0個目。
その少年は立っていた。
二本の足で、しっかりと地面を踏みしめて。
誰もいない、自分しかいない、この場所で。
そよぐ風が頬を擽っては流れて行く。スッと目を細めて見上げた先には、一本の大樹。緑溢れるそれの更に上を見つめて、そっと目を細める。サワサワと囁くような葉擦れの音を耳にしながら、ただ一点を見つめ続けて、それから、ほぅ…と小さく息を吐く。
晴れ渡る空に、ゆっくりと流れる白い雲。“穏やか”を体現する今日の天気とは対照的に、少年の胸は引き絞られるような痛みを感じていた。じわりと滲んだ視界は、きっと気のせいではない。
「 」
背後から呼ばれた己の名。その後に続く、近づいてくる足音にも、少年は振り返らなかった。真横に並んだ気配は、慣れ親しんだものだった。慣れ親しむほど、同じ時間を過ごしてきた。──あいつらよりも。
零れ落ちそうになるものを、目元に力を入れることでなんとか防ぎ、少年は大きく息を吸った。隣から声をかけられることはない。寄り添うような形で立ち並び、少年の様子に何も問わず何も語りかけない。同じ空を見上げているだけ。同じ空気を吸っているだけ。無言の空間に響くのは、互いの呼吸音とそよ風が遊ぶ音。
どれくらい、そうしていただろうか。自然の織り成す空気に身を任せていた少年が、不意に口を開く。
「…なぁ、 」
透き通るようでいて芯のある声で、隣に並ぶ者へと声をかける。こちらを見上げる視線に、声はなくとも応えてくれたことを識る。チラリと横目で確認すると、やはり己を真っ直ぐ見つめる視線があった。フッと優しげに目元を和らげた少年は、目線を再び眼前に佇む大木へと向け、緑がサワサワと揺れる様子を眺めながら訊く。
「お前は、憶えているか」
答えはない。だけど、少し困惑している気配を感じた。恐らく問いの核心が判らないということだろうな、と少年は当たりをつける。己の言葉の足りなさに僅かに苦笑すると、再び口を開いた。
***
ずっとずっと、遠い日の記憶。
あの日のことは、全て憶えている。忘れることはない。忘れることはできない。
あの日、この目で見たもの、この耳で聞いたもの、この肌で感じたこと。昨日のことのように、全部、憶えている。
……あの日の、感情も。
なぁ、お前は憶えているか? 俺たちが、初めて出会った時のことを。
あの日の、今日のような遥か遠くに感じられる青いあの空も。辺りに立ち込める、吐きそうなほどの気持ち悪い臭いも。呆然と見渡した、目を逸らしたくなるようなあの光景も。胸を搔き毟りたい衝動に駆られそうなほどの、苦しさと虚しさも。
それら全てを上回る、お前と視線が絡んだ、あの瞬間も。
俺は、全部、憶えているよ。
絶望の真ん中にいた俺を、お前が救ってくれたんだ。お前が、俺に希望をくれたんだよ。お前がその手を差し伸べてくれたから、俺は今もこうしてここにいる。お前の存在が、俺にとって、かけがえのない光だった。今でも感謝している。そして、これからも。
──…ありがとう。
たとえ、この先、何が起ころうとも。何が待っていようとも。
──どんな、終わり方になろうとも。
お前に対するこの気持ちは、決して変わることはないと、知っていてくれ。
あの空の下で交わした、俺とお前を繋ぐものが消えてしまったとしても。
***
──…これは、哀しき運命を背負った少年の、時を超えた物語。
歴史から隠された、決して語られることのない、一つの物語。
だが、本当にあったのだ。確かに存在したのだ。歴史に残らなくとも、この世界の中で紡がれた物語が。
どれだけ時が過ぎようとも、忘れなかった。忘れられなかった。己の生命が尽き果てるまで、忘れずにいようと決意した。
──…これは、たった独りの少年の、胸に秘めた大切な“約束”の物語。




