1.白の少年と黒い影
何かに頬をくすぐられ、思い出したように息を深く吸う。肺いっぱいに緑の香りが広がり、たちまちに体の隅々まで沁み渡った。息を吐くと体は脱力し、草の底に沈んでいくような感覚になった。
随分と眠っていたような気がする、と少年は思った。
頭は濃霧に満ちてはっきりとせず、一方体にはどこか心地よい感覚が残っている。真綿に包まれているようで、優しい光が瞼の裏に滲んでいる。その瞼は重く、意識的に呼吸を何度か繰り返したあと、ようやくうっすら開くことができた。
滲む光は淡く溶けていき、目の前は暗闇で塗り込められる。しかし通り抜けていく風は穏やかで、少年の頬を撫で、柔らかな髪をなびかせる。そのたびに草の香りが鼻をかすめ、葉と葉がこすれ合う音が遅れて耳に届き、少年は、今自分は草の上に寝転んでいるのだと意識の淵で認識した。
けれども横臥する体は思うように動かすことができず、目を覚ましつつある感覚をもって暗闇に隠れるものの輪郭をなぞり、感じ取っていった。
風。
草。
土。
手繰り寄せるようにして、言葉を頭に並べていく。すると、立ち込めていた霧がほんのわずかに取り払われた気がした。
やがて体も、手先足先から徐々にぴくりと反応し始める。次いでゆっくりとした瞬きを何度か繰り返していると、次第に曖昧な薄い光の存在をその目で認めることができるようになった。
首が動くようになり、空を仰ぎ見る。少しだけ欠けた月が、夜の空をくり抜くように浮かんでいた。
ひとつ深い息を吐く。その息に乗るように、かすかな声が混じった。順々に目についたものを、少年は口に出していく。
空。
月。
星。
雲。
……夜。
目が慣れ、徐々に視界が広がっていく。やがて少年は自分が今一体どこにいるのかと、空に留めていた視線を滑らせ、寝ころんだまま十数メートル先に目をやった。
ところが、居場所を突き止めるものを探す前に、あるものが少年の目をとらえ、その視線を縛り付けた。
――……あれは、なんだろう。
どうにも言葉で説明がつきそうにない、何かが遠くに見えた。一瞬、大きな葉かなにかの影かと思ったが、それは風が凪いでもひとりでに動いていた。夜の闇よりも黒く、地から生えるように伸び、幾度も姿形を変えていく。
――なんだろう。なんだろう。
凝らし過ぎた目を休ませるため、少年はまた目を閉じる。たちまち黒い影は姿を消した。
風の音はまだある。木々の葉擦れの音もある。しばらくそれに耳を澄ませた。
が、影がうごめく姿が、少年の意識の中に入り込もうとする。それを阻止することも、それがいったい何なのかを突き止めることもできなかった。
そこに一つの音が加わったのは、それほど間を置かない後だった。
りん、りん。
夜に溶けるような曖昧なものだった。
――……鈴……?
その単語が少年の頭にぼんやりと浮かぶ。それを確かなものにするために耳を澄ますと、そこにまたひとつ別の音が、もとあった音に寄り添うようにして聞こえてきた。
からん、からん。
風が運んでくるように、少年のもとに音が届く。心地よい響きに、意識に忍び込んできた影もたちまち少年の中から存在を消した。
規則的に聞こえてくるその音に耳を澄ませていると、自然と少年の瞳が開かれる。目の前の風景がより鮮明に映って見えるようになり、それに伴い音も徐々に近づいてきた。
視界の中には先ほど見えた影もあった。ひとつではなかった。いくつもの影が、一定の形を保つことなく体をくねらせている。
と、這うようにして右往左往していた影は、徐々に音の出所に行先を定め、移動を始めた。
少年は揺り動かされるように体を起こし、立ち上がった。小さな石が足の裏に食い込む。痛みを感じる前に、その足を一歩踏み出す。意識するより前に、もう一歩が踏み出された。
重心が定まらない体はふらふらと、しかし確実に前へと進んだ。目は影を追い、耳は鈴と、もうひとつ何かの音を拾う。少年の足は枝を折り、木の葉を蹴った。
音はますます鮮明に聞こえるようになり、その中で影は音の方へと身を進めたり、胴のようなものを伸ばしたりする。よくよく見ると、何かの影というわけではなさそうだった。黒い炎にも見える気がした。
するとそこへ、うごめく影よりもひと際背を高くした影がふたつ、視界の左端に入り込んできた。とぐろを巻くようなおどろおどろしい動きではない。緩慢な動きで、身を進めている。
りん、と鈴が鳴り、からん、と何かが地面を蹴って着地する。鈴と、もうひとつの音、その何かの正体は、下駄だった。
大きな二つの影は、蔓延る影を先導するように、先へ先へと進んで行く。少年はいつの間にか、大きな二つの影に視線が吸い付き、懸命に目で追っていた。
――人だ。
少年は二つの影を人だと認める。が、その二人の顔は見えず、かわりに深い夜のような色をした和風の衣に少年の目は留まった。散りばめられた刺繍が、月の光を受けて浮かび上がる瞬間を幾度かとらえた。
うごめく影の方はどんなに月に照らされても自身の漆黒を保ち底知れない闇をはらんでいるので、ふたつは対照的に見えた。
少年の目がぴたりと人影の方に留まる。袂が揺れる腕の先で何かをしっかと握っていた。刀だった。刀身を納めた鞘を握り、地面と平行にして体の前に掲げている。
上半身はそのまま、足だけが動かされ、歩を進めていく。下駄が地面を蹴ったかと思えば足がそのまま上げられ、地面を踏みつける。鈴が鳴る。反対の足が、また同じ動きをする。鈴が鳴る。
何度かそれを繰り返すと、上体がぐぐっと反り、位置を留めていた刀が空に向かって大きく円を描き、そこから降りると体の横を通ってまた元の位置に戻る。そして最初の歩みに戻る。その繰り返しである。
まとわりつく影だけが不規則な動きをしていて、人影の方はそれに動じる様子を一切見せず、ただただ前へと進んで行く。
鈴と下駄の音を奏でる二つの人影に見入り、少年の足は根が生えたようにべたりと地に張り付いていた。
あと少しで人影の顔が見える、というところだった。そのうちのひとつが、少年の方を向いた。顔が僅かにひねられた程度だったが、目は少年の方に真っ直ぐ向いた。
その顔も、同じく少年だった。瞳にはどこか鋭さがある。しかしその瞳の中に、一瞬動揺が生まれ、揺れた。
――それもそのはずだった。夜の草陰に、自分と同じくらいの少年が立っていて、自分を瞬きひとつせず見つめ、しかも頭は真っ白な髪で覆われており、肌もまた白く、その色をした素足で地面を踏んでいるのだ。
それが夜の中に、浮かんで見えたのだった。
二つの視線が交わり、白髪の少年が草陰からおもむろに一歩、踏み込んだ時だった。
パキリと小枝が折れる音が弾けるや否や、それまで二人の歩みに引き寄せられるように後をついていた影が、動きの中に質を異にする何かをはらみ始めた。
もともと規則性などない動きをしていたが、うねりが増し、下駄を鳴らす少年二人の背丈に届きそうなほど胴を伸ばしたかと思うと、縮んだりくねらせたりと、形を変えていった。
白髪の少年を見つけた、眼孔の鋭い少年の隣に並んでいた少年が声を上げる。
「わ、何。なん、で」
声には焦りが滲み、顔には動揺が張り付いている。彼が何歩か後退さると、影らはますます我を失ったようにうねりを激しくした。炎が勢いよく立ち上がるようだった。
白髪の少年は、草陰で縛り付けられたように体が固まり動かなくなっていた。体の内側まで締め付けられる感覚がしていた。
そんな中、一人冷静を保ったままの少年が、ひとつ大きく息を吐いた。
「文也、下がってろ」
そう言うと、手に持っていた鞘を腰に差し、そこからするりと刀身を抜く。それを目の前に掲げ、素早く一礼した。
文也と呼ばれた少年は言われた通りすぐさま数歩後ろに下がり身をかがめ、一方白髪の少年は、一体何が始まるのかと目を見張った。
刀身があらわになるや否や、影が自身の体を膨らませ、どう猛な動きを見せ始めた。今にも襲い掛かりそうな、激動をはらんでいる。徐々に姿を大きくしていく。
白髪の少年は影の不穏な動きに思わず目を瞑りそうになった。が、そのあと始まったものに、目が釘付けになった。
始まったのは、舞だった。白髪の少年の前で、舞が始まった。
月の光を纏った刀が、少年の手によって弧や円を描いていく。少年は、くるりと体を一回転したかと思えば大きく一歩先に進み、そこから身をかがめるようにして切っ先を地面すれすれのところで振り、また一歩進んで衣の袂を翻しながら刀を振る。
身を大きく捩るような姿勢を取るときでさえも、決して取り急ぐことなく、呼吸の音がはっきり聞こえてくるくらいの、静寂な空間を作り上げていた。風や草木の音など、あたりの音が一瞬にして消え去ったように静まり返り、鈴と、下駄の音だけが響き始めた。
それと同時に影は、たちどころに千々になって消え失せ始めた。のたうって苦しむような様子は見えず、刃が当たったそばから弾けるように消えていく。少年は、足が少し浮いたかと思うとまた移動しており、そこにあった影が一振りされまた消える。その繰り返しであった。
少年は、刀で影を闇雲に斬りつけているようには見えなかった。舞っている。ただ、そう見えた。
影に囲まれたようになっている少年は、ひたすら流れるような舞を舞っていた。少年は真っ直ぐ影を見据え、撫でるように刀を一振りし、影を霧散させていった。
気づけばそこにあった影が全て斬り払われ、あとかたもなく消え去っていた。
刀を掲げた少年がまた一礼する。次いで刀身が鞘に納められ、りん、と鈴がひとつ鳴ると、それまで漂っていた空気が一瞬にして切り替わった。
傍らでずっと見守っていた文也という少年が舞を終えた少年に駆け寄り、興奮を隠せない声を発した。
「すごい……。真那くん、いつの間に”還“がそんなにできるようになってたの。僕なんて“誘”の途中にカゲがこうなるのは初めてだったから動けなくなっちゃったのに、真那くんは冷静に――……」
「――文也」
真那と呼ばれた少年が、自分に向けられる称賛の言葉を遮るように声を吐く。それを受け、文也は咄嗟に口を噤んで真那を見た。
「悪い。カゲが暴れ出したのは、俺の気が逸れたからだ。集中が、途切れた」
真那が謝罪の言葉を口にするのを見ながら、文也は眼鏡の奥にある瞳を丸くする。と、真那はその文也とは目を合わさず、暗闇の中に視線を転じた。
「――おい」
真那の鋭い声が飛ぶ。その先には、木陰に隠れるあの白髪の少年がいた。まだ彼ら二人の方に、視線を送り続けている。
それに気づいていない文也は、あらぬ方向へ歩みを進め始めた真那に狼狽えながらも手を伸ばした。
「真那くん、どうしたの」
「ちょっと待ってろ」
「え……」
文也は唖然とした表情のまま、木々の中に進んで行く真那を見つめていた。
そして、その先に少年がいることをようやく認識するや、言葉を失い息を呑む。足が一歩出かけたが、真那の言いつけを守りその場に留まった。
微動だにしない白髪の少年と、そこに近づいて行く真那の後ろ姿を見比べるようにして見つめていた。
「誰だ」
数歩分距離を置いたところに立ち止まった真那の問いかけに、白髪の少年は口を噤んだままだった。
そんな少年の、足先から頭の先までを真那はゆっくりと見上げていく。暗がりの中でも全身の肌は透き通るほどに白く見え、特に髪は月明りのもとで淡く光るように白く揺れていた。
ゆっくりと、また真那が少年の目に視線を合わせようとしたその寸前。白髪の少年が口を開いた。
「今のは、何を。――何を、やってたんですか?」
風に吹かれてしまいそうなほどの小さな声に、真那は一瞬鋭さを引っ込めた瞳を揺らす。しかし少年から逸らすことはなく、しばらくした後それを若干ねめつけるようなものにすると、少年に据え直した。
「……見えてるんだな、今も、……さっきのも」
白髪の少年は小首を傾げる。
見えている、とは。
確かに少年の目には、先ほどの舞も、その前の歩む姿も、それについていく不思議な動きをする影のようなものも、そして今目の前にいる真那という少年のことも見えている。先ほどの影にやられたのか、真那の右頬に切り傷のようなものが一筋伸びているのも、見えていた。
少年の意識がそこに向けられるのとほぼ同時に、真那がまた口を開く。
「なぜ見える」
指先が静かに腰の鞘に触れた。それに気づいた文也が、咄嗟に真那の元へと駆け寄っていく。
「だ、だめだよ真那くん。無闇に抜いたら」
「……わかってる」
文也の焦りの声にも動じず、真那は冷静を保ったまま少年を見据える。白髪の少年はそんな二人のやり取りを見ながら、見比べるように視線を往来させた。白髪の少年のことを不審そうに見る様子は同じだったが、二人の顔つきは全く違うものだった。
真那は、引き締まった顔立ちに髪が短く整えてあり、細く鋭い光を宿す目を携え、凛とした佇まいをしている。一方文也はふわふわとした少し長めでうねりが見える髪をしており、顔にかかるメガネの奥にある瞳は柔らかな月の光をそのまま宿したようであり、穏やかな空気を纏っていた。そして背丈は、二人とも白髪の少年より少し高いくらいだった。
目に焼き付くほど二人の姿を見つめた少年は、またゆっくりと口を開く。空気の上にそっと乗るような、細い声がそこから吐かれた。
「もう一度、見せてくれませんか。さっきの」
思わぬ言葉に、真那と文也は一瞬顔を見合わせ、また少年の目を見る。二人を見つめる白髪の少年の目は、髪や肌と対極に、夜のように深い黒色だった。しかしそこにはしっかりと光があり、空に浮かぶ星のように瞬いていた。
「ごめん。あの、本当に、君は誰?名前は?」
文也がおずおずと問う。白髪の少年はまた小首を傾げた。名前というものが何を示す言葉なのかはわかる。けれど、自分に当てはまるそれが何か口に出そうにも出せず、それ以前に頭の中にもはっきりと浮かんでこないのだった。息だけが、口から漏れた。
黙りこくる白髪の少年を見やり、文也はますます表情を曇らせ、音が聞こえてきそうな大きな瞬きを何度も続けた。その隣で、真那は冷静を保っていたものの先ほどより眉間に皴を深く刻んでいた。
「……どこから来たの?」
文也の新たな問いに、少年は先ほど眠っていた場所にゆっくりと顔を向けると、しばらくそこに目を留めた。真那は少年の視線の先を訝し気に見つめ、文也は困ったような表情を浮かべた。
「……どうする?」
表情を窺うように、文也が真那の顔を覗き込む。真那はしばらく表情を固めたままにした後、口から引き伸ばすような息を吐いた。
「とりあえず、行こう。田平さんたちが待ってる」
そう言って、白髪の少年に向け続けていた目を文也に向ける。文也は少し間を置いてから、ゆっくり頷いた。
「そうだね。……この子も一緒に行った方がいいよね?」
不安の色をにわかに浮かべて言う。真那はそれに、黙って頷いただけだった。