最終出社
タイムカードを打刻。ロッカールームは階段を上がって右の奥。トイレの手前。扉を開く。
鍵をさしこむと、カチャリと鳴った。
コートをハンガーに通して、ラックにかける。擦り傷のついたカバンからパソコンを取り出す。
基本的に何時に出社しても構わない。それが課長のしきたりだ。ボクは八時と決めている。
まだ人影の疎らなオフィス。風を通そう、と思って窓の錠を捻る。肌に馴染む冷たい空気。
「コーヒー、飲みます?」
「あ、ありがとうございます」
ライトグリーンのスカートの彼女は、今年の初めに婚約したらしい。薬指のリングは控えめだけれど、式のときは大きなダイヤのものになる。
新しい名字を教えてもらった記憶はない。会社ではこれまでの名前で通す人は少なくない。
「美味しいです。香り豊かで」
「ふふ。四家さんはそればかり。ただのコーヒーメーカーなの知ってるでしょう」
口許に手を当てて微笑む彼女は入社したころからムードメーカーで、この時期は花見を企画してくれたり、夏はバーベキューだったり。
なんでだろう。旧姓が分からない。名前も知らない。
こんなに思い出はたくさんあるのに。
苦いコーヒーにミルクを注ぐ。白くたゆたう筋はやがて漆黒と混じって消えた。
「しけくぅん、おはよっ」
パソコンから頭を半分だけ上げる。
毛先がくるりと巻いてある。ゆるく縦にロールしている。
「お早うございます」
「お、コーヒーじゃないか。いーな、あたしも飲もうかなあ」
デスクの資料に目を通しながら係長はお気に入りのマグカップを手探る。給湯室で乾いたものを、抽斗にしまっているらしい。
「出張の手配してくれた?」
来週の木曜日から二日間。大阪へ。
「駅の近いホテルをおさえました」
「そう、ありがと」
透明感のあるグロスが熱を帯びて光る。
フルーティなコーヒーの香りの奥に唇が濡れている。
午前中は会議。顧客が要望するデータ。他部署を交えて吟味する。いつものことだから、慌てて用意するものは、ない。
冷めたコーヒーを口に含む。
ボクは苦いものが好きだ。なのにカフェインには弱い。
ひとつの体でコーヒーをめぐって二律背反。
冴えた頭が、いいアイデアを捻り出せればいいのだけれど、課長の納得のいく答えを提供できずじまい。
軽そうな毛先が係長の肩で揺れる。ポインターがスクリーンを示す。プロジェクターの光が薄暗い部屋を断つ。
二十人は利用できる。空席は八割。風通しは良好だ。
「さ、行こっか」
ジャケットを脱いで、シャツの白さがまばゆい。暑いから、と係長は微笑む。