4.報告
そんなふうに過ごしているうちに、あっという間に部屋の中にある影の面積が忍び伸びていった。心地よいと思っていた風も気づけば肌を軽く刺すような冷たいものに変わり、秀子が窓を閉めに部屋を訪れ、天井にある電灯を点した。橙の、温かみのある光だった。
ちょうどその折だった。昨夜出会った、真那と文也が恩地の家にやってきた。話し声がして、誘われるように起き上がった少年がさらりと襖を引き顔を出すと、玄関に留まる二人を秀子が中へと招いているところが見えた。
「剣くん、久しぶりね」
「ご無沙汰してます」
「相変わらずしゃんとしてるわねぇ。瀬取くんも、まぁ背が伸びて」
「はい。中二の中頃から、もう伸びっぱなしで」
会話を紡ぎながら、微笑ましいと言わんばかりの顔を秀子は二人に余るほど注いでいた。文也はそれに応えて自身も朗らかな笑みを浮かべていたが、真那の顔には笑みという笑みは見えなかった。それに対し秀子はさして気にするふうでもなく、会話に切りをつけると、夫が待っているという部屋に二人を案内し始めた。
その部屋には少年がいる部屋の前を通る必要があり、その時秀子が顔を覗かせる少年に気づいて足を止めた。
「今日は一日この部屋にいてもらってるのよ」
後をついて来ていた二人に言う。少年は見比べるように二人に視線を向けた。真那は相変わらずの無表情で少年を一瞥しただけだったが、文也は優しくにこりと笑ってくれた。
「部屋に入って、待っていてくれるかしら」
秀子からささやくように言われ、少年はこくりと頷く。そのまま廊下を歩き進んでいく三人を見送った。
恩地宅の最奥にある和室。そこに、恩地、真那と文也の三人はちゃぶ台を挟んで向かい合うように正座していた。秀子は三人分の茶を出すと、それ以降部屋には入ってこなかった。
「悪いな、昨日の今日で、学校帰りに」
そう言って、恩地が茶をすする。真那と文也はいえ、と言って小さく首を振った。それから一息置かれたあと、真那が頭を深く下げた。硬い声が落ちる。
「昨夜、集中を欠いたうえ、勝手な行動を取ってしまい申し訳ありませんでした」
「いや。異例のことが続いたんだ。仕方のないことだ。むしろ、よく冷静に判断し、対処してくれた。さすが、と言ったところか」
真那の謝罪に対し、恩地はさほど気にしていないというふうに返した。それに真那は浅く一礼すると、より背筋を伸ばし恩地を見据える。恩地は応えるようにその瞳をしばらく見つめた後、落ち着き払った声色で言った。
「さて。早速、昨夜の事の成り行きを改めて確認したいんだが」
「はい」
真那と文也が声を揃えて言う。恩地は続けた。
「――まず、この支部以外の場所で、カゲが突如発生した。そうなるのは本当に稀ではあるが、過去にもあった事例がある。ただ、昨夜はそこに彼がいた」
一音一音噛みしめるように恩地は言葉を並べていった。真那と文也が神妙に頷く。
「儀の途中に、最初真那が彼の存在に気付いたんだったな。……彼はその時、どの辺りにいたんだ?」
「――草陰です。儀を始めて数メートル進んだところで、見つけました。あいつはそこに立ったまま、僕たちの方を見ていました」
真那が答える。ふむ、と恩地は頷いた。
「なるほど。彼はカゲや、お前たちの姿が見えていた。となると、痣子に関わる者であるのは間違いない。……が、彼には痣がない。加えて不思議なことに、自分の名前、住んでいる場所、そして、昨日なぜあんなところにいたのかが分からないと言っている。どうやら彼はそれまで眠っていて、それ以前のことが思い出せないらしい」
真那と文也は黙って恩地の話を聞く。瞬きをするのみ、身動き一つせず端座していた。
「今日一日この家で様子を見ていたが、記憶喪失、と説明するのが手っ取り早い症状とみえる。なにも思い出せないようだ。周りのものを見ても、ぼんやりとした表情を見せるだけ。いくつか問いをしてみても、これといった回答が得られず、しまいには気分を悪くして寝込んでしまった」
文也が静かに息を吐いた。次いで真那が恩地に訊ねる。
「他の支部には確認したんですか」
それに恩地は軽く頷いた。
「もちろん。昨夜の時点で確認したが、心あたりは何もないようだった」
「……そうですか」
「彼がお前たちの儀を見ている時、どんな様子だったかは覚えていないか」
今度は恩地が問う。真那が毅然とした態度で答えた。
「”誘”をしていた時は、こっちを見ていただけだったように思います。ただじっと、佇立していました。でもそのあとすぐにカゲの動きが変化して、”還”を始めたので……。その時は、僕はそちらに集中したので、様子を見ることができませんでした。文也も、僕があいつに近づいていったとき初めてあいつの存在に気づいたので、儀の最中の様子は見ていません」
「そうか……。カゲを還した後も、彼はじっと君たちのことを見ているだけだったのか?」
「はい。動こうともしませんでした。それで僕が、近づいていったんです」
「敵意などは見せていなかったのか?」
「それは、感じませんでした」
真那の返答に頷くと、恩地はなるほど、とつぶやき腕を組んだ。
「とりあえずだが、今のところ、あの子が何かこちらに危害を加えるような様子は一寸たりとも見せていない、ということになるか。……となると、あれとも違う、か……」
唸りを交えて恩地が言った。その後に、ひと呼吸置いてから真那がつぶやくように言った。
「……”霞狩り”、ですか?」
真那の言葉に、恩地の眉尻がピクリと跳ねる。向けた視線の先で、真那は瞳を一層鋭いものにさせていた。
「さすがだな、お前は」
そう言って、苦笑めいた笑みを漏らす。真那はそれには何も反応を示さなかった。恩地も笑みをしまい込む。そのまま手で顎を撫でるようにしながら言葉を継いだ。
「……とも思ったが、それの特徴とは、彼は合致しないようだ。他の支部に改めて確認した」
「確かあれは、動く時は数人で動く、とか」
「……やはり、よく知っているな。誰かに聞いたのか?」
「噂を、耳にして」
淡々と答える真那に、恩地はひとつ息をついた。
「――あまり深入りするなよ。お前が関わるにはまだ早い案件だ」
恩地の表情が一瞬険しくなる。それを見やって、真那は瞬きをゆっくりとひとつし、目を伏せた。
「……とりあえず、そうではない可能性の方が高い、と判断できそうなところではあるが……」
「――でも、そうやって油断させたところで、こちらに……」
真那が再度、鋭い眼差しを恩地に向けた時だった。
「……あの」
真那の言葉が終わらないうちに、それまで二人の会話を視線で追いかけていただけで閉口していた文也が、俯き加減だった顔と一緒に声も上げた。
めずらしく会話の途中で口を挟んできた文也に、恩地と真那が少し驚いた様子を見せて話を止める。その後すぐに口を開いたのは恩地だった。
「どうした、文也」
真那は声を上げなかったが、文也の方に顔を向けじっと見つめた。そのようにして、二人の視線が注がれると文也は途端に目を泳がせる。そしてややあってから真那の方に視線を留めた。真那が黙って見つめているのを見つめ返し、そのままゆっくりと口を開いた。
「あの子、舞にすごく興味を持っているみたいでした」
それを聞き、恩地はほう、と息をつく。視線で先を促した。
「真那くんの舞を見た後に『さっきは何をしていたんですか』とか、『もう一度やって下さい』みたいなこと、言ってた……よね?」
文也は真那に目配せしたが、真那は黙ったままだった。反応したのは恩地だった。
「今朝もそうだったな。社の近くで『何が見えた』と問うたところ、舞を見た、美しかったとだけ、はっきりと言った。それは、目を輝かせて……」
「あ、それ、僕たちの前でもそうでした。目がこう、急にキラキラして……。……それで、あの」
そこまで言うと、文也はその先を言おうか言わまいかというふうに、声をこもらせた。それを恩地と真那が黙って見つめる。
「僕は、えっと、あの子は、そういう、何か害があるとか……。そういうんじゃないと、思います……」
恩地は息を吐く。顔は少し怪訝げだった。
「なぜ、そう思う?」
訊かれ、文也は狼狽える。
「すみません、はっきりとした根拠があるわけじゃないんですけど、なんか、こう、なんだろうな……」
言葉を探すようにして声が尻すぼみになっていき、文也はうなだれるように視線を落とした。それを見やって、恩地は小さく息をつくと、文也を見つめる真那に視線を移す。
「真那、お前の了見は」
言われ、真那はゆっくり恩地に顔を向け直した。文也はきゅっと唇を引き結び、横目で真那を見る。
「……文也がそう思うのなら、そうなんじゃないですか」
落ち着き払った真那の声が落ちる。それを聞き、恩地は口元を緩ませた。そうか、とつぶやく声も、柔らかかった。
「真那くん……」
途端に文也の結ばれていた唇がほどかれ、薄い息が吐かれる。同時に三人を取り巻く空気も若干和らいだ。
足をあぐらに組み直した恩地が茶を啜る音が、静かに浮かんだ。
「あの子を、一旦小野のところに預けておこうと思う」
少しの沈黙のあとそう言った恩地に、真那と文也が同時に視線を向ける。すぐに真那が訊き返した。
「……小野さんのところへ?」
「あぁ。私がずっと観察しておきたいところだが、何しろ多忙なものでなぁ。仕事もあるし、何より今回のことで支部長同士のあれこれがある。妻にとも考えたんだが、小野の方がこういうことには慣れているだろうと思ってな。――それから、誰かもう一人、痣子を宛がおうと思っているんだが……」
「……」
恩地が妙な間を作り、ちらりと視線を向けた時だった。
「僕ですか」
「誰ですか」
と真那と文也、二人の声がほぼぴったりに重なった。あまりの揃いように、恩地がふっと微笑むように息を漏らす。
「……真那くん、ですか?」
文也が驚いたように言うと、恩地は深く頷いた。
「そうだ。痣子を一人、彼のそばに置いておいた方がいいのではと思う。それは、真那、お前も同じ考えだろうと思ったんだが……。そんなお前に、一任してもいいか?」
恩地が真っ直ぐに真那を見る。それに、真那は音のない息を深く吐いた。
そしてその後。ゆっくりと、瞬きを一度した。それが承諾の意だと、恩地はすぐに理解し、受け取った。