夕方
午後の仕事は、打ち合わせだった。
先方に出向いて、会社に戻って、資料をまとめる。
それで、終わり。
「お先に失礼します」
みんな帰っていく。定時過ぎて、およそ一時間毎に。
八時に出社したから、八時に帰ろう。
なんとなく、そうしている。
蕎麦しか口にしてないから、それにコーヒーを飲んだから、胃の調子がおかしい。
ブルーライトをたくさん浴びたボクの瞳は、年々衰えていく。根拠はないけど。目に悪そうだ。
幾つかのメールを打って、時計は八時を過ぎる。
会議、食事、会議、の繰り返し。ボクは生きている。こうやって。
自販機で珍しくサイダー。春は喉が渇く。
更衣室で着替えているときに、思い出す。
「お世話になりました」
ライトグリーンのスカートの女性は涙ながらに言葉を紡いだ。結婚したからと言って、辞めなくていい。課長の持論だ。が、ボクも思った。
いいえ、夫の実家に。彼女がはにかむ。なら仕方ないな、花を渡すと課長が頷く。
不思議なのは、彼女の最終出社日を、ボクが知らなかった。仲が悪いとか、そんなことはないけど。社会的マナーとして、伝えないわけはないし。
つまりはボクが忘れたってことか。
暗い廊下は間接照明しか点いてない。なのに、明るい場所がある。
導かれるようにして、ボクは敷居を跨ぐ。
空っぽの静寂に、混沌が満ちている。
おや、誰かいる。目を凝らす。ドライアイで視界が霞む。
曖昧な輪郭が、近づくにつれて鮮明になっていく。
「あなたは」
椅子に浅く腰かけていたのは、おばちゃんだった。
華奢な体、白いうなじが、蕎麦の湯気とダブる。
「ん」
寝ていた。ような振りをしている。可能性がある。
眠そうに、しきりにまぶたを擦っている。
「あなたがたは、この時間まで残っていていいのですか」
係長の言う通り、派遣なのだ。派遣が夜の八時を過ぎて会社にいていいはずはない。
「夜食を用意しなくては」
低くくぐもった声色に、食堂の空気がはりつめる。
「うちの会社は夜勤がありません。だからあなたが残る道理もありません。ここを一緒に出ましょう。見逃してあげますから」
諭すつもりだった。のに、ふふふ、と嘲るから驚く。
「なにがおかしいのです」
「だって、笑いたくなるわよ」
急に声のトーンが上がった。まるで公園ではしゃぐこどもみたいに。
おもむろに、三角巾を外す。マスクも。
立ち上がった姿に唖然とした。
「てっきりシワだらけの婆さんだと思った?」
不敵な笑みを浮かべるのは、一体何者なんだろう。
伸びやかに笑い、髪をかきあげる。照明によって銀色に染まる。そこには十代の麗らかな少女が佇んでいた。