たちを真那に手渡し深々と何度も小野に頭を下げると、挨拶も手短に早々に帰っていった。

 その様子を、少年は文也と遠巻きに眺めていた。真那の母親は真那と同じく凛とした顔立ちをしていたが、頬がこけ、真那とは少し違う雰囲気を纏っているように感じられた。


 真那の荷物が部屋に運び込まれると、その荷解きや部屋の整理が始まった。文也は双方を手伝い、少年はというと自分の荷物という荷物もなく、部屋の隅で所在無げに立ち尽くしていた。

 そんな中、小野がふと、しみじみとした声を落とす。


「何年ぶりかしらねぇ。こんなふうに子どもたちと一緒に過ごすことになるなんて」


 あぁ、と反応を示したのは文也だった。


「そう言えば……。ここにいたみなさんは、もう成人されたんでしょうか」


 訊かれ、小野は静かに頷いてみせる。


「そうよ。みんなすっかり成人して、結婚も……。子どもも、生まれたりしてね」

「お子さんも」

「えぇ。写真を送ってくれるけど、なかなかに感慨深いものがあるわ」


 小野は目尻に深い皺を刻む。文也も柔らかく微笑んだ。

 と、小野は少年を呼び、文机を拭いてくれるかと布巾を手渡す。そして少年がそれを受け取ると、声のトーンをひとつ落として言った。


「……誰か一人は、ここに残らないかしら、なんて思ったりしたけど、みんなやっぱり離れていっちゃったわね。――まぁ、そうなるのが一番なんだけど、ちょっぴり寂しい気持ちはあるわね」


 それまで休みなく動いていた小野の手が物寂しさを纏って止まり、顔にも一瞬、影のようなものが(かす)める。

 その瞬間を、少年の目がしっかりと捉えていた。目に映るものを瞳に焼き付けるようにじっと見、体を身じろぐようにする。そしてややあってから、少し躊躇いつつ小野のそばに近づき、そっと身を寄せた。

 それに気づいた小野は、少し驚いた様子を見せた後すぐ表情に元の明るい色を戻す。その顔を、黙ったままでいる少年に向けた。


「あら、どうしたの?」


 そう言って、少年の顔を覗き込みようにする。しかし少年は何も言わず、ただ小野に寄り添うようにして座すだけだった。



「――文也、お前時間大丈夫なのか」


 真那がそう言ったのは、部屋があらかた片付いた時だった。文也は部屋に掛けてある時計を振り仰ぐと、慌てた様子で立ち上がる。


「あ、いけない。もう行かなきゃ。小野さん、僕そろそろ――」

「あぁ、ありがとうね文也くん。……じゃあみんなで一緒に、お見送りしましょう」


 そう言って小野もすっくと立ちあがり、少年も床についていた膝をゆっくりと伸ばす。そして文也を見送るべく、部屋を後にした。


「――名前、結局決まりませんでしたね」


 靴を履き、玄関を出たところで文也が言う。そうねぇ、と柔らかな笑みをたたえて小野が返すと、


「僕、家で考えてきてもいいでしょうか」


 憚るように言葉を継いだ。小野は深く頷く。


「えぇ、是非。私もまた、いろいろ案を出してみるわ」


 そう言って少年を見る。暮れなずむ空の下に浮かぶ髪に、目を留めた。手を伸ばし、そっと()くようにする。


「それにしても、本当に綺麗な髪ね。真っ白で。――あなたの名前、やっぱり”白”っていうのが譲れない気がするわ」


 しみじみと言った。そうですねぇ、と続けて文也も声を落とす。改めて体ごと少年の方に向き直り、じっと見つめた。

 夜が近づく景色の中を風が吹き抜ける。濃い花の香りを運んで来た。家の敷地内に立つ松の木がカサカサと音を立て、庭に咲く花がゆらゆら揺れる。

 その時、少年の髪がふわりと風をはらみ、真っ黒な瞳を隠した。少年が手でそれをそっとはらう。



「……マシロ」



 文也がそうつぶやいたのは、風になびく少年の髪が沈む陽に関係なく、白く淡い光を瞬かせた時だった。


「――マシロ、はどうですか。真っ白の、マシロ。シロ、よりはいいですよね」


 表情を窺うように、文也が小野と真那を見る。真那は依然としてその表情を変えなかったが、小野は光が差したような顔を真っ直ぐに文也に向けた。


「……簡単に決めすぎでしょうか。もっとちゃんと考えて――」


 不安げに微笑(わら)う文也に、小野は首を横に振る。それから少年の方を見、「マシロ」と自身もその名を口にすると、淡い笑みを浮かべ、うんうんと何度も頷いた。


「すごくいいじゃない。響きも素敵だし。柔らかい印象が彼の雰囲気にぴったりで、とてもしっくりとくるわ」

「本当ですか」

「えぇ。――素敵な思いつきをしたわね、文也くん」


 文也は安堵と嬉しさに破顔する。頬がほのかに紅潮した。

 それを見た小野がさらに笑みを重ね、その顔を少年に向けると、どうかしら、とうかがった。

 少年は「マシロ」と薄く開いた口から零すように言う。そして何度か繰り返すと、わずかに表情を緩ませた。それを見て、文也と小野はますます笑みを深くした。


「気に入ってくれたみたいね」

「はい。よかった……。――僕、初めて人に名前をつけましたよ。こんなこと、あってもいいのかな」

「いいじゃない。なかなかないことよ。特別な経験をしたわね」

「はい。……マシロくん、よろしくね」


 文也に言われ、マシロは今度は自ら頭を下げた。蚊の鳴くような声で、よろしくお願いします、と言う。それを聞いて、文也が飛びつくようにマシロの手を握りしめた。

 マシロはその手に視線を落とすやじっと見つめた。そして、冷たく、細く、折れてしまいそうな自身の手で、そっと握り返した。


 そうして文也は、少し名残惜しそうにして暗くなりかけている道を歩き帰っていった。その姿が景色の向こうに見えなくなると、小野がマシロ、と早速少年を呼び、そっと肩を抱くと、また家の中へと促した。



 それから程なくして、夕食の時間となった。食卓には煮物やお吸い物、魚などが並んだ。育ち盛りの子にこんなものを、と小野はやや謙遜したが、真那は首を振って否定し、黙々と食べ進めていった。

 一方マシロは、恩地の家で摂った朝食よりも多少は口に多く運んだもののやはり箸の進みが遅く、小野は恩地の妻秀子と同じように、無理して食べる必要はないと温かな眼差しをもって言った。

 

 食事の後、しばらくしてから風呂となった。もしかしたら彼は一人で風呂に入り自分で洗うことができないかもしれないと、マシロの風呂事情について恩地から聞き及んでいた真那は、監視するようにしてマシロの入浴に付き添った。

 最初、脱衣所で様子を窺っていたが、案の定自分では上手く体や髪を洗えないマシロを見やって、真那はため息をつきながら補助に入ることとなった。


「なんで風呂もまともに入れないんだ」


 そんな小言をいくつか吐かれたが、マシロはただただ俯いていることしかできなかった。

 そして体を温め、風呂から上がると、寝巻きだけはなんとか自分で着替え、髪は小野に乾かしてもらうこととなった。小野は何度も「綺麗だ」とマシロの髪を見ては言い、嬉しそうに微笑み髪を梳いた。


 交代で風呂に入った真那を待ち、その真那が戻ってくると、小野と就寝の挨拶を交わし、二人連れ立って自室となる部屋に向かった。

 部屋に入るなり真那は文机に向かって勉強を始め、その間マシロは何をするでもなく、まだ微かに火照りが残った体を窓からそよぎ込む風で涼ませていた。


 と、どこからか低く深みのある音が聞こえてきたのはその時だった。最初空耳かと思ったがそうではなく、耳を澄ましてみると音の所在が外にあることがわかり、マシロは暗がりを透かし見た。

 外には夜が果てしなく続いているのが見えるだけである。そんな中やはり音は聞こえ、ドン、ドン、という震えが耳、そして心臓までにも伝わってくるのだった。


 その振動を感じながら、マシロはなんとなしに目を瞑る。やがてふと、昨夜のことが思い出された。鈴の音が耳の奥に聞こえてくる。――次いで、下駄の音も。そして、瞼が下ろされてできた暗闇の中に、真那の舞い姿が見えたかと思うと、外から聞こえてくる音による振動とは異なる、自発的な心臓の震えを感じた。

 マシロは目を開け、背後を振り返る。そこでは真那が黙々と文字を書いたり本を読み込んだりしている。マシロはそちらに体を向け、恐る恐る、声をかけた。


「――昨日の、もう一度、見せてくださいませんか」


 突然のマシロの申し出に、真那はピクリと手を跳ねさせた。そして、一瞬止まってしまったペンを再度ノートに走らせ始めると同時に口を開いた。


「――今日は、俺の番じゃない」


 真那の淡々とした返答に、マシロは首を傾げる。言葉の意味がよく理解できなかったが、真那の断ち切るような物言いにマシロはわずかに肩を落とし、また窓の外に目をやった。

 たまに止み、また始まる音に耳を傾ける。次いで、風の心地良さを改めてその身に感じる。


 ――すると突如として、マシロの瞼がずうんと重みを増してきた。意識が遠のいていき、それに伴いうつらうつらと頭も揺れ始める。

 途端、どさりと音がして、真那が机に落としていた視線を背後に向けた。その先で、マシロが仰向けになって倒れているのが目に入った。

 さすがの真那も少し焦り立ち上がる。マシロのもとに駆け寄った。それからその傍らで膝を折り、顔を覗き込むようにする。


 よくよく見ると、マシロは静かな寝息を立てて眠っているだけだった。その様子を見やりながら、別れ際に恩地が言っていた言葉を思い出す。ここに来てから彼は一時(いっとき)も寝ていないようだと、いうものだった。


 真那はため息をひとつ落とし、マシロを抱える。そのまま、敷いておいた布団に運んだ。思わず二度見するほど、ふわりと軽い体だった。

 布団を掛けたのち、真那は、かすかに上下する布団や、静かに呼吸するマシロの顔や、時折風になびいて揺れる髪をしばらく見つめていた。そして勉強にキリをつけると、自身も布団にも入り、マシロの隣で眠りについた。


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