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いのりびと  作者: 奥宮イツキ
第一部
3/180

3.観察

 しばらくして車が完全に停まると、白髪(はくはつ)の少年は俯かせていた顔を上げた。窓から外を覗くと、そこは山の(ふもと)にある屋敷の前、まわりには畑や田んぼがあるのが暗がりの中に見えた。

 運転席から声を掛けられ少年はおもむろに席を立つ。そのまま田平に支えられながら車を下りた。そして車のドアを閉める音が夜に響くと、ややあってから、明かりが灯る家の中から年配の男性が一人出てきた。


「お疲れさん」


 目元口元に皴が刻まれ、少年とは質の異なる白髪(しらが)頭の男性に田平が軽く頭を下げ挨拶をする。そして、車から降ろした少年を差し出すようにし、「恩地さん、電話の、例の」と言葉を濁した。それを受け、恩地は少年を見据える。次いで深く頷くと、田平に目配せをし、少年の華奢な肩を抱えて家の中に入っていった。


 恩地はまず少年の足についた砂をはらって清潔なタオルで拭うと、そのまま風呂場へと向かった。少年は言われるままにし、恩地の傍らについて歩く。それから脱衣所に入ると、目に眩しい明かりの下に立たされた。

 その姿を見やって、恩地はわずかに顔を(しか)める。随分汚れているな、とやや憚るように言った。その顔を見るや、少年も自分の体を見直してみると、そこら中が土やら何やらで汚れており、衣服は着古したような黄ばみ、よれ、ほつれがあった。

 恩地はひとつ息を吐いてから少年に改めて向き直る。それから「ちょっといいかな」と一言断りを入れ、先刻田平がしたように少年の服をめくり、腹のあたりをじっと眺めた。


「――ありがとう」


 服を戻し、悪かったね、と一言言い添え恩地は少年から一歩離れる。そしてすでに湯が溜まっているからと、風呂に入るよう促した。


 ――が。

 少年は、なぜか風呂に入ろうとしなかった。きょとんとした顔で恩地を見つめ、その場に立つばかりだった。服を脱いで風呂に入るよう再度言うも、反応は同じだった。

 そのため恩地は服を脱がすことから始まり、その後も介助を施すように少年の体を洗うことになった。少年はじっとしているままで、自分から動くということをしなかった。始終ぼんやりとし、身体が清潔になっていく感覚を味わっていた。


「体がだいぶ冷えているな。ゆっくり湯船に浸かっておきなさい。私は一度向こうに行くから、出る頃合いになったらまた呼んでくれ」


 最後、少年を湯に浸からせた恩地はそう言い残すと、風呂場から出て行った。少年は特に返事をすることなく恩地が去っていく姿を見送り、言われた通りゆっくりと湯船に浸かった。

 なんとなくお湯を手ですくってみたり、自分の素肌をまじまじと眺めたりしているうちに、身体はみるみる温まっていった。そして十分なほどに体全体が温められ火照ってくると、風呂から上がりそのまま脱衣所に出た。

 先ほど着ていた自分の服を探す。が、辺りを見渡しても見当たらず、一気に冷えていく体を一度震わせたあと、少年は脱衣所の扉を開け廊下に顔を出した。


 一歩踏み出し、近辺をきょろきょろと見回す。恩地の姿はどこにもない。それから少し先に明かりが漏れる部屋があるのを見つけたのは、しばらくした後だった。ひとつだけ扉が開けられており、何やら話声も聞こえる。

 そこに引き寄せられるようにして、少年は水滴を滴らせながら、明かりの元へとそろそろ足を向かわせた。


 覗き込むようにしてそっと顔を部屋に伸ばし入れると、恩地と田平が対峙して話し込んでいるのが見えた。田平は先ほどの装いのまま何やら神妙な顔をしていたが、恩地より先に少年の存在に気が付いて、何も着ず水滴だけを纏っているだけの姿を見るなり瞠目した。その少し後に、田平の視線を追った恩地が声を上げる。


「呼べと言っただろう」


 呆れ声で言いながら席を立つ。そのまま少年の方に寄っていった。少年の髪から水滴がいくつも滴り落ち肩を濡らしているのを見るや、ため息を重ねる。こうして脱衣所に戻された少年は、用意された清潔な衣服を、恩地に着せてもらうこととなった。





 そのあと身なりを整えた少年はある部屋へと案内された。夜が敷きつめられたように暗いそこにひとつ明かりを(とも)したあと、恩地は少年に座るよう促すと自身も足を組み腰を下ろした。それを見て、少年も静かにその場に正座する。足元からは畳の良い香りが仄かに感じられ、空気も澄んで耳障りな音は何もない部屋だった。しかしどこか心が落ち着かず、少年は検分するようにしばらく目を泳がせた。


「腹は減ってないか?」


 恩地が言うと、少年は聞いた言葉を反芻して噛みしめるようにし、少ししてから自分の腹に手を当てたまま固まった。きょとんとした表情で、恩地を見つめる。そのあと、何か食べたいものはないかと恩地が言い方を変えて訊いてきて、少年はそこでやっと小さく首を横に振った。


「眠くはないか?」


 重ねられた問いに、少年は同じように小さく首を振る。恩地は「そうか」と息を吐くように言うと、表情を少し引き締め居住まいを正した。


「いろいろと、混乱しているだろうと思う。何しろどこから来たのかわからず、名も覚えていないとか。だが、()()()としても、そのような者が()()()に突如現れて、少し戸惑っていてな。――そこで、いくつか君に、質問をしていいだろうか?」


 少年は今度、小さく頷いてみせる。それを視認し、恩地は落ち着いた声を作って問うた。


「さっき、ここに来る前。君は何が見えた?」


 少年は虚を突かれたように目を見開いた。さっき、ここに来る前、と言葉を頭の中で反芻(はんすう)する。

 ここまで移動する道中のこと、その前のこと――。いくつもの風景が浮かんでは消える。黒い衣装を纏った少年たちと、黒い影、草や月。夜の空……。

 恩地の言う()が、()を示しているのか、少年にはわからなかった。そんな少年の顔が虚無に入っていきそうになり、恩地は質問の仕方を変える。


「黒い、影のようなものは見えたか?」


 言われ、先ほどまで少年の脳裏にあった“黒い影”という言葉が再度鮮明に浮かび上がる。そしてそれがうごめく様子が目の裏に見えたので、声を出さず頷いた。それに応えるように、恩地も静かに頷いてみせる。


真那(まな)文也(ふみや)、……男の子二人も、見えた。(やしろ)にいた、他の者たちも」


 少年はまた頷く。社で出会った少年たちの姿は朧気だったが、真那と文也、二人の姿はすぐさま目に浮かんだ。黒い影を引き連れるように、鈴と下駄を鳴らしながらゆっくり歩く姿が鮮明に思い出される。今も、その音が聞こえてくるようだった。

 そこで、うつむき加減だった少年は顔をはっと上げた。次いで、この家に来て初めて、自分から言葉を発した。


「舞を、見ました。……とても、美しかったです」


 突如として少年の目が光輝いたので、恩地は思わず息を呑む。その瞳に吸い込まれるようになり、しばらく動けなくなった。しかしすぐ冷静を取り戻すと、咳払いを挟んで問いを続けた。


「いつから、黒い影が見えた?」


 その途端、少年の目から光が消える。いつ、と胸の内でつぶやき、首を傾げる。思案する表情の上で、目は黒く濁っていった。


「寝ていて、起きて、それから……」


 少年が薄く開いた口から声を零すと、


「……眠る前は?」


 恩地が少年の顔を覗き込むようにして訊ねる。が、少年の口からは答えとなる言葉が出てこないまま、完全に閉じられてしまった。

 思い出そうとすればするほど、少年の頭の中には濃く深い霧のようなものが立ち込めるのだった。そんな少年を見るや、恩地が長い息をひとつ吐く。そして少し間を置いてから、何か決心したような眼差しを少年に据えた。


「……“痣子(あざこ)”、それから、……“霞子(かすみご)”という言葉は知っているか」


 それまでのものより、深く低い声が、恩地の口から這うように出てくる。特に“霞子”と口にしたときには妙に空間が揺らいだ。

 それを感じ取った少年は霧を抱えた頭を垂れ、顔つきも徐々に強張らせていく。


「う……あ……」


 切れ端のようになった声が漏れる。次第に息が荒くなり、体も前屈みになっていった。表情に苦悶の色が浮かぶのを見て、恩地はまたひとつ息をつき、言った。


「すまないね。もういい。無理に思い出さなくても。……ちょっと休みなさい」

 

 そうして恩地は隣部屋から持ってきた布団を部屋の中央に敷き、青ざめた少年を横にさせ部屋から出て行った。戸は、開け放たれたままだった。


 少年は横になってわずかに一息つけたものの、眠気はやってこなかった。頭がまるで自分のものでないようにはっきりしない。そしてその状態に集中してしまうと、心臓が握られたようになって息が詰まった。

 少年は思い出すことを止められるよう、天井の模様を目でなぞり始めた。枕元の橙の明かりが、その模様を曖昧に浮かび上がらせていた。





 気づくと朝日がガラス窓から差し込み、部屋の中を明るく照らし始めていた。光の帯が少年の顔に被さる。鳥のさえずりも、遠くにだが聞こえてきた。

 それに誘われるように、少年はおもむろに体を起こす。窓の向こうに目をやった。朝日に照らされ柔らかな緑をたたえた山々が、景色の奥で静かにたたずんでいる。一部の山には、霧が薄い衣のようになって、木々にかかっていた。

 

 それから程なくして、部屋の中に何やら良い香りが漂ってきた。少年がそれに気づいた少し後に、恩地がそっと顔を覗かせた。眠れたか?と訊かれ、少年は例によって首を振った。


「そろそろ腹が減ってこないか。妻が朝食の用意をしている。年寄りの朝は早いんだ」


 少年は部屋の壁に掛かっている時計を見る。六時前を指していた。


「……まぁとりあえず、一度来なさい」


 恩地はぼんやりする少年の返答を聞かず、部屋から連れ出すという行動に出た。そして香りが充満する台所に案内すると、少し戸惑う少年の背を押し中へと入らせた。

 そこにあるテーブルには、和のものでない服に着替えた田平が座っていた。少年と目が合うと、薄ら笑いを浮かべる。耳につけられたピアスがキラリと光った。


秀子(ひでこ)。例の」


 恩地が奥にいる人物に声をかける。それに応え、深緑のエプロンを体に巻き付けた女性がパタパタと音を鳴らしながら近づいてきた。恩地と同じように顔に皴がいくつかある。垂れ下がった目尻をさらに垂れさせると、少年と目線が合うように身を屈めた。


「おはよう。それから、いらっしゃい。妻の秀子です」


 秀子の笑顔に、少年は少しだけ頭を下げることで反応を示してみせた。

 それから恩地に促されるまま席に着くと、程なくして目の前に味噌汁、白米、漬物、出汁巻き卵と次々に朝食が運び込まれてくる。マシロは静かに席に着き、その様子を見ていた。そして料理が全てそろうと、恩地、田平が手を合わせ食べ始めたので、今度はそれを眺めていた。


 そんな少年を見やって、食べていいんだぞ、と恩地が言う。その言葉を受け、少年はやっと手に箸を持ったのだったが、一口二口、口に運ぶと、それから箸はあまり進まなくなった。恩地と田平、それから妻の秀子も、やや不安げにその様子を観察する。そして少年の手がとうとうぴくりとも動かなくなると、眉根を寄せた顔を互いに見合わせた。


「あまり、お腹が減ってないかしら。無理に食べなくてもいいからね」


 秀子が優しく声を掛ける。少年はどうしていいかわからず俯いた。

 結局、用意された朝食をほとんど残し、少年はまた恩地に案内され部屋に戻ると、つい先刻と同じように布団に横になった。

 その後、何度か恩地が少年の様子を窺いに訪れ、時には妻の秀子も来た。温かい茶やささやかな菓子を盆にのせて枕元に置いていったが、少年は茶を飲むことも茶菓子を口にすることもなかった。

 田平は関しては一度だけ覗き、「俺はもう帰るから」と言うと、それ以降姿を現さなくなった。


 それから、恩地でも秀子でも、そして田平でもない人物がその部屋を訪れたのは、昼食は食べられるかと恩地が窺いに来たしばらく後だった。恩地よりもいくらか年配に見える男二人が、部屋の中に入って来た。言葉の抑揚が随分恩地と違う気がして、少年がそのことばかりを頭で考えているうちに、気づくと男たちは部屋から立ち去ってしまっていた。


 その後は誰も部屋に訪れない時間がしばらく続き、布団に横たわりながら、少年は今自分が置かれている状況の整理を試みようとした。

 自分の名前がわからない、どこにいたのかもわからない、言葉はわかる、しかし今いる場所、物、は目新しく見える。考えれば考えるほど、わからなくなる。思考が停止する。少し頭を休め、また考えようとする、すぐに疲れる。その繰り返しだった。いっそのこと眠ろうかと思ったが、目を閉じるだけで、眠りにもつくことができなかった。


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