夕焼けの中で(前編)
「なあ、今度四人で遊びに行かね?」
「……ん? ああ」
唐突にそんな提案をされた俺は、何も考えずに適当に返事をしてしまった。
「よし、じゃあ今度の日曜日な。他の二人にはもう俺から声かけてあるから」
「…………え」
「じゃ」
頭が処理落ちしている間に、亮はもうどこかへ行こうとしている。
「いやいやいや、ちょっと待てって! いきなり何の話だよ」
すでに教室のドアに手をかけていた亮が振り向き、
「いやだから、四人で遊びに行こうって話だよ」
「初耳なんだけど」
「つい数秒前に言ったし」
「四人で遊びに行くって話だけだろ! 詳しいことは何も説明されてない!」
「だって、まだそんな詳細には決まってないし」
そんな行き当たりばったりな計画でいいのか……。日曜って明後日だぞ……。
――ん、他の二人?
「……なあ、一つ訊いていいか」
「おう、なんだ」
「……その、他の二人ってのは……?」
うすうす嫌な予感がしてきた。
「そりゃあもちろん、水無月と萩原だよ」
「…………は?」
「まあ中身は四人で決めればいいでしょ。じゃ、俺中村先生に話があるから」
「いやいやいやいや、待てって! そんな勝手に決められても俺はまだ何も――」
勢いよく扉がしまり、急に部屋が静まり返った。相変わらずせわしないやつだ。
「……はあ」
教室に一人残された俺は小さくため息をついた。
ったく、前もって一言くらい相談してくれてもいいだろうが……。
彼の無計画性に呆れながら、俺は日曜のことを思う。
アリスと、亮と、由希と、俺。
なぜそのメンバーを亮が集めたのかはわかっていた。数日前の出来事を見たからだろう。
その日朝一に――といっても遅刻すれすれに登校してきた俺に対し、
「あ、冬人くんおはよう」
と、美少女転校生がクラスでも目立たない男子にいきなり声をかけたのだ。それを目の当たりにした生徒たちは皆、揃って開いた口が塞がっていなかった。特にカースト上位勢が揃いも揃ってアホ面を晒している姿には、胸がすく思いがした。
そして朝のHR終わりに、俺はすぐに亮に問い詰められた。
「おい、お前……あの転校生といつの間にそんなに親しくなったんだよ!」
いつか、と訊かれればそれはもう十年以上前と答えるしかないのだけれど、それを言ったところで彼の疑問が解決するわけではなかったので、
「幼馴染みだ」
と、一言で事済む言葉に変換する。
左ではアリスが、何やら小説本を読んでいるが、その本が逆さまというあからさまなボケをかましながら聞き耳を立てていた。
「な……だってお前、昨日までは全然そんな関係に見えなかったぞ?」
「それは――」
こうして俺は亮にあの夜、家であったことを伝えたのだ。彼女と今、どんな関係であるのか、伏せたいところは伏せたままで。
きっと彼はこれを見て、聞いて、俺と由希とをもっと親密な関係にしてあげようとでも思ったのだろう。
これ以上ないありがた迷惑だ。
「あっ、よかったぁ~、冬人くんまだ教室にいてくれて」
気づけば教室の扉の近くに少女が立っていた。長い黒髪を風に流しながら、机の間を縫ってこっちに向かって足早に歩いてくる。
「ねえ、今日部活ある?」
「え……いや、ないけど」
とっさにそんな嘘をついた。
「実はね、ちょっと提案があって」
「……提案って?」
「あのね、今から、デートしない?」
「…………は?」
時刻は午後4時40分。
【おい、部活サボってどこ行ってんだよ】
スマホにそんなメッセージが送られてきた。俺がそれに既読をつけずに無視し続けると、怒っているような表情のスタンプが連続して送られてくる。そして最後に、
【まあ、かくいう俺も近くのコンビニで立ち読みしてんだけどw】
【部長のくせにサボりとはいい度胸だな】
鬱陶しくなった俺が仕方なく返信してやると、
【お前こそ、大会前に女の子連れてデートとか、うらやましいなこんちくしょう!】
最後のほうは俺をとがめるというよりは、自分の本音が漏れている。
【今回は目をつぶってやるから楽しんでこいよ】
それと同時に、今度は目をキラキラとさせたウサギのようなキャラクターが、親指を立ててグーサインしているスタンプが送られてくる。
俺はそれに既読だけつけ、何も返信はしなかった。
「誰から?」
横から覗いていたらしい由希が少し心配そうに尋ねてくる。
「亮だよ。ほら、テニス部の部長の」
「ああ、関口くんね。なに、もしかして冬人くん、部活サボったの?」
「……まあ」
「サボりだなんて、冬人くんも、大人になったねぇ~」
電車に揺られながら、からかうように彼女が笑う。俺はそれに苦笑いを浮かべ、「……まあな」と小さく言葉を返す。
「――で、どこ行こうとしてるんだ?」
「あれ、まだ言ってなかったっけ?」
「全く」
「あはは、ごめんごめん。実はね、私、美術部に入ろうと思うの」
何の脈絡もなく飛び出した彼女の話をまとめると、最初はテニス部に入ろうと思っていたのだが、テニス部がそろそろ最後の大会があるということを知り、今入っては迷惑だと考え、廊下をうろうろしているうちに美術部に声をかけられて即決した、とのことだった。
「でね、道具を買いたくて……けど一人だとちょっと不安だったから。ほら、私が転校してから小学校の周りも変わっちゃったでしょ? 道路拡張とかなんとかで。だから街中も変わってたら大変だなって」
「でも俺、美術系には全然詳しくないんだけど、大丈夫なのか?」
「へーきへーき! 大体のことは美術部の子に訊いてきたから、冬人くんはただ側にいてくれるだけでいいよ」
「……つまり、荷物持ちってことか」
あからさまに肩を落としてみせる俺を励ますように、
「もう、そんなネガティブに捉えなくてもいいじゃん! 女の子と二人っきりでデートしてる、って考えたほうがよっぽど幸せでしょ?」
ちょくちょく挟んでくる彼女の甘い言葉にいちいち反応してしまう。もちろん顔には出していないつもりだが、心の中では少しずつ小さな喜びがふつふつと巻き起こっている。
側にいてくれるだけでいい、とか。二人っきりでデート、とか。
あんまり俺の心を振り回さないでほしい、と心の底から願う。
「ほら、早く行こ?」
どうやら電車が目的の駅までたどり着いたらしい。先に降りていた由希が座ったままの俺をほっそりとした指先で招く。
「ああ」
俺も彼女に続いて電車から降りた。一応降りる前に忘れ物がないかだけは、車内を振り返ってチェックしておく。
「いやー、久しぶりだなぁ、この駅。あんまり変わってなくてほっとしたよー」
見上げる彼女につられて、俺も彼女の視線を追う。この辺では一番大きな駅だが、そもそも住んでいる県が田舎のため、東京の外れの駅と同じくらいの大きさだろう。ホームはところどころ錆びついていて、駅のタイルも黒い汚れが目立ち、どことなく寂れた印象を受ける。
「まあ、俺もこっちまではあんまり来なかったから、3、4年ぶりくらいかな」
「意外! それじゃあ冬人くんも私とたいして変わらないじゃん」
「これじゃ冬人くん連れてきても意味なかったんじゃ……」なんてふざけたことを言い出すので、
「……まあ荷物持ちくらいにはなるし、プラスに考えろって」
「そうだね」
即答した彼女に対して「ちょっとはフォローしろ」とつっこむと、「えへへ、ごめんごめん」と彼女は楽しそうに笑った。
「あっ、あれかな、案内図。えーっと……美術関係の物はどこに売ってるんだろう?」
駅ビルの案内図に彼女が小走りで先に行き、俺はゆっくりその後に続く。
「なんだ、どこに売ってるかまでは訊いてこなかったのか?」
「いや、なんかすぐに買いたくなっちゃって飛び出してきちゃったから……それに、冬人くんいたらなんとかなるかなって」
「他力本願すぎるだろ」
そう言いながらも頼られていることに多少の高揚感を覚えながら俺も一緒になって案内図を覗き込む。
「っていうか、お前が教室に来た時点で俺がいるかどうかなんてわからなかったんじゃないのか?」
「え、あはは……冬人くんなら残ってると思って」
「計画性がないやつだな」
ふと、誰かに対しても最近同じようなことを考えた気がした。そしてその男の顔をすぐに思い出し、
「お前、亮と気が合うんじゃねーか?」
「え、関口くん? あんまり話したことはないけど」
「なんていうかさ、お前ら似てるんだよ。だからたぶん、お前と久しぶりでもこんなに気兼ねなく話せるんだろうな。あの馬鹿とどこか似てるから」
自分でも納得のいく理由づけができたと半ば感心していると、
「そうかなー? そんなふうに思ったことはないし、それに、私は全然似てないと思うよ」
「……そっくりだと思うんだけど。そういう無計画に突っ走るところとか」
「うーん、確かにそれは一理あると思うけど……たぶん、突っ走り方が違うのかな」
「…………?」
「私は目的があるけど無計画に走っちゃって、関口くんは……なんだろうな、まだ出会ってから日が浅いから合ってないかもしれないけれど、途方に暮れながらながら迷走してる、って感じ」
「……よくわからないな」
「まあきっと、冬人くんならすぐにわかるよ。勘のいい冬人くんなら、きっと」
彼女はこうやって含みのある言い方をするのだ。俺は何度かそれに嫌気がさしたこともあったけど、それでも彼女の言っていることは全て的を射ていた。だから今回もそうなのだろう。何の根拠もない確信が、俺の心に胡坐をかいて居座り続けている。
「さ、早く探しに行こ? 見た感じ、駅ビルの中にはなさそうだけど……ほら、向かい側にももう一つビルあるじゃん?」
「ああ、そっち行くか」
案内図の横を通り抜けて二階の北口から外に出る。夕日が彼女の左頬を照らしていた。正面には七、八階はあるであろう高いビルがそびえ立っている。
「うわー、おっきいねぇ~!」
「……東京じゃ、もっとでかい建物たくさん立ってるだろ」
「違うよ、私が言っているのは建物じゃなくてあっち」
そう言って彼女は、西の背の低いビルに沈み込もうとする夕日を指差す。最後の一筋を残して消えようとするそれは、今にも燃え尽きてしまいそうな危うさを感じさせた。
「……夕日なんて、どこで見ても大きさなんて変わらないだろ?」
「変わらなくないよ、ほら、夕日って沈む寸前が一番大きく見えるでしょ?」
「……まあ」
「東京じゃさ、周りが高いビルばっかりだから、すぐその影に隠れて沈んじゃうの。他の場所からなら見えるのかもしれないけど、私が住んでいたところじゃそうだった。だからね、こんなに大きくて綺麗な夕日を見るの久しぶりなの」
「…………」
一呼吸置く。
「……東京に転校してからは、元気でやってたか?」
「うん、元気だったよ」
「……そっか」
そこから彼女のことを色々訊こうと思っていたのだが、その言葉を聞いただけで、俺は何故だか他のことは訊かなくてもいいような気がして、言葉が続かなかった。
「冬人くんは、元気だった?」
歩き始めると、今度は彼女が訊き返してくる。
「まあ、ぼちぼち」
「そっか、ぼちぼちかぁ」
由希はほっとしたように胸をなで下ろす仕草を見せ、それ以上は何も訊いてこなかった。
たぶん、お互いの心の中には、どこか言わなくてもわかってくれるなんて慢心があるのだろう。俺たちは必要以上のことは何も言わない。きっと相手がわかってくれるだろうから。
でも、人間、言わなきゃ伝わらないことなんて山ほどある。
たとえば……そう、「好き」という気持ちとか。言わなくてもわかるかもしれないけれど、言わなきゃ始まらないのだ。それが恋だと思っている。
――だけど、それを知らない二人は、お互いに意識していたとしても、それに二人が気づいていたとしても、お互いに「好き」と伝えたことはなかった。そういう雰囲気は醸し出すけど、肝心なことまでは踏み込もうとはしなかった。彼女も、《僕》も。そして、たぶん俺も。
無言のまま、駅とビルとを繋いでいる橋を二人並んで歩いていく。その下をタクシーやバスなどが通っていき、時折送り迎えをする家族の乗用車も走っていた。
この橋の下はバス停になっており、そこからショピングモールに行ったり、商店街の近くに行ったりできる。が、夕方だからなのか、そのバス停で待っている人は少なく、反対に降りる人は大勢いた。これでもかというほどに詰め込まれた車内から、疲れ切って下を向いているサラリーマン風の人たちがぞろぞろと吐き出されてきた。そのまま、さながらゾンビ映画のワンシーンのように、同じ風貌の生き物たちが首をうなだれて、列をなしながら駅の入り口へとなだれ込んでいく。
「私、満員電車は苦手だったなぁ」
気がつくと、俺の視線に合わせていた由希がぼそっと呟いた。
「毎朝あのぎゅうぎゅう詰めの電車に乗るのが億劫でね、最初は降りた瞬間にトイレに駆け込んで吐いちゃったの」
「……災難だったな」
「でしょー? でもあっちの友達はみんな、『それが普通だ』って言うの。ほんと、私って都会に向いてないんだなーって痛感しちゃった」
「それが嫌で、こっちに戻ってきたのか?」
「…………」
「ん?」
「……え? あ、そうそう、そうなんだよー。ほんと、私って根性ないよねぇ~」
一瞬だけ困ったような顔をした後、何事もなかったかのようにすぐに取り繕う。
「……由希、何か隠して――」
「うわー、懐かしいなぁ。前より綺麗になったね。早く中に入ろ? ほら、あそこに案内っぽいのあるし!」
俺の言葉を遮り、逃げるようにして店内へ駆け込んでいく。
「うーん……どこにあるんだろう?」
舐めるようにしてその案内板を眺めていた。一階、二階と八階まで続いており、その右側にそれぞれの階に何の店があるのか示されている。しかし、どこにも目的の場所は見当たらなかった。
「……それっぽいのないじゃん」
「えー、そんなはずないと思うんだけどなぁ」
すると彼女がおもむろに鞄から眼鏡ケースを取り出して、中に入っている赤いフレームの眼鏡を取り出す。
「なに、お前目悪いの?」
「ううん、伊達だよ。度入ってないやつ」
「……なんでそんなもん今さらつけたんだよ」
「うーん、気分かな?」
適当に返事をしている彼女の横顔は今まで目にしたことがないもので、とても新鮮味を感じた。意外にも眼鏡がよく似合っている。ちょっとした女教師にでも間違われそうなほどに大人びて見えた。
「……で、気分を入れ替えたら見つかったか?」
「いやぜんぜん」
すぐにきっぱりと言い返してきた彼女に対し、「はあ」と大きくため息をついていると、
「とりあえず、いろんなとこ回ってみよっか。雑貨屋さんとかにぽんって置いてあったりもしそうだし。ほら、デートデート」
やたらポジティブな彼女が俺の気分を盛り上げてくる。
「へいへい、デートねデート。付き合いますよ……」
またも俺は、彼女に先導されるような形で斜め後ろをついていく。歩くたびに横に揺れる長い艶のある黒髪に、いつの間にか見惚れていた。目を突き刺すような輝度のLED照明が、彼女の髪を眩しいくらいに艶めかせていた。