人生台無しにするような恋がほしいの!(前編)
「スカーレット! スカーレット!」
お嬢様の声に、わたくしは作業――額縁磨きです――を中断し、お部屋へ向かいました。
「はい、お嬢様」
「急な話なのだけれど、陛下からご招待をいただいたの」
陛下? と返しそうになるのをどうにか堪え、わたくしはお返事いたしました。
「はい、お嬢様」
「身体が空いたから来なさい、ですって。陛下はわたくしをなんだと思っていらっしゃるのかしら! わたくしだって忙しいのに」
どうお忙しいかは、もちろん存じております。なにしろ、先ほど叫ばれたばかりです――降ってきたわ! と。それで、しばらくはお呼びもかからないだろうと作業をはじめたのですが、まさかの展開でございます。陛下のお招きとあれば、どう考えても『降ってきた』を後回しにする以外、ございません。それにしても……陛下とは!
ホーキンスさんが、トレイを構えて待っていらっしゃるのと視線が合いました。今すぐですか、という意味をこめてわたくしがわずかに首をかしげますと、ホーキンスさんは厳しい表情でうなずかれました。
そのあいだに、お嬢様は陛下へのお返事を書き上げられたようです。紋章の入った封筒に封緘をほどこされますと、お嬢様はそれをトレイにお載せになりました。
「わたくしのペンとインクは、陛下に無難なお返事を書くために準備したわけではないのよ……」
存じております。『降ってきた』のためです。ですが、善き臣民としてこの発言は、如何なものでしょうか? ホーキンスさんが、控えめに咳払いをなさいました。
「お嬢様」
「心得ているわ。陛下の愚痴におつきあいする前の、空気抜きよ。どうせ、ぱんぱんに膨れ上がるまで訴えられるに決まっているんですもの! 今あるものは、すべて出しておかなくてはね。スカーレット、わたくしのドレスを選んでくれない? 非公式のお茶会だけれど、王宮に伺うから……ある程度の格式はほしいわ」
「かしこまりました、お嬢様」
「では、こちらの書状は使いの者に」
わたくしは衣装部屋へ、ホーキンスさんは陛下への返信を運ぶために待っている使者のもとへ、それぞれの職務を果たすべく移動したのでした。
お嬢様はといえば、もう駄目、消えてしまったわ、呪われているのよ……と低い声でつぶやいておいででした。かなり異様な雰囲気を醸し出していらっしゃると申せましょう。お嬢様を〈黒薔薇の君〉と讃えている皆様がご覧になったら、どのように思われるでしょうか。どなたのお目にもとまらずに済むよう、祈るばかりでございます。
* * *
非公式のお茶会ということで、わたくしもお嬢様のお供をして宮殿に上がることになりました。正直に申しまして、生きた心地がいたしません。
「スカーレット、震え上がっているようね?」
お嬢様は扇で口を隠しておいでです。おそらく、扇の向こうにあるかたち良いくちびるは、きゅうっと弧を描いていることでしょう。お嬢様には、そういうところがおありです。
「はい、お嬢様」
「なにも怖いことはなくってよ。陛下は、わたくしのお母様の親友でいらしたの。はっきりいうと、崇拝者だったのよ」
崇拝者? と訊き返したかったのですが、わたくしに許されるおこないではございません。
「はい、お嬢様」
「あなたはハドリアで雇ったから、母には会ったことがないのよねぇ……」
「はい、お嬢様」
非常に早口にわたくしの身の上をご説明いたしますと、わたくしは当国では未開の蛮地と揶揄されることも多い、緑の島の出身でございます。故郷は深刻な飢饉に見舞われ、多くの民が土地を捨てて海を渡りました。わたくしと家族は無事に大陸に着いたのですが、その後の混乱で一家離散の憂き目に遭い、まぁなんだかんだございまして、ちょうど大陸遊学中でいらしたお嬢様に拾っていただいたのでございます。
そうなったのも、お嬢様付きメイドに欠員が出ていたからなのですが、わたくしの先任にあたるメイドが辞めた理由というのが、どこぞのお坊っちゃまとの駆け落ちだとかで。採用面接のときは、メイドが駆け落ちしたにもかかわらず平然としていらっしゃるお嬢様にびっくりしましたが、今でしたらわかります。どうせ、お嬢様に『降ってきた』のです。メイドとお坊っちゃまの恋心を、超えられない壁としてこう……ご本人は、ふたりのあいだに立ちはだかって恋情を燃え上がらせるおつもりだったのでしょうが、その道を追求なさるあまり、そうはさせじと止めにかかったお坊っちゃまのご家族に対しての壁となられたのではないでしょうか?
なお、ホーキンスさんに伺ったところによれば、お嬢様のご援助もあり、おふたりは今も幸せに暮らしておいでだそうです。たいへん喜ばしいことと存じます。
さらにつけくわえますと、わたくしの採用の決め手になりましたのは、この赤毛です。素晴らしいわ、情熱的だわ、おまえに決めたわ! と叫ばれたのを、わたくしは生涯忘れることはないでしょう。それまでの人生、赤毛で得をしたことはなかったのですが、そのときばかりは思いました。赤毛でよかった、と。
お仕えするにあたり、名前もあらためました。スカーレットは、お嬢様がわたくしにくださった名前です。一生涯、たいせつにしようと思っております。
ともあれ、お嬢様のお母上にあたる、レディ・フランシス・オブ・ウィスターシャが急に身罷られたため、ひとり娘でいらっしゃるお嬢様は大陸遊学を切り上げられ、急遽、本国に戻られたという次第です。お嬢様は帰国ですが、わたくしは初入国です。慣れないことばかりでございますが、お嬢様にはご迷惑をおかけしないよう、精一杯つとめております。
そのお嬢様は、廊下を歩きながら小声でおっしゃいました。
「陛下はとても良いかたなのだけど、愚痴っぽくて」
ここは、迂闊に『はい、お嬢様』とお返事するには危険なところでしょう。わたくしは無言をつらぬきました。
「ねぇスカーレット、どうせなら恋愛問題の愚痴が聞きたいと思わない?」
まったく思いません。むしろ危険です。お嬢様が陛下の御前で『降ってきた』と叫ばれたら、わたくしは如何いたせばよろしいのでしょうか?
ですが、お嬢様は楽しげに言葉をつづけられました。
「ほら、陛下のお子様がたの恋の相談とか。そういうのだったら、わたくし、ほんとうに親身になって聞いてさしあげる自信があってよ」
それ以外のことでも、親身に聞いてさしあげた方がよいのではないでしょうか。
話題は是非とも、それ以外の方向であってほしいです。そうでなくては、わたくし……どうすれば? 陛下のお子様がた、すなわち殿下の色恋沙汰に興奮して『降ってきた』になるお嬢様に、どう対応すればよいのでしょう。ホーキンスさんに、もっと具体的な指示を仰いでおくべきでした。ただでさえ、はじめての宮殿に震え上がっておりますのに……なにも気にしなくていいのよとお嬢様は仰せですが、わたくしはなにもかも気になります。
天井が高い! 柱が太い! これでもかというほど彫刻がある! 風が通り抜けてむっちゃ寒い! すれ違う人が全員怖く思える! さっき一瞬、第二王子殿下っぽい人をお庭の向こうに見かけた気がする! なにもかもやばい! ……と、このような感じでございます。
いつも通りのお嬢様と震え上がっているわたくしを案内してくださっていた貴婦人が、遂に足をお止めになりました。
「こちらでお待ちです」
「ありがとうございます、公爵夫人。お手数をおかけしました」
公爵夫人ですよ、公爵夫人……。はじめて見ました。お嬢様より少しお背丈は低くていらっしゃるでしょうか。お歳の頃は、お嬢様の二倍より多くかさねておいでのように拝見します。薄い色の髪を綺麗に結い上げた夫人は、その目元をわずかにゆるめ、親愛の情をこめた笑顔を浮かべてお嬢様をご覧になりました。
「とんでもない。あなたのような可愛いひとを案内する仕事なら、いつでも喜んで引き受けるわ」
「できるだけご面倒をおかけしないよう、おばさまに申し上げておきますわ」
夫人は扇で口をお隠しになると、ふふふ、と可憐な笑い声をあげられました。
「陛下を『おばさま』と呼べるのなんて、あなたくらいのものよ」
すると、お嬢様は婉然と微笑まれました。
「あら、陛下がそう呼ぶようにとおっしゃったんですもの。逆らえるはずがないでしょう? では、失礼いたします。おいで、スカーレット」
「はい、お嬢様」
もう少しで変な声が出るところでした。わたくしの存在など無視していただきとう存じます……勝手について参ります……おお、天井が高い……柱が太い……。扉が巨大過ぎて、どこから開くのかわかりません!
あっ、そこが中央でございましたか……という場所が重々しく左右に開き、彫像なのか生きているのかわかりづらい衛兵のかたがたが、お嬢様に一礼なさいました。生きてました。
「エルスペス・オブ・ウィスターシャ、お召しと伺い参上つかまつりました」
なめらかな天鵞絨の声で、まったく臆するところなく朗々とお名乗りあそばしたお嬢様に、室内から応じる声。
「待っていたわ、エルスペス」
これが陛下の玉声でしょうか? わたくし風情がこれほど間近にお聞きしてよいものなのでしょうか。というか、室内に入ってもかまわないのですか? 確認しておけばよかったです!
わたくしは、死に物狂いで衛兵の視線をとらえました。生きているとわかったのですから、協力していただきます。これほど陛下のお近くにお仕えしているのですから、このかたがたも実は凄いご身分なのかもしれませんが、考えたら負けです。精一杯の目顔で問います。わたくし、入室すべきですか?
衛兵はまったく表情を変えません。視線は合ったが、合っただけ、という感じです。使えません!
そこへお嬢様の声が響きました。
「今日は、新しいメイドを連れて来ましたのよ」
……お嬢様! これで入室すべきであることが、はっきりしました。ああ、お嬢様! スカーレット、一生ついて参ります!
「前のメイドのことは聞きましたよ」
「もっと詳しくお話しするのもやぶさかではございませんわ。ですけれど、まずは新しいメイドをご紹介しますわね。おばさまに御目文字させようと思って連れて来たのですもの。おいで、スカーレット」
……着いて参りますが、陛下に御目文字? えっなんですかそれ初耳でございます。えっ?
お嬢様に呼ばれるまま前に進んだわたくしの背後で、巨大な扉は重々しく閉じてしまいました。もう戻れません。
室内は白――いいえ、ごくうっすらと微妙な淡紅色に統一されておりました。繊細な細工の家具はもちろん、巨大な窓枠、カーテン、壁紙、絨毯、シャンデリアもすべてです。まだ昼ですからシャンデリアには火が灯っておりませんが、わずかに紅をさした乳白色の硝子のシャンデリアは、筆舌に尽くしがたい美しさで部屋をいろどっておりました。名のある硝子工房の作品に違いありません。今は日差しを反射して、光のつぶをちらちらと部屋に鏤めています。
中央のテーブル近くに座っていらっしゃるのが、女王陛下にあらせられるのでしょう。わたくしは、とっさに視線を低くしました――まじまじとお顔を拝見するわけには参りません。
女王陛下そのひとと思しき女性は、玉虫色のドレスをお召しになっておいででした。一見すると地味な灰色なのですが、襞のひとつ、皺の角度で緑や青、紫の色が浮かび上がる趣向です。この艶。皺のつきかた……最上級の絹に違いありません。昼のこととて宝飾品は控えめですが、そっと飾られたレースの繊細なこと! まるで蜘蛛の糸のような繊細さです。
陛下お付きのメイドと思しき女性が、お茶のワゴンとともに傍に控えています。わたくしも彼女に並びたいです。切実に、そうしたいです。
が、お嬢様がそれを許してくださるのは、少なくとも今ではなさそうでした。
「ハドリアで拾いましたの」
ほとんど反射的に、わたくしは膝を屈めてお辞儀しました。このまま消え去りとう存じます。
「メイドが昏倒しそうですよ」
陛下のお言葉は、たいへんお情け深いものでした。まさに。昏倒しそうでございます。
「昏倒するなら、ここが国でいちばん安全な場所ではありませんこと? 偉大なる女王陛下の庇護下なのですもの」
お嬢様……その理屈は如何なものでしょう? このような場所に来なければ、メイドの意識も呼吸も安泰なのですよ!
「どうせ事情も含めずに連れて来たのでしょう」
顔を上げなさいと命じられれば逆らうすべもなく。姿勢を戻したわたくしの眼に入ったのは、こちらをご覧になっている陛下のおやさしいお顔でした。陛下は、あろうことか、その……わたくし風情に向かって微笑まれました! それも共犯者めいた笑みです。困った子よね、という感じの!
いやっ、非常に光栄なことではございますが、わたくし、陛下の前でこのように……突っ立っているのはまずいのでは? えっどうすればよろしいのですか、お嬢様! いっそ昏倒する方が賢明なのでは……。
「スカーレットはとても勇敢なの。先日など、不意にわたくしに声をかけてきた男がいたのだけれど、即座にわたくしとその男のあいだに立ちはだかってくれたのよ」
「あら、素敵ね。惚れてしまいそうだわ」
昏倒できない流れでございます。
「でしょう?」
そう応じながら、お嬢様は椅子におかけになりました。お嬢様、わたくしはどうしたら! 助けを求めて視線をさまよわせると、陛下のメイドと目が合いました。こっちよ、という顔でご自分の横に視線を動かすという高等技能を披露してくださり、わたくし感謝感激です。居場所を得るのは重要なことでございます!
わたくしがしかるべき位置へ移動しているあいだにも、会話はつづいております。
「それで、その不埒な男はどうなったの?」
話題が不穏です。わたくしの記憶がたしかなら、不意に声をかけてきた男というのは、遊び人で通っている第二王子殿下でいらっしゃいます。
ですが、お嬢様はいつものように余裕の笑み。
「女遊びにうつつを抜かしている輩でしたの。相応の扱いをしてさしあげましたわ」
「そう。それは胸がすくこと」
あなた様のお子様でいらっしゃいますが!
お嬢様は楽しそうに笑っておいでです。つねづね思っておりますが、お嬢様の心臓は鋼鉄の鎧を纏っているのではないでしょうか。
なごやかな雰囲気はそのまま、お茶がサーブされました。担当はもちろん、陛下のメイドです。わたくしが彼女の職域をおかすのは、許されないことでしょう。
「わたくし、ハドリアから戻って来てよかったと思うことがあるとすれば、お茶の味ね。よく香りを引き出していて、素晴らしいわ」
お嬢様が如才なくメイドをお褒めになりました。さすがお嬢様でいらっしゃいます。
「ハドリアではどこに滞在していたの?」
「トライヤですわ」
確かに、わたくしがお嬢様に拾っていただいたのは、トライヤでございました。
トライヤは歴史ある風光明媚な街として名高い観光地でございます。文人に愛されたことでも知られる文化の街。大図書館、美術館、また最古の舞台ともいわれる円形劇場の遺跡が有名です。
わたくしはもちろん、観光のために赴いたわけではございません。王侯貴族の別荘も多く、職を探すのにもってこいとの噂を聞いたからこそ、目指したのでございます。住み込みで、できれば余裕のある暮らしがしたいとしか思っておりませんでした……。
「永遠の都だとか嘯いている街ね。あそこの領主は歴史を鼻にかけた嫌な男で、わたくしより身長が低いのを気にしているの。踵を厚くした靴を履いてもわたくしの背に届かないのよ」
陛下のやんごとないお口から、どうでもいい情報が手に入りました。
「わたくしはお会いしたことがありませんわ」
「会わなくていいわよ、あんなの。それに、実権を握っているのは弟の方。弟はけっこう美形だったはずよ……でも、どうかしら。最後に会ったのは、もう十年以上前だったと思うわ。マーサ、覚えていて?」
陛下のメイドが間髪を入れず答えました。
「はい、陛下。十四年前でございます」
「ですって。もう容色もおとろえているかもしれないわねぇ。あの食べっぷりでは、幅や厚みもずいぶん変わっているかもしれないわ。料理人が良過ぎるのも考えものよね……」
「評判の料理人でしたの?」
「ええ。当時は大陸一といわれていたわ。わたくしがもてなしを受けたときは、クロウタスグリのパイがそれはもう美味しくて」
「まぁ、おばさま。クロウタスグリとおっしゃいまして?」
お嬢様がおどろかれました。実を申しますと、わたくしもです。
クロウタスグリとは、秋に実をつける珍しいスグリ。その実は熟す前から漆黒で、熟しきるのを見極めるのが最高に難しい果実として有名でございます。実をつついた小鳥があまりの美味に歌いだすことで、果実が熟したのを知る――という伝説がございまして、そこからクロウタスグリの名がついたとか。
有り体に申しまして、収穫時期がわかりづらいため、栽培はあまりおこなわれておりません。秋は実りの季節、なにもクロウタスグリを作らなくても、さまざまな果実がございます。それゆえ、小鳥とともにのんびり暮らしているような田園地帯以外では見かけることのない、幻の果実なのです。率直に申しまして、生で食べるのはお勧めしません。これを食べて歌いだす小鳥はどうかしていると思うほどです(わたくしの出身地はまさにのんびりした田舎でしたので、クロウタスグリを食べる機会もあったのです。ただ、加熱すると独特の酸味にくわえて甘味も強まり、なかなかのものとなりますので、パイはお勧めの調理法です。さすが大陸一の料理人、わかってます)。
「そう、クロウタスグリ。わたくしね、それが忘れられなくて庭で少し栽培させているの。年に一回くらいなら、パイも食べられるわ。今日はないけれど」
テーブルには、色とりどりのパイが並んでおりました。林檎に、梨、葡萄。葡萄にもいくつか種類があるようです。どれも非常に美しく仕上げられております。
「どれをいただこうか迷ってしまいますわ」
「好きなのをとってちょうだい。選ぶ時間が楽しいだろうと思って、たくさん用意したの」
「まぁ、おばさま。なんて素晴らしいお心遣いなのでしょう」
お嬢様は林檎、陛下は葡萄をお選びになり、もぐもぐと口を動かすあいだ、少しだけ会話が途切れました。わたくしは生唾をこっそり飲み込む技術の習得にいそしみました。