禁断の恋に身を委ねてみたいと思いませんの?(中編)
伯爵家のお屋敷は、王都の中心部からは馬車で二時間ほどかかる――本来、王太子殿下が気軽においでになるような距離ではございません。それもあって、お屋敷でのおもてなしは省略されたのでしょう――場所にございます。
王都の中心部にも別邸があるのですが、陛下との非公式のお茶会を終えられるとすぐ、お嬢様は本邸への移動を決断されました。お嬢様付きのメイドであるわたくしはもちろん、使用人も別邸の維持に必要な最低限の人員を残し、全員が本邸に移りました。理由は簡単、陛下のご意向を達成困難にする――王太子殿下からのお誘いを避ける――ためです。そうでないと、例のクロウタスグリのパイにつづけとばかり、いろいろなものや殿下ご本人がお屋敷にお届けされかねない、とのご判断でございました。
けれど、陛下はその程度のこと、まったく意に介されないようでした。つまり、王太子殿下のお誘いはつづきました。
その結果、わたくしは行きに二時間、帰りに二時間、合計四時間も王太子殿下と同じ馬車に乗って移動することになってしまったのです。
まさか自分が王族のかたと同じ馬車に乗る日が来ようとは思いませんでしたが、現実は予測をくつがえすもの――それを申しますれば、のどかな田園の暮らしを捨て、飢えや死から逃れるように大陸に渡る日が来るとも、そこで女伯爵家ご当主となられるお嬢様のメイドとして雇われるとも、昔のわたくしは考えたこともなかったのですから――この程度の現実は、しっかり受け止めたいところでございます。
お屋敷を出て暫くは、窓の外はのどかな田園風景がつづきます。陰鬱にたれ込める雲やら起伏に富んだ地形やら。点在する白い点は、草を食む羊たちです。
馬車の中では、お話が盛り上がっております。
「ラスペリデスとはカレッジで話したことがあるのです。彼の考えは、わたしのような者には理解も及ばない領域に達していて、話し相手としては不足だったでしょうに、非常に丁寧に説いてくれました。彼がひもといてくれる数理の世界をもっと知りたい、という欲求に苛まれるほどに……」
話していらっしゃるのは、王太子殿下とジョージ様。話題は、ジョージ様のご友人らしき天才数学者、ラスペリデス氏のことばかりです。おかげで、ラスペリデス氏の情報が集まりました。王国領デーバ生まれで半分はデーバ人の血を引いており、肌は浅黒く、偏見に晒されていらっしゃる、とか。しかし、数学的な発想と思考法においては余人の追随を許さない、とか。そのためさらに妬まれて、経済的な困窮状態に陥ってしまわれた、とか。
「ジョージ卿は、ラスペリデス氏を高く買っているのですね。以前お会いしたときも、ラスペリデスの才能は燦めく星のごとく、凡才が地上から手をのべても掴むことは能わぬほど、と表現しておいででしたよ」
「これは失礼。わたしの悪い癖なのです、自分がよいと思うものを、つい人に勧めてしまいまして」
「いや、ジョージ卿のお話を伺ったからこそ、彼に出資しようと決めたのです。非常によい結果を得られて、僕も満足です」
「まさか、わたしの話をご記憶でいらっしゃるとは思いませんでした」
「記憶力には、それなりに恵まれている方なのです。ただ、独創的な思索に結びつくかというと、それはまた別の問題らしくて。それこそ、ラスペリデスのような存在には憧れますね。ジョージ卿のお考えも、よくわかります」
「彼は学者としては途轍もなく優秀なのですが、学問の世界に夢中になるあまり現実を忘れがちなのです。自分が生き物だということさえ念頭にないのですよ。命を繋いでこそ、研究もできるのに。どの学閥からも疎外されたと人づてに聞いて案じていたのですが……殿下が支援してくださるのでしたら、安心です」
お嬢様は顔色ひとつお変えになりませんが、学問の世界に夢中になるあまり女性の存在を忘れているに違いない殿方に憤懣やるかたないメイドの方は、顔色がちょっと変わってしまっているかもしれません。
……まぁ、お断りするご予定なのですし? 殿下が多少、無礼をはたらいてくださる方が? お断りしやすくて結構なのですけれども?
それでもなんでも、もう少し、お嬢様には敬意を払っていただきたいものです。
わたくしの怒りの波動が届いたかどうかはともかく、ジョージ様が不意にお嬢様の存在を思いだされました。
「エルスペス、ずいぶん静かだね。気分が悪かったりはしないかい?」
お嬢様は扇でお口をお隠しになりながら、それはおだやかな、やわらかなお声でおっしゃいました。
「殿方が難しい話題で盛り上がっていらっしゃるあいだは黙っているように、と教育されましたの。たとえその内容を理解できても、できなくても」
内容は氷のようですが! いつものお嬢様です。
ジョージ様は口を開けたまま、お嬢様を凝視なさいました。
殿下はと申しますと、落ち着いた微笑をたたえてお尋ねになりました。
「エルスペス、君にそんなことを教えたのは誰なのか訊いてもいいかな?」
「まぁ、決まっていますわ、エドマンド様。家庭教師です」
至極当然、という体でお嬢様はお答えになり、さりげなく視線を窓の外に移されました。この話題は終わりにいたしとう存じます、の意味です。
ですが、それを察する社交力をお持ちでないのが、ジョージ様です。
「エルスペス、ほんとうかい? 家庭教師は――」
「とうにお役御免となっておりますわ」
「――フランシスが辞めさせたのかい?」
「その通りですけれど、お義父様、家の事情などでエドマンド様を煩わせてはいけませんわ。どうぞ、おふたりはお話をおつづけになって」
「だがエルスペス、君がそんなことを頭から信じているなら――」
そこで馬車が大きく揺れ、ジョージ様が悲鳴をあげられました。悲鳴をあげながら立ち上がるという無謀な動きをなさった結果、天井に頭をぶつけられ、そのまま座りこまれました。
「お義父様?」
「ジョージ卿、……舌を噛んだな」
ジョージ様は大丈夫とおっしゃったような気がいたします。あきらかに口が回っていらっしゃらないので、気がする以上に聞き取れる者はいないでしょう。よほどしっかり噛んでしまわれたに違いありません。それとも、頭を打たれた方が原因でしょうか? ものすごい音がいたしましたから……。
殿下はステッキで馬車の壁を叩き、すぐさま御者――か、お付きの者でしょうか?――がそれに応じました。殿下はまず馬車を止めさせ、医者の手配、劇場と王宮へ予定変更の通知と矢継ぎ早に命令をくだされると、あたりを見回してこうおっしゃいました。
「当面、移動はここまでにしよう。ジョージ卿を寝かせなければ」
まずご自分が、身軽に馬車を降りられました。そのままお嬢様に手をのべられましたので、お嬢様もジョージ様をお案じになりつつ、馬車から降りられました。わたくしはジョージ様に横になっていただくようお願いしましたが、ジョージ様は動こうとはなさりません。いささか途方に暮れておりますわたくしをよそに、馬車の外では殿下とお嬢様がお話をなさっておいでです。
「まだウィスターシャの領内ですね?」
「はい、エドマンド様」
「ジョージ卿を動かしてもかまわないかどうかは、医者の診断にまかせましょう。ご本人のお気もちはともかく、判断は信用なりません。ジョージ卿は、すぐに無理をなさるかたですからね」
「おっしゃる通りですわ」
「移動は控えた方がよいといわれ場合、できるだけ近くで休ませる必要があります。エルスペス、適当な民家を探させても?」
「もちろんです、エドマンド様」
殿下が目線を送られますと、近衛のかたが、委細承知という感じでかるく頭を下げ、即座に同僚の皆様のもとへ話をしに行かれました。殿下ご自身はと申しますと、馬車の方においでになりました。
「レディ・ウィスターシャを」
……これはわたくしへのご命令ですね? わたくしは慎ましく頭を下げ、畏れ多いことに殿下のお手を支えに馬車を降りました。これは礼儀作法としてどうなのでしょうか? しかし、殿下がお手を出してくださったものを無視するわけにも参りませんし、馬車を降りるのは着込んだスカートやペチコートやあれやこれやのせいで大変ですし、お嬢様のもとへ急ぐためにもお借りするのが最上の選択でございましょう。
お嬢様は、少し青ざめておいででした。わたくしが近寄りますと、お嬢様はほとんど無意識に、わたくしの手をおとりになりました。鉄の心臓を持つかと思っていたお嬢様に、こんなに繊細なところがおありとは! ですが、よく考えてみますれば、お嬢様はお母様を亡くされたばかり。ジョージ様は、一家を支える頼みの綱なのです。どんなにかご不安でしょう!
わたくしは、お嬢様のお手をぎゅっと握り返したのでした。メイドにできることなど、その程度でございます。
馬車に戻った殿下は、ジョージ様を「絶対に起きないように」と説得なさっています。馬車の中から足が突き出しています――王族の馬車とはいえ、人が寝転がるようにはできていないので、致し方のないことではございますが……見た目は異様な感じとしか申せません。
「交代します」
お嬢様がぽつりとおっしゃったので、なにを? とわたくしは思いました。それから、すぐに気がつきました。殿下と、です。仮にも王太子殿下に、怪我人の付き添い役をお願いしっぱなし、というわけには参りません。もちろん、お嬢様におまかせするわけにも参りません。
「わたくしが――」
「いいえ、わたくしがいたします」
きりりと表情を引き締め、お嬢様は馬車へ戻ろうとなさいました。
ですが、殿下がこうおっしゃるのが馬車の中から聞こえました。
「ジョージ卿がおとなしく横になっていてくだされば、我々は外を散歩でもなんでもできるのですよ。わかりますか、ジョージ卿」
「……」
ジョージ様がなにかお答えになったようで、殿下はこちらをふり向き、きらめくような笑顔でこう仰せになりました。
「おとなしくしてくださるそうです。観劇は無理そうですが、せめて一緒に時間を過ごさせてもらえませんか、エルスペス」
「わたくしは義父を置いてうろつくわけには参りません」
僭越ながら、わたくしは即座に申し上げました。
「わたくしがお付きしています、お嬢様」
「お黙り、スカーレット。わたくしがなにをするかは、わたくしが決めることです」
お嬢様のお声の冷たいこと……! お叱りを受けてようやく、わたくしは思いだしたのでございます。お嬢様は、王太子殿下とおふたりで散策などなさりたくはない、ということに。気の回しかたを、根本的に間違っておりました!
「申しわけありません、お嬢様」
お嬢様とわたくしのやりとりをご覧になって、なにを思われたのか――殿下は微笑みながら、ご提案なさいました。
「ジョージ卿の面倒なら、僕の部下がみます。それよりもエルスペス、あなたを放っておくわけにはいかない。それこそ、憤慨したジョージ卿が起き上がってしまう。我々は仲良く散策でもなんでもして、彼を安心させてあげねば。もちろん、スカーレットにも同行してもらわなければね」
そうして、殿下はわたくしをご覧になりました。わたくしときたら、うっかり殿下とまともに視線を合わせてしまい――もちろん、使用人たるもの慎ましく視線を下げているべきだったのです!――おのれの不調法さに呼吸が止まるかと思うほどでした。殿下に名前を呼ばれるとは思ってもおりませんでしたので、その時点で呼吸が止まっていてもおかしくはなかったくらいです。
お嬢様は、心底つまらなさそうにおっしゃいました。
「……残念ですけれど、たしかに義父にはそのようなところがありますわね。認めざるを得ませんわ」
殿下は笑みを深めてうなずかれました――たぶん。わたくし、今度はちゃんと視線を下げておきましたので!
少しだけお付きのかたと打ち合わせをされると、殿下はお嬢様をエスコートして散策に出向かれました。わたくしも、すぐ後ろからご一緒いたします。王都での観劇ではございませんし、変則的な状況です。メイドひとりでも付添人の条件を満たすといってもいいでしょう。殿下の部下のかたがたも、物陰から見守っていらっしゃるようです。厳つい男性に囲まれましては、お嬢様もお気が休まらないでしょうから、距離を置くのは当然のお心遣いかとは存じます。
あたりの景色は、なんの変哲もないものです。
とは申せ、緑の島で生まれて育ち、王国に来てからもずっと王都で過ごして参りましたわたくしには、この景色がとても懐かしく、せつなく感じられるのでした。遠くを移動する羊たちや、今にも雨が降りだしそうなほど不穏な色の雲。王国とは別の島と申しましても、ほど近くに浮かんでおりますので、景色にもかなり似通ったところがございます。
前を行く殿下とお嬢様は、なにを感じておいでなのでしょう?
「そういえば殿下」
「エドマンドと呼んでくれるように、お願いしたはずでは?」
「あら……いっそ、昔のようにお呼びしてもかまいませんこと?」
「昔?」
殿下は少し不思議そうに問い返されました。記憶にすぐれたと自称なさるほどでいらっしゃるにもかかわらず、お心当たりがないご様子。
お嬢様は殿下を見上げられると、これ以上はないというほど甘い声でお答えになりました。
「お兄様、と」
暫し、殿下は眼をしばたたいておいででした。それから、お嬢様を見下ろして微笑まれたのです。
「もちろん、かまわないよ。賢いエルシー」
「覚えていらっしゃいまして?」
「陛下が――この場合は、わたしの母がと表現すべきかな? まぁともかく――娘がほしいと駄々をこねられたときのことだったね、たしか」
「さすがですわ、お兄様」
「僕たち兄弟ではどうにもならなかったのに、君が場をおさめてくれたんだ。あのときは助かったよ」
「恩に着てくださるのであれば、わたくしを放っておいてくださいな」
「それはできないな。こんな場所で君をひとりにするなんて、とんでもないことだ」
お嬢様は、顔をしかめてお答えになりました。
「もう! そういうところですわよ、お兄様。わかっていらっしゃるんでしょう、わたくしがなにを申し上げているのか!」
わたくしには通じるお嬢様のお考えは、殿下にはまったく伝わっていないようです。
「いや、全然」
「陛下のお申し付けでしょう? しつこいお誘い。盾になって、かばってくださいませ。わたくしのことは、捨て置いていただきたいのです」
「ああ、そのことか。悪いが、暫くは我慢した方がいいと思うよ」
「どうしてですの?」
「僕が断ったらどうなると思う?」
「どう、って……」
「次はアルバートが来る。アルバートよりは、僕と時間をつぶした方がいいんじゃないか?」
アルバート様とは、例の第二王子殿下でいらっしゃいます。遊び人です。お嬢様の扇の先端とお近づきになる機会が多いかたです。
「どうかしら。アルバート様でしたら門前払いを食わせることもできますけれど、お兄様にはできませんもの」
「はは、三回も断っておいて、それはないんじゃないかな」
王太子殿下は声をあげて笑っておいでです。たしかに、お言葉通りです。
ですが、お嬢様は一本とられたというご様子をお見せにはなりませんでした。それどころか、まったく違う話を持ち出されたのです。
「それよりお兄様、リリベル様とはどうなってますの?」
「どう、とは?」
なんだかおふたりで交互に、同じような返しをなさっておいでです。実は似た者同士でいらっしゃるのではないでしょうか。
……とは申せ、今回はお嬢様がよろしくありません。もうちょっと説明なさらないと、殿下にはわからなくても当然でしょう。
「わたくし、確とこの目に焼き付けましたのよ。公営社交場でリリベル様をエスコートなさってたのを」
「公営? ……ずいぶん前の話じゃないか?」
「わたくしにとっては、つい最近の萌えですのよ」
「ん? 萌え?」
「ほんとうにもう、おばさまが余分なことをなさるせいで、最近! なにもなくて!」
「……ごめんエルスペス、君がなんの話をしているのか、さっぱりわからない」
わたくしには痛いほどわかりますが、殿下にはわからないままでいていただきたく存じます。
「とにかく! リリベル様に誤解されますわよ、わたくしなどの相手をなさっては」
「そういわれてもね……エルシーがいっているのは、リリベル・エクスタシア嬢のことだよね?」
「ほかにどんなリリベル様がいらして?」
「何人かいるよ」
殿下は真顔でいらっしゃるようです。わたくしの位置からですと、あまりお顔がきちんと拝見できるわけではございませんが……たぶんそうです。
「何人か? まぁ、破廉恥ね!」
「なにが?」
……殿下とお嬢様の会話が絶妙に噛み合っておりません! わたくし、はらはらいたします……『降ってきた』わけでもないのに、こんなにはらはらするなんて。宮廷のお茶会での緊張を上回ったかもしれません。
「何人もの女性とおつきあいなさるなんて、ということよ」
「それは勘違いだ、エルシー。僕は誰ともつきあっていない。リリベルという名前の女性には心当たりが複数あるが、その誰とも、挨拶以外の交際はしていないよ」
「……がっかりですわ。お兄様は、禁断の恋に身を委ねてみたいと思われたこと、ありませんの? ……自分で訊いておいてなんですけど、お兄様はそういうの、なさそう……」
高速で自己完結なさったお嬢様は、見るも無残な萎れようです。それをご覧になって、なにを思われたのでしょうか。殿下は、なぜか楽しげにお答えになりました。
「あるかないかでいえば、あるけどね」
キャラクター紹介:エドマンド(第一王子・王太子)
プリンス・オブ・バーラム(バーラム公)そのほか省略、22歳独身。
金髪碧眼の優等生王子様。 母親(女王)に逆らうとめんどくさいことを知悉しているので、表面上はハイハイ従っている。 つまり先のことを考えて行動するタイプだが、たまに、なにもかも面倒くさくなる。大変そう。