序章
ある狭い一室に、彼は眠っていた。目を閉じた状態で全身を液体に漬けられ、その痩せ細った身体は絶えず小さく揺れている。眠りながらにして、彼は正確に知覚を持っていた。自身が液体に漬けられ、その効力の為に生き永らえているという事を、無意識のうちに認知している。彼が目を覚まし、身体を動かして自由に生きる事は、幾らか昔に絶たれた望みであった。だが彼は死んでいる訳ではない。彼にはまだ〝世界〟がある。彼の脳が、彼に世界を見せてくれる。肉体的に直接外の世界に触れる事はもう叶わないと、彼はきっとまだ知らないでいる。だが、脳が絶えず見せる情報は、彼にとって幻想ではなく、確かな現実だった。
やがて、どこからか信号が送られてくる。培養液の中、自身に接続された多数の管が、ある指令を与える。お前の情報を提出せよ。正体もわからぬ信号は、彼に向けてそう通達したのだ。
その指令に逆らうという選択肢は、彼には与えられていない。自身が生を続けるため、という打算的な考えもない。その電子的な指令には意志も関わらず絶対服従なのだ。
彼は指令に従った。自身の情報を生み出し、管に流し込んだ。その情報がどうなるか、彼は知る由もなかった……。