密偵
灰色の雲が頭上にひしめいている。結局退社時刻は八時半を過ぎていた。頭痛が酷いから、一刻も早く帰路につきたい。
「それで。なんであなたはついてくるんですか」
食堂の少女もといおばちゃん。ボクと同じ電車に乗り、同じ駅で降りる。
「公園寄っていこうよ」
「嫌ですよ。意味が分かりません」
「交番に連れていっても無駄だよ」
心を読まれたボクは言葉の継ぎ穂を失った。まんまと閉口するのを見て、ニヤニヤしているこの女の子は謎だらけだ。
「どうしても公園でなくてはならないんでしょうか」
夜遅くに、若い異性といるだけで、職務質問の対象になるのではなかろうか。同じ立場なら、ボクは迷わず職質するに違いない。
「あー、あっちにしよっか」
軽いノリで、女の子は走っていく。小走りで追う。嫌な予感しかしない。根拠はない。
薄手の長いコートをはためかせ、ボクを待っている電信柱の隣で。追いつくなり、スーツの袖をぎゅっと掴んでまた走り出す。
「あの、ちょっと、待ってくれよ」
少女の手を振り払う。怪訝な様子でボクを見上げる。その上目遣いが悪戯っぽいから、視線を逸らす。
「ここは」
線路づたいに遠くまで。ファストフード店の、油のどぎつい匂いがほんのりと鼻腔をつく。
派手な電飾の門が聳えている。
「ふふーん」
両手を後ろで組んで、女の子がくるりと回る。ブルーライトで痛めつけられた眼球が、赤や黄色や桃色のネオンの励起を吸い込む。
ホテルが建っている。こんなところに来る理由なんてないのに。
女の子はコートを脱ぎ捨てる。短いスカートと、生白い脚が露になる。叩けばぽっきり折れてしまいそうな、儚さが溢れる。
「もう、警察を呼ぶよ」
スマホを取りだして、画面をスワイプする。
一瞬だけ、学生服姿の女の子を見やる。
精緻な彫刻のような横顔、マネキンと称してもいい。その横顔は、とある一点を凝視している。
思わずスマホから意識を放して、そっちを見る。
ライトグリーンのスカートは、プリーツが規則正しく波打っている。
「あれは」
彼女の夫は県外にいる。彼女自身が最後の挨拶で語っていた。夫は先に実家の方へ。
じゃあ、隣で腕を組む相手は誰だ。
結婚式の写真に映っていた人物に似ている。新郎新婦を祝福する取り巻きに。
「違うよ」
女の子が耳許で囁いた。
「違う?」
「うん。あれは、あなたの」
想像とは異なるということか。てっきり参列者かとばかり思ったボクの勘違いか。そんなことはどうでもいいけれど。
微笑ましげに、建物へと姿を消していく二人。月が見え隠れする夜。