21.日常
とある休日。いつものように、マシロは小野と共に散歩に出掛けていた。
今日も目深に帽子を被り、小野が差す日傘の下を歩いている。小野はできるだけマシロが日陰に来るよう、常に気を配っていた。
マシロは、未だ何かを思い出すということがないのだったが、日々を重ねていくごとに、自分という人間について何となく知るようになっていった。
”苦手なもの”もそのうちのひとつで、その実マシロは、白髪且つ色白が関係してか日光がすこぶる苦手であった。
月が五月に入り、空の青がくっきりと鮮やかになり日差しが強い日が続くようになると、その対策をせず外に出てしまった矢先には、たとえ短時間でも気分が悪くなってしまう。そうなると、しばらく横になって休まないと生活がままならなくなるほどだった。
また別のこととして、数多くの視線を受けることも、マシロにとっては極力避けたい環境のひとつとなっていた。
ある日、初めて小野と近所のスーパーに出かけた時のことだった。被っていた帽子がふとした拍子に脱げてしまった。
まばゆい電飾の下、マシロの白髪は周りの光という光を吸い込んだように煌めき、真っ黒な瞳がはめ込まれた真っ白な肌をした顔は、人々の視線を釘付けにした。
そこにいる人々の視線という視線を受け止めたマシロは突如、縛られたようにその場で動けなくなってしまった。それに気づいた小野がすぐさまマシロの手を引いて踵を返し、スーパーを後にしたことでなんとか事なきを得た。
マシロは小野の心を煩わせることに申し訳なさを感じたが、これら二点についてはどうやら体や心に深く染みついてしまっているようで、どうにかしようにも簡単に直せるものでなく、帽子は外出時におけるマシロの必需品となった。
日光を遮り白髪を隠し、つばによって人々の視線から逃れることができるのだった。
しばらく歩くと、田畑が連なる道に入った。耕された土が敷き詰められた田んぼに、緑の細い草が柔らかく揺れている。
そんな田んぼのあぜ道を歩いていると、小野がふと声を上げた。
「あら。あれ、文也くんじゃないかしら」
小野の視線を追うと、その先には確かに文也がいた。田んぼに足を突っ込んでいる。首にはタオルが掛かっており、昼に近づくにつれ厳しくなりつつある日差しを背負いながら、黙々と田んぼに向かっていた。
その隣にもうひとつ背中が丸まっているのも見えたが、それは誰だか、後ろ姿しか見えないために判別がつかなかった。真那でないことは確かだった。
文也は腰を伸ばし、汗を拭ったところでマシロたちの姿に気づいた。
「おーい」
泥に足を取られた状態で、降り注ぐ陽光を掻き回すように、手だけを大きく振る。
マシロが小さく振り返すと、文也の隣で丸まっていた背中が勢いよく伸びた。初めて見る少年だと思いながら、もしや先日の食事会にいた人物だろうかと、マシロは回顧した。
そうしながら文也のもとに辿り着いた時、奥で田植え機に乗った老人が声を張り上げたので、マシロの思考はそこで途切れた。
「小野さーん、どうも」
「こんにちは、良治さん。精が出ますねぇ。いつもお米、ありがとうございます」
小野も負けじと声を飛ばした後、文也の隣で、少年がマシロに目を留めながら「この子誰?」とささやいた。
文也が答える。
「友達のマシロくん。今、小野さんと一緒に住んでるんだよ」
友達、という言葉がマシロの耳をくすぐった。思わず身を捩ってしまう。
「マシロくん、彼は正樹くん。僕の同級生で、小学校からの友達」
文也が手で示しながら紹介すると、正樹は軽く頭を下げた。
「福田 正樹です」
坊主頭に近い、短く狩られた髪が汗に濡れている。陽光を受けて、光がちらついた。
次いでマシロも、名乗りながら頭を下げる。顔を視線を正面に戻すなり正樹が覗き込むようにして見てきたので、さりげなく半歩後退さった。
そんなマシロに、文也が田んぼの奥を指差してみせる。
「あれは僕のおじいちゃん。マシロくん、ここね、僕のおじいちゃんの田んぼなんだ」
文也が言い、小野が続いて言葉を添えた。
「マシロ、いつもあなたが食べているお米は、文也くんのおじいさん、良治さんが作っているお米なのよ」
へぇ、と頷き、マシロは田んぼを見渡した。どこまでも続いているように見え、圧倒される。
「広いですね……」
「うん。向こう側は畑だよ。今はきゅうり、あとピーマンと茄子が植えてあるかな。――あ、それと。ねぇマシロくん、ここ見て」
そう言って文也は今度、田んぼに突っ込んでいる足元を指差した。そこにも、苗が植わっていた。
「ここに今、僕たちで苗を植えたんだ。おじいちゃんの田んぼでここだけ場所を借りて、毎年手で植えてるんだ。小学生のときからやってる」
文也が示すそこは、田んぼの一角をロープで仕切ってあった。
それを見やってから、マシロは文也の手が泥だらけなことに気づく。それは隣にいる正樹も同じで、服にもところどころに泥がはねていた。
腕がまくられ、そこに滲む汗もやはり光輝いている。田んぼの中には足跡がいくつもくっきりと残っていて、ひと仕事終えた、という様子が全体を見て取れた。程なくしてから、文也と正樹が泥から足を引っこ抜いてあぜ道に出た。
そこでふと、先日の稽古で文也が言っていたことが、マシロの頭の中で思い出された。
誘の舞で足を上げる際は、田んぼの泥から足を引き抜く時をイメージしている――……。
その時、マシロはどうにもその光景が浮かばなかったのだが、今実際目の当たりにし、このことかと腑に落ちた。
「腰痛いな」
文也の隣で正樹が体を反らす。文也も伸びをして上半身を左右に揺らした。二人とも、いい笑顔だった。
「いつも頑張ってるわねぇ。自分が食べるお米を自分で作るって、いいわよねぇ。――そういえば正樹くん、ご両親のお店、だいぶ繁盛しているそうね」
小野が言うと、正樹は笑みを深くした。
「はい。おかげさまで」
「マシロ、正樹くんのおうちはお団子屋さんを営んでいるのよ」
「へぇ……。そうなんですね」
「うん。文也んちで作った米を使ってるんだ。今度、食べに来なよ」
正樹がマシロを見てにこやかに言う。マシロもおずおずと目を合わせながら、ぎこちない微笑みをなんとか向けた。
「いいね。みんなで食べに行こうか。真那くんと、それから萌子ちゃんも誘って」
文也が提案すると、マシロはこくりと頷いた。小野も、いいじゃない、と笑顔になる。
「せっかくだし、正樹くんも行こうよ」
文也が正樹の方を振り向いて言ったが、正樹は唇の端に曖昧な笑みを浮かべつつ、首を横に振った。
「いや、いいよ。自分んちの店に客として行くの、なんか恥ずかしいし。――それに剣も行くなら……遠慮しとく」
「そっか……」
文也が残念そうに息を落とすので、正樹は慌てて言い添えた。
「そういえば今、新作でイチゴジュース出てると思う。この間試飲したけど、上手かったよ。飲んでみたら」
「え、そうなんだ。飲んでみる」
すぐに瞳を輝かせた文也を見て、正樹は笑った。
その後いくつか言葉を交わし、マシロと小野は瀬取家の田んぼをあとにした。文也は姿が見えなくなるまで、マシロたちに手を振り続けた。
「さっきの正樹くんという人も、痣子ですか?」
帰路につきながらマシロが問うと、小野は緩く首を振って否定した。
「いいえ。彼は痣子ではないわ。文也くんの、学校のお友達よ」
「痣子でない友達も、いるんですね」
「そうね。儀の世界だけが、あの子たちの世界ではないから。みんな学校に通って、それぞれにお友達がいるわ。みんな、各々いろんな場所に、大切な人がいるのよ。……そんな人たちの暮らしを守りたいっていう思いを祈火に込めている痣子は少なくないと思うわ」
マシロはなるほど、と頷いた。
それと同時に、背中の方で笑い声が響くのが聞こえ振り返った。その声は、文也と正樹のものだった。
***
次の休日、文也は早速真那と萌子、そしてマシロを引き連れて正樹の両親が営む団子屋に行った。
マシロ以外の三人ともが下駄を履いていて、萌子は今年鼻緒を新調したのだと、自慢げに見せながら歩いた。マシロが羨ましそうに見ていると、小野さんにおねだりしてみたらどうかと、萌子は笑みを弾かせて言った。
歩き、店の軒先に”団子”と書かれた吊り旗が風に煽られているのが見えたところで、すでに団子の良い匂い、甘い醤油の香りが漂って来た。
辿り着くと店先のテイクアウト専用の小窓にいた店員が正樹の母親で、すぐ文也に気づき顔を覗かせると、来店の礼を言った。
その後入った店の中は純和風な設えで、温かみのある空間だった。入ってすぐのところに注文口、その奥の方に座敷があり、ゆっくりと団子を食べられるスペースが広がっている。
マシロが気兼ねなくいられるよう、四人は一番奥まったところにある席に着いた。そこからは中庭を眺めることができ、石鉢に金魚が泳いでいるのも見えた。
マシロは席に座すなり、若干落ち着かない様子で辺りをキョロキョロと見渡す。そこが初めて訪れる場所だからという単純な理由だけではなかった。
マシロは今日、休日に初めて三人と出掛けることになり、それを夜から楽しみにしていて、始終そわそわしていたのだった。それを見抜いていた萌子が、マシロの様子を横目で見るたび嬉しそうにクスクスと笑った。
団子はみたらしの一種類でドリンクとセットにでき、真那以外の三人は先日正樹に勧められたイチゴジュースを頼んだ。
正樹の家で育てられたイチゴと氷を一緒にミキサーで撹拌してできるもので、春の半ば、気温が上がり始めた頃に出される商品ということだった。
強まる日差しのなか四人は随分と歩いてやって来たので、マシロも文也も萌子も、ジュースが運ばれてくるなりそれで喉を潤した。キンとした冷たさが頭の方に突き上がって来て、イチゴの甘味が口の中いっぱいに広がった。
団子にはきな粉が別で添えられている。萌子はそれを、山になるほど団子に振りかけた。
それを見て文也が言う。
「萌子ちゃん本当に遠慮なくかけるよね」
「だってきな粉好きなんだもん」
団子を前にし、目を輝かせながら萌子は答える。それから手を合わせ、いただきます、と言ってから団子を手にした。
初めて見る萌子の大口を、マシロは丸くした瞳で見つめていた。団子を頬張り、萌子は何とも幸せそうな笑顔を顔に浮かべた。
その様子を一通り眺めたあと、マシロも団子を口に含んだ。まずは何もかけずそのままのみたらし味を楽しみ、そのあと萌子にならってきな粉をかけて食べてみる。少し塩味がある、けれども甘いきな粉が団子の甘さと絶妙に混じり合っておいしかった。みるみる顔がほころんだ。
「きな粉をかけるとおいしいですね」
「そうでしょ。きな粉、おいしいよね。私、きな粉大好きなんだ。家でもきな粉クリームを自分で作ってパンに塗ったり、アイスに添えたりするし、市販のお菓子もきな粉の商品が出たらすぐ買っちゃう」
マシロの言葉に反応を示した萌子は、いつの間にか団子を完食してしまっていた。残ったジュースを口に含み、その冷たさを顔いっぱいに表現する。
「つめたーい。けどおいしい」
「萌子ちゃん見て。六月は梅ジュースだって」
「梅ジュースもおいしいよねぇ」
「これからの季節、飲みたくなるよね」
「手間がかかってる分おいしいよね」
萌子と文也の二人が語り合う傍ら、真那は抹茶オレを無言で飲んでいた。ストローが当たり、カランと氷の涼しい音が鳴る。それをしげしげと眺めていたマシロに、文也が言った。
「真那くんはいつも抹茶オレなんだよね」
「マシロくん。真那は、抹茶が大好きなんだよ」
萌子も言い添える。マシロはへぇ、と頷いた。
「暑くなると、儀の後に田平さんがたまにアイス買ってくれるんだけど。真那くんがいるときは絶対抹茶のアイスが入ってて、みんな選ぶ中それがさりげなく残ってて、真那くんもさりげなく取っていくよね」
「何かお菓子買うってなると、大体抹茶選んでるよねぇ、真那は。抹茶と言うか、お茶?真那が普段飲んでる飲み物って基本お茶だもんね。緑茶とか」
「そういえばそうだね」
「温かいお茶飲んで一息ついてるとこ見ると、おじいちゃんに見えてくるんだよねぇ」
「……いいだろ別に」
言いたい放題の二人に痺れを切らしたのか、真那が低い声で言う。けれど怒っているようには見えず、文也も萌子もアハハと笑って返した。マシロも笑う。
「真那、抹茶オレちょっとちょうだい」
萌子が真那の抹茶オレを見て言った。文也もそれに続く。
「あ、僕も飲みたい。僕のイチゴジュースも飲んでいいよ」
そうして真那の抹茶オレが、順々に回っていった。
最後に、マシロのもとにもやってくる。飲んでいいものかと、マシロが真那の表情を窺うと、真那は小さく頷き承諾の意を表した。
それを見て、マシロも一口もらうことにした。濃い抹茶の味が口に広がる。思わず笑みがこぼれた。
「おいしいです」
「ほんと?よかったね」
マシロが笑顔で言うのを見て、文也は満足そうにした。
「そういえばマシロくんの好きな食べ物って、なに?」
そう訊ねたのは萌子だった。
マシロは首をひねり、考える。好きな食べ物、と頭に浮かべて特定の食材などはこれと言って思いつかず、毎日食べている小野の料理のことがふと思い出された。
「僕は、小野さんの作る料理が好きです。全部おいしいので、その中からひとつを選び出すことは、できないです」
マシロが言うと、萌子、そして文也もその顔に満面の笑みを乗せた。わかる、と言って何度も頷いてみせる。
マシロも笑みを返すと、ひとつ串に残っていた団子を平らげた。それからぽつりと零す。
「このお団子も、本当においしいです。僕、好きです」
「よかった。また食べに来ようね」
「はい。……剣くんは抹茶で、萌子さんはきな粉。文也くんの好きなものは、なんですか?」
目を細めていた文也に聞く。すると文也は、
「僕はお米」
と即答した。
「白米が大好きなんだよね。小さい頃から、おじいちゃんが作ったお米を毎日食べて育って来たから。だから、自分でお米を作ってみたいって思って、田植えを手伝うようになったんだ」
「そうだったんですね」
マシロが頷くと、萌子が話を引き継いだ。
「学校がお弁当の日に文也が持ってくるお弁当、塩むすびがふたつ、こう、ドン、ドンってあって、その脇に漬物がちょこんって乗ってるんだよね。それだけなんだけど、それが、本当に美味しそうなの」
「母さん僕がお米大好きなの知ってるから。メインはおにぎり。――僕、畑仕事してる人を見るのが昔から好きでね。おじいちゃんに限らず、おばあちゃんも、近所の人とか全く知らない人でも、畑や田んぼに黙々と向かって作業している人を見ると、あぁ、いいなぁって思う」
文也がしみじみと言って、また萌子がそれに反応する。
「だから文也は高校、普通科じゃなくて森林科受けるんだ。確か畑のこととかもやるんだよね?」
「うん。普通科と迷ったんだけど。大学は、まだどういうところに行きたいとかよくわからないから」
「ふぅん。……そう思うと田舎って、進路に関しては本当にのんびりしてるよね。都会だと、小学生とか、早いと幼稚園から進路を考えて入学させるんだってね。早いよねぇ。――私は文也、先生とかでもいいんじゃないかなと思ったけど」
「先生?」
「うん。マシロくんにいろいろ教えてたでしょ。あれすごくわかりやすかったし、上手だった」
「あぁ。――先生かぁ。考えたことなかったな。でも先生と言ったら、真那くんとこでしょ。お父さんがそうだから。萌子ちゃんは、保育士だっけ。小学校の卒業文集にも書いてたよね」
「うん。子供好きだからね。――そういえば真那さ、その卒業文集で将来の夢のとこにさ……。”大人”って、書いてたよね」
「あぁ、あったねぇ」
「しかもすごい達筆で書いてあって、クラスでちょっと話題になったよね」
二人は懐かしそうに笑い合う。
それを見やってから、マシロは真那の方にちらりと目を向けた。真那は抹茶オレを飲み干したところで、心なしか口元が緩んでいるように見えたが、気のせいかもしれない、とマシロは思った。
そこに、萌子がひとつ息をつく。
「大人かぁ……。随分先に思えるけど、あっという間に大人になるんだろうね。……みんな、ここに残るよね?」
萌子の問いに、文也が答える。
「そうだね。自分の畑と田んぼを持ちたいしなぁ。普段は違う仕事をして、朝と夜、休日は畑仕事するっていうの、憧れる。でも、大変かなぁ……」
「――私の幼馴染、なんかおじいちゃんみたいな人しかいないじゃん」
「そう言うなら萌子ちゃんのきな粉好きも、ちょっとおばあちゃんみたいじゃない?」
「そう?」
「うん。となると、僕らもうお年寄りの集まりだねぇ」
「……ふっ」
文也が言うや、真那の方から息が漏れる音がした。萌子と文也、そしてマシロもそれをはっきりと耳に聞き一斉に真那を見たが、当の本人は何でもないような顔をして少し目を伏せていた。
「……真那、いま笑った?」
「笑ってない」
「笑ったでしょ。……今も、心の中で笑ってるでしょう。私わかるんだからね、真那の無表情の表情。ね、マシロくん、真那いま笑ってたよね?」
萌子が、マシロに詰め寄るように訊く。マシロは目を泳がせたが、先ほど真那の口元が緩んでいたように見えたのを思い出し、少し迷いつつも小さく頷いてみせた。
「……笑っていた、ように見えました。僕も」
そう言うと、ほらぁ、と萌子が真那に顔を向けた。文也もクスクスと忍ぶように笑う。それを見て、マシロも笑う。真那はというと、相変わらず無表情を決め込んでいた。
マシロは今日、自分は何度笑っただろうかと、今も笑いながら思った。
こんな時間を、これからもみんなと過ごしたい。そう思い、心が細かく震えるのを感じた。そこには火が灯るような、柔らかな温かさもあった。
――これがきっと、祈火なのだ。マシロがそう思った時、温かな灯りはより大きくなった。やはりそうだと、その後マシロははっきりと、確信した。




