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寒山拾得

作者: 杉崎智介

 もう四十年近く前の話である。それは私が、夏も終わりに近づいている信濃に、写生スケッチに出掛けた時のことで、不思議な体験をした。

 その日は朝から、信濃の壮大な野山の風景をスケッチしていたのだが、昼食を摂ることも忘れ、クロッキー帳に鉛筆と絵の具の筆を走らせていた。それはつまり、私が写生スケッチにあまりに没頭していたということなのであるが、うるさい位に聞こえていたヒグラシ蝉の鳴き声が、いつからか寂しさを誘うように変わっていたことに気が付いた。既に太陽も随分傾きかけていたのである。私は、そう気づいた途端に空腹を感じ始めた。いや、感じ始めたというと、緩やかな印象を与えるが、グウグウと音を立てていた胃袋が脳にその窮状を伝えた時間はほんの数秒の間のことであったであろう。同時に握り飯を持っていたことを思い出した私は、慌ててその昼食の握り飯が入った紙袋を地面に置いてあったリュックサックから、たいそう大事そうに、それでいて慌てて取り出すと、夕日に色づく草の上に広げた。

 すると、どこから来たのか、薄汚れた服装の少年が、あたりの草を踏みながらやって来た。少年は、サランラップに包んだ握り飯が四個詰められた竹製の弁当箱を物欲しそうに覗き込んで、「うまそうだなー」と言った。

私が少年に反応するように「ん?」と答えると、少年は、

「おじさんは、これ、全部一人で食うのかい?」と言った。

「おじさん? おい、僕はまだ二十歳をやっと過ぎたばかりだぜ。

お兄さん位にしておいてくれよ。よかったら、一緒に食べるかい?」

少年は、「いいのかい?」と嬉しそうに答えた。

「ああ、いいよ。大したものはない、おにぎりだが、どうぞ」

少年は握り飯をひとつ掴むと、ムシャムシャと、実に旨そうに食べ始めた。

「おぉ、うまい、うまい…」

「随分と旨そうに食べるね。そんなにお腹がすいているのだったら、もっと食べればいい。僕は一つでよいから」

「おお、そうか! ありがとう!」と少年は余程腹が空いていたのか、興奮したように次々と握り飯三個を平らげてしまった。残る一個は私の分と心得ているようで、それ以上は弁当箱に手を伸ばそうとしなかった。私は自分の分を食べると、トラベルタンブラーをリュックサックから外し、中のお茶を飲むために蓋を外したのだが、少年は握り飯の時と変わらないくらい、これに熱い眼差しを向けて来た。悪く言えば、飢えた物乞いのようであった

「おお! その水筒は、お茶かい?」

「ああ、お茶だよ。飲むか?」私がそう言うと、少年は瞳を輝かせて何度も頷いた。

 タンブラーの蓋に注いだお茶は、半日時間が立っていたがまだ湯気が立ち上るほど熱かった。

「はい、どうぞ」私がお茶を差し出すと、少年は私が手を伸ばし切らないうちに、まるで奪うように、タンブラーの蓋を掴んで、

「おお、お茶か、お茶か。い、いただくぞ」そう言って、ゴクゴクと実に嬉しそうに、旨そうにそれを飲み干した。

「ふぅ~…、うま…かった! お兄さん、それ」と、少年はスケッチブックに目配りをしてきた。

「ああ、これか。これは、写生をしているんだ」

 少年は、私の周りに纏わりつきながら、スケッチブックを覗き込んで来た。

「お兄さん、絵を描くのかい?」

「ああ、ま、まあな」

「お兄さんは絵描きさん、かい?」

「絵描き…、い、いやあ…、これは、まあ、趣味、みたいなもんだよ」

「そうか、俺も、絵は好きだ」と言うと、腹が膨れたせいもあってか、少年は夕陽に色いた草の上にドカンと尻をつき、落ち着いた面持ちでそう言った。

「君も描いてみるかい?」

「俺に、描かせてくれるのか?」少年はさらに目を輝かせた。私がスケッチブックを渡すと、少年は乱暴に絵具の筆をとり、生まれてから初めて筆を手にしたような雑な動きで、何やら描き始めた。

「おい、いきなり、絵具で描くのかい? スケッチと言って、鉛筆で下書きをしてからの方が上手く描けるもんだぞ」

 少年は私の助言に気を留めていないかのように、絵の具の筆を走らせ続けた。私がタンブラーのお茶を飲んでいると、少年は私より年配と思うような口ぶりで、「ここらの眺めはよいだろ…」と呟いた。

「そ、そうだな」

「あー、楽しかった。ありがと」少年はいつの間にか絵を描き終えていて、私に、スケッチブックを返してきた。その手はまるで土いじりをしていたかのように汚れていた。

しかし、少年の描いた絵は、何んとも言えない心地よさを感じさせるもので、それはそう、例えるなら、初めて行った割烹屋さんのカウンター越しで、これから出てくる、旨そうな料理を匂いと音で感じて待っている、いや、待っているだけでも楽しい、ワクワクしてしまう時間を味わっているという高揚する感じとでも言おうか、まぁ、変な感覚なのである。

「これはナントモ…、君、面白い絵を、描くね!」

「野山が笑ってるからな…」

「野山が笑う? 面白い子だ…。筋がよさそうだ。絵の勉強をしたらいいよ」

「いつもしているよ」

「ほぉ…、そうだったのか。絵はどこで教わっているんだい?」

「この山を下った先に尼寺があるだろ? そこでだ」

「この山の下に尼寺があるのか…。知らなかったよ」

「草深い山道の途中に佇んでいる、崩れた山門のある古い寺だよ。門の脇には、一本のなかなか立派な柿の木があるんだが、きっと、これから旨そうな柿の実をつけるだろう」と、少年は山寺のことを教えてくれたが、不意に残念な面持ちになると、

「お兄さんの絵は、つまらないな」と呟いた。

「つまらない…。そ、そうか。どこがつまらないんだ?」

 私は、不思議な絵を描く少年のこの言葉に、まるで学校の生徒のような気持になって、教師としての少年の次の言葉を聞きたくなっていた。少年は私の問いに、遠くの山々を暫く見つめた後に、

「上手く描こうとしているのが伝わるからな…」と、ポツリと言った。夕日に照らされた少年の横顔はまるで、世の中のあらゆることを知る仙人のようにも見えた。

「なるほど…」

少年は私を見ることなく、山々を見つめたまま、言葉を続けた。

「目の前の風景をよく見てみろ。全ては仮の姿だ。すぐに、儚く消えていくものだ」

「えっ!? な、なんだって!?」

 私は予期せぬ少年の言葉に驚かされたが、同時に少年の横顔に神々しさすら覚えて、全身に鳥肌が立つのを感じていた。少年はゆっくりと私の方を向きながら、さらに言葉を続けた。

「この世の儚さを紙に描くんだ。その一瞬、ほんの一瞬、彼らは笑

うのさ。お兄さんにはわからないのか?」

「彼らって…?」

「野山さ。生きとし生けるものたちだよ」

「き、君は…、いったい…」

 夕日を背に私に向かって立っている少年に、心の奥底すら見透かされているような完全なる敗者の気持ちになった。いや、勝敗などおこがましい。それはとても尊い存在であった。少年は、この世のものとは思えないほどの優しい笑みを浮かべると、私に諭すように、

「見た目に惑わされるな。心の目で見てみろよ…」と言ったのだ。

「えっ…!?」

 一瞬、茫然とした私は、次の瞬間に、少年の姿を見ることはなかった。少年の立っていたであろう場所には、秋の匂いのするつむじ風がピューと吹くのみであった。

私は、その日の帰り、少年の言う尼寺に立ち寄ることにした。  陽はすっかり暮れていて、辺りは真っ暗になっており、山を下る道すがらは、既に秋の虫が鳴いていた。その虫の鳴き声すら、何だか私に語り掛けているような感覚を覚えるほど、少年の影響は大きく、また続いていた。三十分程山を下ったところに古い小さな山寺があった。それは、草深い山道の途中に佇んでいる、崩れた山門のある古い寺で、門の脇には、一本のなかなか立派な柿の木が確かに生えてる。これなら多分、これから秋を迎え、旨い柿もなるのであろう。

「ここの寺だろうか…」

私は、寺の山門をくぐり、御堂の木の引き戸を開けて、声を掛けた。

「ごめんください!」

 御堂の中はシーンと静まり返っており、凛とした空気が漂っていた。

「ごめんください!」

 再び、そう言うと、奥で人の動く音がした。時を置かず、奥から足音が近づいて来たのは、初老の小柄な尼さんだった。

「はい、何んでしょうか?」

 尼さんは、穏やかで優しい声で私に尋ねた。

「突然、お邪魔してすみません。実は今、この先で男の子に会いまして」

「男の子?」

「その子供の話では、多分、こちらの寺で絵を勉強しているということでして。心当たりはございませんか?」

「はて…? 子供? ここでは絵なぞ教えていないし…、子供というのも、存じませんが…」尼さんはキョトンとした表情でそう答えた。

「そうですか…」

 私は、スケッチブックを広げて、少年の描いた絵を尼さんに見せながら、

「その子が、この絵、これを描いたんです」

 尼さんはスケッチブックを覗き込むと、

「どれですか…。 ふむ…、ふん…」と興味深く絵を見ながら、

「よろしいですか?」と、スケッチブックを手に取った。

「最近の子にしては珍しく、汚いなりをしていたんですが…」

 尼さんは、頷くと、「これは…。もしかしたら…」とポツリ言った。待っていた答えを聞けそうな気がした私は、すぐにその尼さんの言葉に食いついた。

「なんでしょうか!?」

 「ちょっと、お上がりくださいますか?」尼さんは優しく私に言った。

「は、はあ…」

 私は靴を脱ぐと、寺に上がった。夏の終わりの古寺の床は冷たく、尼僧とはいえ、初老の女性が暮らすのは楽ではないであろう作りであった。暗い廊下を案内されて歩く私と尼さんの足音だけが寒そうに響いた。

「こちらです…」尼さんが案内してくれたのは、暗い廊下の奥の二十畳程の広間だった。

「これ、この絵。見てください」そういって彼女が右手で指し示したのは広間の奥の床の間に飾られている掛け軸の絵であった。

「こ、これは!」

何んと、その絵には、あの少年が描かれていたのだ。

「こ、この子です! 私が今日、山で会ったのは、この絵に描かれた子供に間違いありません!」

「やはり…、そうでしたか」尼さんは、納得したように頷き、私に微笑んだ。

「この絵は?」私は絵の子供の素性が知りたかった。

「これは、ウチの寺に古くから伝わる寒山拾得の絵です。この絵に描かれた子供…、童は寒山…」

「寒山?」

「あなたは、おそらく…、絵の中の童、寒山にお会いになったんじゃないでしょうか…」

 寒山とは、中国唐の時代にいたと言われている伝説の僧で、ボロの衣を纏い残飯などをもらい暮らしていたとされるが、世の中のあらゆることに精通しており、時に子供の姿になって現れることもあったとされ、拾得とともに絵の題材にされることが多く、詩人であったとも、いや、実は文殊菩薩の化身だったとも言われている不思議な人物である。私が今日山で出会った不思議な少年こそ、正に寒山であったのだ。私は驚くよりも、何んだか救われたような気持になり、心が満たされた。先ほどまで冷たさを感じていた足の先までがホカホカと温かくなった。

「あら、雨が降り始めたようですね…」尼さんの言葉で、外では雨が降り始めた音に、私ははじめて気が付いた。

「あぁ、雨…。そのようですね…」

「台風が来てるそうです」

「そういえば、昼間の空、そんな雲でした」

「そうでしたか。これから、信州も九月の長雨が始まるのでしょ

う…」

「九月の長雨、ですか…。あぁ、もう、こんな時間か…、私はこれで、失礼します…」

「これから? どちらにお帰りでしょうか?」

「東京です」

「東京…。それは…、遠くから。辺りはもう真っ暗ですよ。よろしかったら、明日の朝立たれてはいかがでしょうか? こんな古い寺ゆえ、何もお構いはできませんが、部屋と蒲団だけは余っていますので」

「ありがたいお話ですが、明日仕事がありますの、これで」

「そうですか。それでは、どうぞ、お気をつけてお帰りなさい」

「ありがとうございます」

 私は、雨が降る信濃の夜を後にした。もう、四〇年昔の、信濃での不思議な一日の記憶である。


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