居酒屋
待ち合わせに選んだタワービルの下で、何台も往来する車たち。道路を走っている。かつては地面だったところが、整備され、舗装され、アスファルトが敷き詰められる。
夜中、コンビニに出るときに、誘導灯を掲げる人や、ロードローラーがいる。ボクが寝ている間に、彼らはひたすらに作業を続けている。
いや、ボクの眠るとき。同時に彼らは消える。幻の存在として。コンピューターゲームの一員として、リセットボタンを押せば、何事もなかった。
「すいません、待ちました?」
オフィスでは結わえている髪がおろされている。新人の歓迎会が終わって、二次会から外れて。
「ううん。行こうか」
柔らかな肌をしている。彼女の手はうっすらと汗ばんでいる。
「四家さんの手って」
「なあに」
「ごつごつしてます」
「ふうん、そう」
詳しいことには、彼女の父親とそっくりらしく。懐かしいとさえ思えるそうで、ホームシックか、もう、と訊けば、そんなことないですよ、と笑う。
肘同士がこすれて、醒めていたはずの酔いがまた回る。
この先にね。ボクの行きつけの小料理屋があるんだよ。え、そうなんてすか。うん、珍しいものが出されるから、楽しみにしててよ。四家さんの舌を満足させるなら、期待しないわけにはいかないですね。そうだろう。そうですよ。
苔の生えた階段をのぼり、東屋で寝転がる猫の鳴き声をあとにして、曲がり角の提灯を探す。
予約していた四家です。暖簾をくぐり女将が出てくるのを待つ。藤色の着物で、トコトコとこちらへ向かってくる。顔に疲労の色が滲んでいる。
「お待たせしました」
座敷の奥へと案内される。彼女は背後でわあとか、すごいとか嘆息している。
精緻な細工の骨董が、そこここに配置されている。
枯山水と燈籠が、部屋からの明かりを受けて、ぼんやりと庭園を彩っている。
「本日は河豚です」
にこりとして女将は去っていく。襖が音もなく閉められる。
「隣に行ってもいいですか?」
ある程度食べたら、彼女は向かい側から立ち上がり、ボクの隣に座り直した。皿に残った正油を眺める。天井を鏡写しにしている。
なぜかテレビが点いていて、オールバックのアナウンサーが、一日の出来事を告げている。
えー、それでは次のニュースです。どこどこのそこそこにある河川敷で、身元不明の遺体が発見されました。
遺体は黒いごみ袋に包まれて遺棄されており、一部はまだ見つかっていないということです。
明け方、近隣住民から、犬が吠えているとの報告があり警察が駆けつけたところ。橋脚に。
「怖いわ」
うつ伏せになった彼女が呟く。
「怖くなんてないさ」
震える白い肩がいとおしくて、肩甲骨に沿って、人差し指でなぞる。ビクッと体を震わせるから、優しくつつみこむように頬を寄せる。
「初めてなんです」
「ああ、こういう料亭みたいな場所?」
よほど気に入ったのか、大袈裟に頭を前後に振っている。諭すつもりで、すぐに馴れるよ、と囁く。
畳にたてた爪が、い草をむしる。しがみつこうとしている彼女の肘に手を添える。叩けばぽきりと折れてしまいそうで、両親が手塩にかけて育ててきた証を垣間見る。
覗き見しているようだな、と笑みがこぼれる。その腕の健やかさ、腰の曲線、ふくらはぎの張り、そのすべてを欠かすことなく今日まで維持し続けた世界を想う。
「冷たいです」
首筋に、ボクから滴る涙が伝う。それが彼女にとってはひんやりとする。
等しい温度は、どこにもない。
片方が熱いと感じれば、もう一方は熱を奪われる。
誰かが悲しいと思えば、喜びに憑かれる者が。
柔らかな手のひらは、硬い手のひらに包まれる。
絹の滑らかさをまとう髪を握り締めると、心の穴が塞がれる。するとどこかで何かが抉られて、その間隙の向こう側には素晴らしい景色がみはるかせるに違いない。
だってボクはこんなにも切ない。だからこそ、その光景は素晴らしくなくてはならない。




