第四章
物理情報は突如として変化した。それまで幼児の姿をしていたそれは、すぐにその形を崩した。その正体が何であるか、正確に解析が進んだ訳ではなかった。だが、そのような事にカリキュレートを割いている場合ではない。
「退避、退避だ!」
カラマはすぐさま、フランカに向けて声をかけた。幼児の姿をしていたそれは、濃紫の半透明な物質となっていた。それは固定的な形状を持たない。煙のように宙を漂い、けれども生物のように意志を持って活動する。
カオスレアリダは、すぐ近くにいる獲物の姿を捉えると、目にも止まらぬ速度で、その身体を覆いつくした。
「ま、まずい……」
ミナスの震えた声が発せられるさなか、それは起きた。
候補生の姿は、瞬く間に暗雲に覆われ尽くした。だがその姿は候補生の身体に取り込まれるかのように、徐々に消えていく。
彼は、その身体を左右に小刻みに揺さぶらせた。そして徐々に後退するしながら、呻き声と形容するのもどこか不適切な、不規則でねじ曲がったような音声を数十秒にも渡って発し続けた。それは原初的な、何故だか嫌悪感を呼び起こすような蒙昧とした響きであった。
――キケン、キケン……スグサマ、タイヒ、セヨ。
抑揚が一切なく、感情が排除された音声。それは、自動音声と呼ぶのも不自然な、あまりにも原初的な響きだった。
音声が聴覚に届くと共に、カラマの中で何かが迸った。それまで捨て去っていた記憶の断片が、無理矢理脳裏に戻って来るかのような、奇妙な感覚。
――タダチニ、テキセイショチ……テキセイショチヲ、ホ、ド
彼は未だこちらに背を向け、暗闇の向こう側へ向き合っていた。音を立てる事なく、数秒間憑依していた個体からその奇怪な濃紫の物体は姿を現した。だがそれは間髪を置く事なく、フランカとなっていた。
フランカの後方で、鈍い金属音が次々と叫び始める。やがて崩壊を上げ始め、身体は部品のように分解され、パーツごとに地面に落ちていく。
そこで初めて、ミナスが引き攣った声を発した。
彼が持っていたはずの〝声〟も、〝意識〟も、もはやそこには残らなかった。
それまでの間確かに〝候補生〟であったそれは、もはや完全に〝物体〟と化す。そんな恐ろしい響きが、そこにはあった。
カラマもミナスも、何が起きたのか理解することができなかった。眼前で起こった出来事も結局のところ、候補生にとって「視覚情報」以外の何物でもない。それが現実であるか、何らかの表象であるか、彼らに問う事はできない。だが、目の前の視覚情報から逃れる事はできない。夢を見る事はできない。結局の所、それは彼らにとって現実である以外の何物でもなかった。
カラマは勝手に湧き上がりそうになる内なる感情を必死に押さえつけ、冷静さを保ち、カリキュレートを生成した。解析のタイミングが遅くなっただけだ。すぐさま現状に即して行動指針を生成しなければならない。精神をすべて計算に集中させる。それはすべてこれまで候補生として培ってきた感覚だ。己の感情を全て捨て去り、眼前の事象を分析する事にすべてを注ぐ。余分な視覚情報を、自ら遮断する。
「カリキュレート、終了。行動指針、生成」
カラマは目を開け、辺りを見回した。幸いにも、カオスレアリダはまだ獲物の身体感覚に馴化し切れていないのか、動作を停滞させている。カラマは自身の正解を噛み締めながら、横にいるミナスとネイバに目を向けた。
「二人とも、よく聞いてくれ」
高度人型人工知能「ラゴス」の下位システムから緊急データが送付されたと聞き、サエキは直ちに現場に急行した。「候補生」プログラムの重要なデータが眠る「保管庫」には、既に何名もの研究員が集結していた。サエキが事態を尋ねると、切迫した表情を浮かべた一名が即座に返答した。
「どうやら、ある基体が異常な反応を示したそうです……著しく損害を受けているようです」
早口で説明する研究員の白衣には汗が滴り落ちていた。棺桶大のガラスケースが連続して立ち並ぶ中、ある一つの前に立っておろおろしている研究員達の姿に、サエキは苛立ちを覚えた。
「基体は貴重な実験サンプルだ。もし欠損が生じれば、今後の候補生プログラムに大きな影響が出てしまうんだぞ、わかっているのか」
自分でも想像がつかない程大きな声を出していた。何名かが彼に冷ややかな目を向けるのが視界に入り、サエキは少しきまりが悪い思いに駆られた。
「ですが所長。国定の重要研究データの直接的な扱いに関して、高度知能の指示を待つ前に動く事は認められていません」
研究員の中で最も落ち着いた人物が、眼鏡に手を当てながらこちらを見つめる。所長である自分を以てしても動く事が許されないとわかり、サエキには言い返す言葉が見当たらない。
――無力だ。我々人間はこうも無力なのか。
その時、保管庫内に警報が鳴り響いた。
「またです! 他の基体にも反応が……」
サエキは再び顔を上げ、音がした方に目を向けた。その瞬間、所狭しと並んだケースの一つに、見知った顔があるような気がした。だが、余りもの数の多さに、サエキはすぐにそれを見失ってしまった。
――彼らが輝けるのは、もう「候補生」の中にしかないというのに。
「向こうの扉を超えれば候補生達がいる世界に繋がるそうですが、行ってみましょうか」
冗談だか本気だか、誰かが言った発言に、誰も反応する事はなかった。
「愚かだな……俺達候補生は。実に愚かだよ」
音声が飛び込む。その声の主が何者で、どの距離にいるのか、カラマに処理を下す余裕はなかった。その低い音域は、男のものである事は確かだ。その抑揚のパターンは起伏に富んでいる。彼が好ましい様子を示している事は間違いない。
カラマの視覚には、数分前に目の前で起きた出来事がいつまでもこびりついていた。
その動作は一欠片の無駄もなく、まるで終着点に向け、一瞬のように駆け抜けていった。
カラマが自動音声に従って臨時の行動指針を述べたと共に、ミナスは何の躊躇いもなくその動作を開始した。
即座に足元に自動走行器具を実体化させると、敵の元へと急行した。続いて物理境界シールドを展開させ、自らをその内に閉じ込めた。これで、カオスレアリダは他の候補生、及び街から完全に隔離された事となった。
残された二人の候補生は、ただ呆然とその光景を見送る事しかできなかった。ミナスの実体化の残機はそう多くなかった。彼女は残された力を使い、必死に戦った。彼女の優先事項は、あくまでも敵の足止めと安全の保持だった。残された二人は彼女の戦いの末を見る事なく、その場を後にして迂回せざるを得なかった。
カリキュレートは無慈悲にも、正確に答えを出していた。三名の候補生の現時点での力では、眼前の敵を駆逐する事は不可能だった。最も適した一名が囮となり、チームの目的達成の為に行動する。それが、彼らにとっての最適解だったのだ。
カラマは、もはや何も知覚できないでいた。原初的な状態に戻った候補生。カリキュレートの前に逆らう事のできない候補生。最小単位の状況へと戻って行く候補生。
それらはすべて、確かに何処かで見た光景だった。何処かで知り得た情報だった。だが、カラマはそれらを〝知らない〟つもりでいたのだ。それは〝必要ない〟情報だったのだ。
そんなカラマに突き付けられた出来事は、否定しようがない現実だったのだ。それは、カラマがそれまで構築していた体系に、大きな揺さぶりを与えていたのだ。
「見たか? あの女の候補生の顔。可哀想に。彼女だって生きたかっただろう。生きてここを出たかっただろうに。あんなに屈辱的な表情を、見たことがあるか? お前だって、仲間が死ぬ所をたくさん見てきただろう? そんな中でも、あそこまで――」
ネイバは言葉を切った。彼は笑い声を抑えようと、必死に身体をよじっている。器用にも、掘削用器具を操作しながら、感情豊かに言葉を紡ぎ出している。
カラマはもはや無力だった。ネイバに行動指針を送信し、自分はただ彼に続く僕のような存在に成り果てていた。いつものように、思考を働かせる事ができない。今まで見た出来事に、処理が追い付かないでいた。だが、彼の場違いな笑みには、動かされるものがあった。
「そんなに可笑しいか? 君は今まで一体何を見てきたんだ。カリキュレートは、僕達候補生だけが持ち得る特殊技能なんだ。僕達だけが、この事態に向かい合う事ができるんだ」
カラマは、湧き上がる感情をできる限り抑えつけながら、必死で言葉を生成した。不合理な意見を持ち出す相手には、論理で立ち向かわなければならない。学舎で得た教えは、如何なる状況でも破る事はできないでいる。
「優等生さん、おめでたいねえ。じゃあ、そのカリキュレートとやらが『死ね』とでも言うもんなら、あんたらは喜んで死にに行くってのか」
カラマは、ネイバの音声が伝える情報を、ありのままに噛み砕いていた。不思議な事に、彼の口調、抑揚、声色、それらと伝達内容には、妙な不整合がある事に気付いた。
「お前達は自分がどうなりたいと思っているんだ。模範的な候補生になって、それで成績を残していれば満足か。感情をすべて打ち消して、知識に沿って行動して、それで結局何になった?」
ネイバの声は聴覚に強くこびりつく。情報処理がままならない状態でも、カラマの中に、確かな怒りがあった。
「誰のせいだと思っているんだ。……君がしっかりと技能段階を保っていれば、作戦通り上手くいっていたはずなんだ」
カラマは顔を上げ、ネイバを見つめた。カリキュレートは間違いなく乱れている。これ以上の悪化を起こさないよう、カラマは平静を取り戻すように努める。
「君は死にたいのか? 今までも今回も、運で切り抜けてきたのかもしれないけど、そんな事これ以上通用しないよ」
カラマに習うように、ネイバも声を落とす。
「決して運ではないぞ。俺はこれまで、あんたのような優等生が統計に狂わされていったのを、何度も見てきてるんだ」
ネイバは一度声を落とすと、カラマのもとを振り返った。
「カオスレアリダの生体については何回も学習したろ。奴らは単体では攻撃性を持たない。常に何かに憑依したがる。こんな所に小っちゃい子供がいるなんておかしいだろ。ここは商業施設だ。あの年頃の坊やは家庭か学校にいなきゃおかしい。だから俺はおかしいと思って、すぐさまあの色黒から離れたんだ。……どうせ行動指針が出なきゃ皆動かないんだから、あそこで何を言っても無駄だと思った」
ネイバは再び前を向く。階段に差し掛かろうとしていた。
「俺はまともにカリキュレートなんざ扱えないが、自分の行動指針に従うんだ。それで命は守れてる。カリキュレートはチーム全体の壊滅だけはちゃんと防ぐように命令を出すんだ。タチが悪いけど」
カラマは返す言葉がなかった。正しい反応が浮かばない。
「そいつは便利かもしれないが、案外もとの人間らしくいた方がいいかもな」
ネイバはもう一度振り返った。その瞳はカラマを捕えていた。もう二度と離さないぞとばかりに強い力でこちらを見つめる。次に返す言葉を探そうと、身体の奥から何かが作動しかける。カラマはそれを必死に押し留める。今、カリキュレートを使うべきではない。
何故だか何にも頼らずに、そう判断できる。
「僕達は選ばれた存在だ。カオスレアリダの脅威から社会を守る……。その資格があるのは、僕達候補生だけなんだと、ずっと誇りに思っていた。でも、僕達はこの使命から逃げる事ができないんだ……」
カラマは下を向き、立ち止まった。丁度階段を降り終え、地下フロアに立った所だった。
「確かに、俺達は選ばれた存在かもしれない。けど、俺達は何も選んでいないんだ。候補生として生きる事を」
ネイバは声を落とす。もう一度前へ向き直り、アナライザーの解析を待つよう促した。