悪癖
喧噪というのには程遠いような、けれど微かな温もりのある音に包まれている。映画館という場所が、俺は昔から好きだった。足元が絨毯生地で柔らかいことも、その温かさの一因なのだろうか。その繊維一つ一つが無意味な雑音を吸いつくしているように感じる。
顔を上げてみれば上のスクリーンに映画の予告が流れ続けていた。可愛らしい少女が微笑んでいるアニメの劇場版予告が流れたり、目鼻立ちの整った人気俳優がヒロインと甘いキスを交わそうとしていたり。
そういえば今日は何を観るんだったか。確か由希が観たいってことでここに来たはずだけれど、いったい彼女は俺たちに何を観せるつもりでいるのだろう。
「――でねー、この俳優がすっごく可愛いの!」
「……へ、へぇ」
隣では、由希がアリスを今にも押し倒しそうな勢いで何やら熱弁している。アリスの方は明らかに困窮しきっており、口元が引きつっていた。
「あー、わかるわかる。あの人美少年だよな。男から見ても嫉妬するわ、あれは」
「でしょー? 私大好きでさ。もしかして、アリスちゃん知らない?」
「え、あ、うん……あんまりテレビとか観なくて……その、ごめん」
アリスの言葉が尻つぼみになる。少し気まずい空気が流れた。
「とりあえず、今日観てみればわかるよ。きっと水無月も好きになると思う」
はにかんだ亮が急ぎ取り繕って、ひとまずアリスを慰める。周りから見れば仲のいい三人組に見えるだろうが、このお互いの微妙なズレがとてつもなく気味が悪い。必死で仲を取り繕おうとするのが、とにかく気持ち悪い。
たぶん由希も、こういうのは嫌いだったはずだ。
「アリスちゃん、休日とか何しているの?」
何も気にする素振りも見せずケロッとしている由希が、やけに大人びて見えて、心なしか切なくなる。
「休みの日は塾に行ったり、本読んだり……そのくらい」
真っ白な頬をすっかり赤く染め上げた少女は、もじもじと指先を絡めながらうろうろと視線を震わせている。思いがけずその目線の延長線上に自分の瞳が並んだ。アリスはそれに気づくとますます顔を熱くさせ、火照った頬を隠すようにさらに俯いた。
「アリスちゃんは文学少女だねぇ~」
由希の言葉でますます困惑するアリスに、
「あ、そういえば座席どうしようか」
すかさず亮が話を逸らしてアリスの顔を上げさせ、持っている四枚の紙切れをひらひらと扇ぐようにして見せつける。
「俺らが女子を挟むのは決定だろ?」
「え、なんで?」
何の前触れもなく出た言葉に由希がきょとんとして訊き返す。
「ほら、隣が知らない人だと落ち着かないだろ?」
「あー、なるほど。さすが関口くんは気が利くなぁ」
その言葉の裏に隠された皮肉を存分に味わいながらも、俺は頑として反応せずにそっぽを向いて話を聞いていない振りをする。
「じゃあ……ほい、どっちか選んで」
彼は内側の席のチケットを二枚取り出して、体の後ろでシャッフルした後、裏返してそれらを由希の前に差し出した。
「んー、私こっち」
由希が彼女から見て右手側にあるそれをつまむ。
「……じゃあこっち」
次にアリスが残った方を手に取った。
その後亮は俺のほうを振り向くと作為たっぷりな不敵な笑みを浮かべた。
うえ……めんどくさいパターンだ、これ。
「なんか冬人がトイレ行きたいって言うから俺も行ってくるわ」
「うん、行ってらっしゃい。私たちここら辺で待ってるから」
高校生にもなって連れションかよ……。
亮の勝手な行動に気が滅入るのを感じながらも、俺は一緒になってトイレへと向かっていく。二人とも適当に用を足した後、手を洗っている最中、
「なあ冬人。萩原の隣座りたいだろ?」
鏡越しに目を合わせてきた亮が真顔で語りかける。
「……別に」
「またまたぁ~、ご冗談を」
「お前のためだぞ」という意図があからさまに感じられてしまったので、図らずも俺は亮へ怪訝な視線を向けてしまった。が、それに気づいていないのか、
「ほれ、こっちが萩原の隣」
先にハンドドライヤーで手をしっかりと乾かした亮が、一枚のチケットを渡してくる。
「……なんでわかるんだよ。さっきお前シャッフルしてから渡しただろ」
「したよ?」
「じゃあこっちが由希の隣だなんてわからないだろ」
「いやわかるよ?」
何の迷いもなく答える亮を不思議に思っていると、
「だって俺がシャッフルしてるんだし、どっちにどっちがあるかなんて簡単に覚えられるでしょ」
よくよく考えてみれば確かにそうだ。うっかり、亮ごときにほぉと感嘆の息を漏らしてしまいそうだった。
「馬鹿だなぁ、冬人ちゃんは」
ハンドドライヤーで乾かした手で、からかう亮の手から紙切れをぶん取る。
「おー、怖い怖い」
ちっとも怖がる素振りを見せずにそんなことを言うので、余計に腹立たしくなった。
戻ってみると、アリスが顔を真っ赤にしていた。しかし照れているというよりも、驚いたように口をぽかんとさせている。そして時折由希を見ては、俺を見る。二人で一体、何を話していたのだろうか。
「あ、おかえりー。もう入れるみたいだよ? 放送流れてたから」
「よし、行くか」
相変わらず言葉を交わすのは由希と亮だけだ。他の二人は黙り込んだままで、ただ周りの流れに沿っているだけだった。
「そうだ、私飲み物買ってもいい?」
思い出したように由希が口を開くと、
「俺も買おうかな。水無月は?」
「私も……買う」
彼女の言葉が、先ほど由希と二人きりにしてから妙に言葉がぎこちなくなったような気がした。しかし、最初からそうだっただろ、と自分に言い聞かせてみると案外すんなりと腑に落ちるものだった。
三人が買うことになったので仕方なく流れに沿って俺もオレンジジュースを頼む。映画館の飲み物は高くてあまり買いたくはないけれど致し方ないだろう。特に他に金を使う当てがあるわけじゃあるまいし。
座席はかなり埋まっているようだった。入り口から入り、周りをぐるりと見渡すと、既にそのほとんどがカップルやら友人同士やらの、中高生たちで埋め尽くされていた。
「わー、人いっぱいだねー」
由希が無邪気な声を、俺に向かって放つ。
「そうだな」
素っ気なく返してみるが、彼女は別段気にした表情も見せずに席についてスクリーン上に流れているCMを見始めていた。
「水無月は普段どんな本読むんだ?」
「……えーっと、小説とか?」
「ジャンルとかは?」
「れ、恋愛ものとか……結構」
「へぇ、意外。もっと哲学チックな本とか好きそうなイメージだった。あっ、悪い意味じゃないよ?」
由希の向こうでは、二人が既に話を交え始めていた。アリスは相変わらずつっかえつっかえだったが、一方の亮は時折間を置きながら、しっかしと彼女のペースに合わせてあげていた。
なるほどな。
やっと亮が何故アリスを映画に誘ったのかが合点がいった。
彼は、アリスが好きなのだろう。
俺と由希の親睦を深めるという口実に、彼はアリスにアプローチがしたいのだ。彼らしい、イケメンしか許されない行為だ。
しかし、彼女の好きな人はおそらく――
「なかなかあっちは盛り上がってるようだよ? 私たちもそうする? 楽しくおしゃべりとかしちゃう?」
そんな二人の様子を見ていた由希が俺を茶化して、いたずらっぽく自身の髪をかき上げた。
「無理に話さなくてもいいだろ。それに映画ってのは静かに見るもんだ」
「まだ始まってないじゃん」
「こういうのは前もった気持ちの入れ方が大事なんだよ。気持ちを落ち着かせないと内容に集中できないだろ」
「なるほど」
俺の取って付けたような適当な口実に、彼女は見事につられてみせる。
「そう言えば水無月は、大会近いのに練習しなくていいのか?」
「……うん、あとは調整だから。体壊さないようにしないと」
「練習し過ぎで、怪我でもしたら大変だもんなー」
「……うん」
亮はかじりつくようにアリスの顔を見ているが、当の彼女は終始伏し目がちで、一向に彼と目を合わせようとはしない。
ほんと、どんだけコミュ障こじらせてんだよ。
そう思うやいなや、今日一度たりとも由希と目を合わせていない自分に、その言葉がそっくり返ってきていることに気づく。
こじらせてるのは俺だな。
そう心の中で呟いたところで、室内の照明が徐々に落とされていく。そしてやがては真っ暗な空間に、目の前の大きなスクリーンだけが人々を照らしていた。
「楽しみだね、冬人くん」
意味ありげに由希が囁く。
「ああ」と、特に意味もなく俺は相槌を打った。
映画は、主人公の幼馴染みの女の子が自殺をする場面から、物語は始まった。
それから数年が立ち、彼は過去に戻る力を得る。そしてその力を何度も駆使し、彼女を助けようとするが、毎回上手くいかない。諦めかけた彼に、タイムスリップしたときに、ついでに助けていた人たちが力を貸してくれる。そしてついに彼は彼女を助け出せることができた。めでたしめでたし。
ざっと、こんな話だっただろうと思う。何とも女子が好きそうな話だった。
――しかし俺は、その物語の結末を見届けることができなくなった。
『美奈……』
主人公が少女の名を呼ぶ。それに吸い寄せられるようにして、涙でぐしょぐしょになった少女が彼のもとへと駆け寄っていく。
『真人……っ!』
少女が男の胸に抱き寄せられる。彼女はわんわん泣いて、ぐっしょりと少年のシャツを濡らしていた。
そして、二人が見つめあう。
ああ、キスシーンか。
俺はそう直感し、気恥ずかしくなって目を背けた。
静寂が訪れる。まるで今この空間に、俺だけが一人でいるかのような感覚にとらわれた。
――だが、俺はすぐさまその孤独から解き放たれた。
微かに感じる生暖かさ。するりするりと、這いずるようにして、滑らかな指が俺の右手の指の間に滑り込んでくる。
慌てて俺は右側にいる少女を見る。しかし少女は何食わぬ顔で、スクリーンを見つめいた。
自身の左手を、俺の右手に重ねながら。
スクリーン上では、二人がまだ濃厚なキスを交わしている。とろけきってしまった、恍惚な表情で。
隣の少女はそれをじっと見つめている。そしてぎゅっと左手に力が入るたびに、俺の心臓は、握りつぶされんばかりに締め付けられた。
苦しい。息ができない。
ただひたすらに苦しかった。わけもわからず、俺はただ彼女の姿を見ることしかできなかった。
なんで、そんなことをするんだよ……。やめてくれよ……。
いつもそうだ。そうやって彼女はいつも俺を振り回す。口には出さずに、体を使って俺を惑わす。そうやっていつもいつも――
嫌な思い出が全て蘇ってくる。俺が永遠に目を逸らし続けていた部分。
やめろ……やめてくれ……。頼むからもう、これ以上――
――俺を、振り回さないでくれ。
《そうやって、僕はまた逃げるんだね》