クラスメイトのひとりごと
着たくもない制服に腕を通すのは、結局あがくほどの勇気も勢いもないからだ。自転車にまたがって学校に向かう気持ちは、秋の空のように晴れやかではない。家では反抗的な態度だけれど、予鈴が鳴ると自分の席に着くのは、教育の賜物だと我ながら感心する。
髪を明るい色に染めた男子が担任から呼び出しを喰らっていた。わかっているのになぜ染めるのか。
バイト先で告られた彼氏に二か月で振られたと言って、いつものグループに慰めてもらっている女子。グループの一人が「ひどい男だね」とか言いながら、「ざまあみろ」って顔をしているように見える。
どれもみんなくだらない。刺激的に見えるだけの、ただの演出に過ぎない。
人生は本当は全部平たんで、自分でどうやって起伏を作るかを考える工程だ。波風立てずに生きていくことが一番楽で、物語の登場人物Cが実は勝者なのかもしれない。
数週間前に塾で勉強したことをおさらいする学生生活は、はたして本物なのだろうか。仲良しグループを演じながら裏垢で毒を吐く友人関係は、大切にすべきものなのだろうか。
原動力は“死ぬよりはまし”という消去法。生を全うするのではなく、死を免れているだけ。
与えられた役割は、親の子供であり、学校の生徒であり、それは個人ではない。それを認められないから、個人であろうとするあまり、非行に走る。
残念ながら、生まれながらに社会の歯車であることに気が付いてしまった。でもそんなものどうでもよかった。
“1+1=”の式に“2”と入れればいいだけの話。“0.9”とか“3”とか、特別な何かを求めようとしなければいいだけのこと。
とにかく普通が、一番普通であり、まぎれもない普通だ。それ以上でもそれ以下でもない。
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「ねえ、今日空いている? 空いてるなら学校終わりでちょっとだけでいいから買い物に付き合ってよ」なんて恥じらいを隠すように、強がってこんなことを言ってくる幼馴染の貧乳女子は僕にはいない。それが巨乳になろうとも変わりはない。
ずっと前から好きでした、という展開は期待するだけ無駄で、好意というものはもっと崇高なものであるはずだ。そういうことにすることで、自我は保たれ、現状を受け入れることが可能になっている。別に悲しくはない。
ただ言えるのは、感情をできるだけ抑え、機械のようにドライに生きることが、傷つきはしないということ。今まで生きてて身に着けた防御策。
しかしこの防弾チョッキも完全に弾を防げるわけではない。想定外のことが起きることなんていくらでもある。つまり想定外は、ただ想定していないだけの想定内といえる。
思いもよらないことが起きるのは、いつも思いもよらない時だ。それ以外はあり得ない。
たいていの問題は方程式にあてはめたり、歴史から学んで解けるものばかりのはず。
人の歴史は地球の歴史に比べれば短いけれど、決して小さいものではない。
多くの人たちが恋に悩み、愛におぼれてきた。
浮気する男は最低だ。束縛する女には気を付けろ。長く付き合っていると結婚するタイミングを失う。
数々の諸問題ははるか昔から言い伝えられ、今なお残る教訓である。しかしなぜ人は歴史を繰り返すのか。
それらは同じ問題に見えるだけで、実はたくさんの係数がかけられ、いくつもの式が複雑に絡む、他に類を見ない、たった一つの問題だからだ。
学校では習わない、塾に行っても教えてくれない、親もしつけない、誰も見つけたことのない、方程式だ。
これには感情が深く関わり、平たんでいた方が楽な人生を大きく揺るがし、生きることが山あり谷ありのアクロバティックなものとなる。
笑うことも、泣くことも、喜ぶことも、悲しむことも、つまりはすべての感情が、最大限に活かされることだろう。
だがまず最初に乗り越えるべき感情は恐怖とえいる。今後の人生がどうなってしまうのか、関係性がくずれてしまうのか、変化に対する怖さは計り知れない。
しかしどんなに言い訳を並べても、この衝動には敵わない。どんなにドライでいようとも、この高鳴る胸は抑えられない。