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人生台無しにするような恋がほしいの!(後編)

 やがて、陛下が会話を再開なさいました。

「クロウタスグリのパイはね、フランシスに出したことがあるの……あのひとったら、『わたくしの庭にも珍しいものがございますのよ』なんて、張り合っちゃって」

 ふふ、とお笑いになる陛下は、それは楽しそうでいらっしゃいます。お嬢様も、ほほほ、と声をあわせられました。

「いかにも母らしいですわ」

「……フランシスがいなくなって、ほんとうに寂しいわ」

 そうつぶやいて、不意に陛下がほろりと涙をこぼされました。

「おばさま……」

「最低限の服喪の期間が明けたからといって、すぐに招いたこと……許してくれる? わたくし、寂しくて寂しくて、しかたがないの」

 先代様が亡くなられて半年、お嬢様は喪に服していらっしゃいました。お召し物も黒ばかりです。最近になってようやく喪が明けたのですが(それで「面倒だけれど社交界にも顔を出さなければならないわ。最初は黒いドレスからね」と黒を身につけられた結果、〈黒薔薇の君〉と讃えられることになったのです)、今日も、王宮に伺うにしては装飾も控えめの黒いお召し物をお選びしたのは、そのようなご事情を反映してのこと。

「許すも許さないもございませんわ」

「わたくしときたら、あなたが黒い服を纏うのさえ羨ましいのよ! わたくしだって、フランシスに哀悼の意を表したいわ。でも、特別扱いなさいませんようにといわれると、跳ね除けられないのよ……。自分の着るものさえ、ままならないの。わたくしは、女王なのに!」

 お嬢様はその身を前にかたむけ、陛下のお顔を覗き込まれるようになさいました。

「お召し物のお色がどうであろうと、おばさまのお気もちは、きっと母に伝わっております」

「……ごめんなさいね、娘のあなたの方がずっと寂しいでしょうに、わたくしがこんな弱音を吐いてはいけないと思うのだけれど」

 わたくしの知る限り、お母上のご逝去を聞かれたときのお嬢様のご反応は、あらやだ、面倒くさい、しかたないわね、といったところでしたが……さすがのお嬢様も、今は陛下に合わせようと思われたご様子。

「どうぞお気遣いなく。わたくしが母の娘でいた時間より、おばさまがお友だちでいてくださった時間の方が、ずっと長いのですもの。そのように惜しんでくださるなど、母にとっても光栄なことですわ……ですけれど、おばさま。そんな風に泣いておいでになると、きっと母に叱られますわよ。母って、そういうひとでしたでしょう?」

 陛下は優雅な仕草で涙をぬぐわれました。

「そうね。フランシスは、わたくしが女王であることを尊んでくれたわ。わたくしがわたくしであることも、生まれながらに女王になるとさだめられていたことも……すべて含めてわたくしであると、納得させてくれたの。フランシスこそ、わたくしの第一の騎士だったわ」

 実に感動的なお言葉ですが、このとき、わたくし少々考えがおかしくなっておりました。

 わたくしの頭の中では、先代様(お会いしたことはございませんが、肖像画でお顔は存じ上げております。もちろん、お嬢様似のたいへんな美形でいらっしゃいます)が、陛下の前に跪いておいでです。その手をとって、甲にくちづけを……実に絵になる光景です。

 まずいです。わたくし、お嬢様に毒されつつあるのではないでしょうか? ……誰かに知られたら最悪です。知られなくても駄目です。なにを考えているの、スカーレット! 今すぐおやめなさい!

「母は貴公子に生まれていればよかったのですわ」

 頭の中の先代様がドレスを脱ぎ捨て、男装の麗人へと華麗なる変身を遂げられました。率直に申しまして、猛烈にかっこよくていらっしゃいます。

「そうね……あら、でもそうしたらフランシスは爵位を継げなかったわね。ウィスターシャは女伯爵家だもの」

 わたくしもお嬢様が帰国なさることになったときに知ったのですが、ウィスターシャは女性でなければ爵位を継げない、女系伯爵家なのだそうです。特別に王家の思し召しをいただいた家にのみ下される爵位で、非常に稀な存在だそうです(わたくし思いますに、お嬢様がご結婚相手をお探しになるのにあまりご熱心でいらっしゃらないのは、ご自分でご資産も爵位もお持ちのお立場だからではないかと存じます。もちろん、後継を残さねばならないのはよそのお家と同じではあります。ですけれど、結婚相手の如何によっては人生終了とまでいわれる、よそのご令嬢とはご事情が違うことは明白です)。

「おばさまと爵位のどちらをとるかと迫られたら、もちろん母はおばさまを取ったでしょう」

 お嬢様、火に油をそそがないでください……やめてください! お願いです!

「やさしいのね、エルシー」

 エルシー! お嬢様をエルシーとお呼びになるかたに、はじめて遭遇いたしました。この衝撃で、妄想よ! 消えてくださいお願いします。

「まぁ、そんな風にいってくださるおばさまこそ、とてもおやさしいのですわ。やさしいなんて、わたくしとは縁のない言葉ですのに」

「世の中の男は見る目がないわね……いつも思うのだけれど。まだ婚約はととのわないの?」

 陛下がいきなり踏み込んでおいでになりました。際どい話題です。わたくし、最近わかってきたのですが……お嬢様はご自分のご縁談の話をされるのが、ことのほかお嫌いなのです。

「世の男どもにわたくしを見る目があるかはわかりませんけれど、わたくしは男を見る目がございますのよ、おばさま」

 さらりと返されたお嬢様に、まぁ、と陛下は眼をまるくされました。

「それは知らなかったわ。……見る目があるあなたに、ちょっと教えてほしいのだけれど。わたくしの息子たちはどうかしら? あなたの結婚相手として」

 わたくしは絶叫したくなりました。もはや自分の妄想がどうこういっていられる状況ではございません。あらゆる方向で、まずい話題です。お嬢様が変なことを口走りそうになったら、昏倒してでもお止めする必要がございます。

「まぁ、おばさま。ふふ……殿下とわたくしですか? 似合わないと思いますわ」

「なぜ?」

 お嬢様は楽しげに眼をしばたたかれました。ほんとうに楽しんでいらっしゃるかどうかは、ああ、わたくしなどが知り得ることではございません。

「まず、王太子殿下。とてもよくできたかたでいらっしゃいます。常識的ですわね? ですから、定石といえるご結婚をなさるのがよろしいでしょう。必要なのは、国内外を黙らせるにたる縁組……ですわ。わたくしでは、その条件にかないません」

 つづけてちょうだい、といわんばかりに陛下は手を動かされました。なぜあれで伝わるのか、わたくしにはよく理解ができませんが、確かに意味は明白です――つづけなさい、ということです。

 もちろん、それがわからないお嬢様ではいらっしゃいません。

「末の殿下は、まだお若くていらっしゃいます。殿下にしてみれば、わたくしなど口の減らない年増、といったところでございましょう。末の殿下には、ご年齢相応のお相手をお探しすべきですわ。わたくしでは、似合いません。ね、おばさま、おわかりいただけまして?」

「もうひとり、いるでしょう」

「ああ、あれは論外ですわ」

 王子殿下を……『あれ』呼ばわり! それも、陛下の御前で!

「エルシーなら、あれの性根を叩き直せるのではないかと思うのだけれど?」

 性根がやばいことは、陛下もご存じのご様子……。それにしても、陛下も『あれ』呼ばわり……。僭越なのは重々承知しておりますが、第二王子殿下が少しばかり不憫になって参りました。

「まぁ、おばさまったら。もちろん、できるかできないかで申しますれば、できると思いますわ。ですけれど、やりたいかやりたくないかで申しますれば、それはもう間違いなく、毛の一筋ほども、なぁんにも! いたしたくはございませんわね、あのかたのためには!」

 失礼きわまりないことを、お嬢様は正々堂々と断言なさいました。さすがお嬢様。聞いているわたくしは、震え上がるどころの騒ぎではございません。もはや見ていることさえ難しく、視線は完全に足元です。この絨毯、とても綺麗ですわね……。

「残念ね。あの子も、あなたになら真面目に好意を持てると思うのだけれど」

 陛下……その殿下は、しつこい女と別れるために婚約者のふりをしてよ、とお嬢様にご提案なさったのですよ? 百万が一、照れ臭くてつきあおうといいだせないから理屈を探していた、のだとしても、最悪です。あり得ません。

「おばさま、わたくしは思うのです。殿下は秋の果樹園をそぞろ歩いておいでのおつもりなのではないかしら、と。あるいは、このテーブルに並んだパイのようなものでしょうか。あちらには林檎、こちらには梨。かなたには葡萄……いくらでも、美味しい果実がございます。殿下にとって、女性とはそのようなものなのですわ。だとしたら、わたくし、殿下のお目にはとまらないクロウタスグリでいとう存じます。いつまでも熟しきらないとお考えいただきたいですわ。それに、クロウタスグリでしたら、おばさまのお庭に生えることも許していただけるでしょう?」

 暫し、陛下は無言でいらっしゃいました。が、やがて悪戯な少女のように微笑んで、こう仰せになったのです。

「パイにして食べてしまうかもしれなくってよ?」

「陛下の御ためでしたら、わたくし、本望です。きっと、亡き母も誇りに思ってくれますわ」

 きっぱりといいきったお嬢様を、陛下はつくづく感心したという風にご覧になりました。

「わたくしも、あなたのような娘がほしかったわ」

「それも、母は誇りに思うはずですわ」

「クロウタスグリといえばね、トライヤでそのパイをいただいたとき、フランシスも一緒だったの。聞いたことはある?」

「いいえ、初耳ですわ」

「終わってからね……フランシスにいわれたわ。『あの男、あなたを狙っているのよ』と」

「……まぁ」

 お嬢様の声が、少しだけ低くなりました。わたくしは、はっとしました。これは……これはまずいのでは?

「フランシスがいうにはね、そのパイには『クロウタスグリのように、ほかとは違う稀なるあなた』という意味がこめられていたのですって。会話の端々から解釈すると、そうなるのだと教えられたわ……ほら、なにしろトライヤでしょう? 古典からの引用を使っていたのよ。フランシスはわたくしより文人風のやりとりに慣れていたから、すぐに気づいたのだけれど……わたくしは察しが悪くて」

「まぁ、なんて趣深いお話でしょう」

 お嬢様の眼が……星空に喩えられるあの眼が、きらきらです。

 わたくしには、わかりました。今、お嬢様は……若かりし日の陛下と、名前もわからない領主の弟君とのあいだに、燃え上がるような恋を妄想しはじめたところです。絶対そうです。

「察したところで、どうにもならなかったと思うけれど。わたくし、あのかたについて好ましいと感じたのは、お顔だけだったの。それと、抱えている料理人の腕前ね」

 お嬢様の眼から光が失われました。陛下、ありがとうございます! 最高です!

 つづけて、陛下はため息とともにこう仰せになりました。

「トライヤの男は駄目よ。いうことが高尚で、遠回しで。それで主張したいことがなにかといえば、『どうだ俺は凄いだろう!』……これだけ。貴族らしいといえば、そうなのかもしれないけれど。自慢話と迂遠な話法には、わたくし、飽き飽きだわ。そうそう、迂遠といえばねぇ……今日、案内を頼んだセシリー。彼女の従姉妹がいるでしょう?」

「どのお従姉妹様でいらっしゃいますかしら」

「ほら、癖っ毛の。あの子が、なにをいっているかわからなくて、困るのよ」

 ここからが、愚痴大会でした。話題が完全に変わったことでほっとしましたが、女王陛下が確かに愚痴っぽくていらっしゃること、陛下ほどのやんごとないご身分でも愚痴の種は尽きないことなどなどを、わたくしも知ることになりました。お嬢様もそこからは比較的おとなしく、まぁ、そうですの、お大変ですわね、お察ししますわを駆使なさり、お茶会はとどこおりなく終わりました。陛下はまだお話しになりたそうでしたが、怖いお顔をなさった侍従がやって来て、お時間ですと重々しく宣告されたことで、諦められたようでした。

 わたくしが本日学んだこと、それは陛下は迂遠な話を理解するのは面倒だから放置しがち、結果ややこしいことになる場合がある、第二王子殿下に問題があることは把握なさっている、エルスペスお嬢様なら性根を叩き直せると思っておいでになる、おそらくお茶会の本題はこれだった……などなどです。それと、トライヤの領主は背丈を気にする余り、厚底の靴を履いていらっしゃる……も、追加しておきましょう。

 天井の高い廊下を歩きながら、お嬢様は大きなため息をつかれました。

「思った通り、時間の無駄だったわ」

「お嬢様」

「だってそうでしょう。恋の話なんて、なにもなかったじゃない」

 わたくしは小声でお嬢様を諌めました。

「クロウタスグリにこと寄せた、陛下の恋のお話を伺えたではありませんか」

「あんな一方的なの! おばさまは、なんにも感心していなかったじゃないの。むしろ、面倒そうだったし」

 確かにそうでした。お嬢様も、それで眼の光を失ってしまわれたわけですし……。

「でも、恋の話が『なかった』とまでは申せませんでしょう。それにほら、親身にお聞きになるとおっしゃっていた、殿下のご結婚相手についてもお話があったではございませんか」

 お嬢様の表情がけわしくなりました。ああ、どうしましょう。これはお嬢様のお嫌いな、ご自分のご縁談話でした! お静かにしていただこうとするあまり、迂闊な話題を……!

「わからない子ね、スカーレット。貴族の結婚は愛でも恋でもないわ。力関係を調整するための機構に過ぎないの。わたくしは、そんなものでは楽しめません。わたくしが望んでいるのは、利害の調停なんかじゃない。燃え上がるような恋よ! 王族でも貴族でも知ったことじゃないわ。人生台無しにするような、そんな強烈な恋が、ほしいの!」

 お声が大きいです! 王宮でこのようなご発言、それこそ人生台無しになりかねません!

 そこへ、横合いから声がかかりました。

「恋も愛も知らないくせに、なにをいってるんだか」

 出ました! 第二王子殿下です。もうお顔を見分けることが可能になってしまいました。今回は、殿下が殿下にあらせられることを存じておりますので、お嬢様とのあいだに立ちはだかるわけにも参りません。それでももし、殿下が不埒なおこないに及ぶようであれば、なんとかせねばなりません。女の力でできることには限りがございますので、助けを呼ぶのがいちばんでしょう。ですが、呼んだ相手も殿下には逆らえない可能性がございます。どうするのが最良でしょうか?

 わたくしが困難な問題に頭を悩ませているかたわら、お嬢様は扇で風をつくりながらおっしゃいました。

「殿下が恋だの愛だのと思いこんでいらっしゃるものが真実そうだと、誰がいえるでしょう? わたくしが拝見したところ、殿下のは恋でも愛でもない、ただの欲。あなたがもてあそんでおいでなのは恋ではなく肉欲、愛ではなく征服欲ではありませんの?」

 お……お嬢様!?

 これはさすがに聞き流せないでしょう。殿下の眉間に険しい皺が寄りました。

「レディ・ウィスターシャ。僕を侮辱するのか」

「お言葉ですわね。あなたが先に、わたくしを侮辱なさいましたのよ。恋も愛も知らないなどと」

「それは――」

 正論と同時に閉じた扇を突きつけられ、殿下は言葉を失われたようでした。よくよく、お嬢様の扇の先端とお近づきになる機会に恵まれたかたです。

「残念ですけれど、殿下。わたくし、あなた様よりよほど存じておりますの。恋でも、愛でも。なにかわからないことがおありでしたら、ご相談に乗ってさしあげてもよろしくってよ。でも、あなたがそんなことをお認めになるはずがないわね。ご自分は達人のおつもりでいらっしゃるでしょうから! なんて滑稽で、哀しいことかしら」

 殿下は口をぱくぱくなさっています。水から揚げられた魚のようです。

 お嬢様はといえば、涼しい表情で扇を下げられ、殿下に向かって優美に一礼なさいました。

「では、ごきげんよう。行くわよ、スカーレット」

「はい、お嬢様」

 ……無駄に敵を作っておいでのようではありますが、一国の王子を相手に、ここまでかっこよく立ち回れるご令嬢が、お嬢様のほかにいらっしゃるでしょうか?



     *   *   *



 お屋敷に戻る馬車の中で、お嬢様は大きなため息をつかれました。

「あの殿下がねぇ……もうちょっとクズでなければ、いくらでもご令嬢との噂話で考えられるのだけれど」

 なにを考えられるかについては、問わないことにいたしとう存じます。

「クズは、お言葉が過ぎるかと……」

「女と別れるのに別の女を使おうとするのよ? クズに決まっているじゃないの。お相手には事欠かないけれど、あれじゃあねぇ……立ちはだかる壁になる気が起きないわ。正直いって、おばさまよりさらに実りがない会話しかできない相手よね」

 お嬢様はたいへん辛辣でいらっしゃいました。ですが、よくよく考えるとお嬢様もお嬢様です。実りある会話になるかどうかの基準が、いい感じのお話を思いつけそうかどうか、に集約されてしまっています。

「とにかく、家に帰ったらわたくしのペンとインクが大忙しよ……」

 お嬢様は物憂げにそうつぶやかれました。

「なにか降ってきたのですか?」

 わたくしの問いに、お嬢様は力なく答えられたのです。

「そうじゃないの……そっちは全然よ。おばさまだし、殿下だもの。スカーレット、今日誰かこれはと思う殿方はいなかった?」

「いえ……」

 本日、印象に残っている男性といえば、目が合ったけど合っただけで役に立たなかった衛兵、でございます。これじゃない、としか思えません。

 お嬢様は、さらに力なくつぶやかれました。

「わたくしのペンとインクは、こんなことのためにあるのではないのよ……。でも、殿下の真似をするなら早く動かなければいけないわ。保留していた招待状の返事も書くべきだし、ひょっとすると、うちでも夜会を催す必要があるかもしれないわ」

 殿下? どの殿下でしょう……。お会いしたことがあるのは第二王子殿下だけですが、よりによって、あの殿下をお嬢様が真似ようと思われるはずがございません。

 ああ面倒だわ、と顔をしかめるお嬢様が、なにを考えておいでなのか。わたくしには、さっぱり理解ができませんでした――翌日、クロウタスグリのパイが王宮から届くまでは。

 ホーキンスさんが恭しく捧げたメッセージ・カードを、お嬢様は嫌そうにご覧になりました。そして、おっしゃったのです。

「王太子殿下から……『ようやく手の届くところまで戻ってきてくださった、貴女に』ですって。陛下の差し金で間違いないけれど、勘弁してほしいわ。おとなしくリリベルといちゃついていてくださればいいのに! でないと、わたくしの妄想が水の泡よ!」

「お嬢様」

 ホーキンスさんとわたくしは、声を揃えてお嬢様をお諌めしました。

 お嬢様にとって、これが望まざる婚約への助走……であることは、火を見るよりあきらかです。あのようなお話を伺った以上、クロウタスグリのパイの意味を間違いようがないのです。相手は王室。しかも陛下のご意向を反映させていることは、あきらか。簡単に嫌だの駄目だのは申せません。

「ああもう、陛下にやられたわ。でも、わたくしは納得できません。そもそも、お母様がご存命のあいだに縁組をととのえろっていう話ではなくって? お母様が亡くなるまで話がなかったということは、お母様は反対でいらしたということ。大の親友を自認なさるなら、お母様が亡くなっても、その意思を尊重していただきたいものだわ」

 お嬢様は室内をうろうろと歩いていらっしゃいましたが、不意に足を止め、きりりと引き締めた表情でわたくしたちをご覧になりました。

「やられっぱなしで終わるものですか。早いところ誰かと婚約する素振りだけでも見せないと、外堀から埋められてしまいかねない……。ホーキンス、いくらか話が来ていたはずよね。整理して持ってきてちょうだい」

「かしこまりました」

「スカーレット!」

「はい、お嬢様」

「あなたはメイドたちから恋の話を集めてきて! わたくし……わたくし、誰かの新鮮で純粋な恋の話を聞かなければ死んでしまうわ!」

 なお、クロウタスグリのパイは、お嬢様のお口には合わなかったようでした。


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