ラ・カンパネラ
一瞬にして、僕はその冷たい波に飲み込まれてしまっていた。冷たくて穏やかなその波は僕を優しく押し動かしていく。不快感はちっともない。そのゆっくりとした波長に、僕だけではなく他の全員が惹き込まれていた。皆が一心に一点だけをただ茫然と眺めて、その流れに身を委ねている。
次第に波は暖かみを増していき、いつしかそこには草原が広がっていた。僕はなるがままにそこに投げ出される。不思議と痛みは感じない。すると草原に花が咲き始め、空気が震え出した。草が歌い、花は踊る。遠くで、またあの波の音がした。しばらくこの陽気に包まれていたかったがすぐにそれは押し寄せ、僕は冷たくも優しいその上を再び漂い始める。
今度はその波が荒々しく変貌する。かと思えばそっと僕の心臓を撫でる。そしてまた勢いを増し、僕を溺れ死にさせようとするのだ。これでもかというほどに僕の心を翻弄していく。
波が突如消え去り、僕はまたどこかの大地へ放り出された。そこはさっきまでの春の陽気とはうって変わって、深みのある寒空の下だった。雪がちらつき始め、僕の体を急激に冷やしていく。それがいつしか吹雪に変わって、僕に襲い掛かるのだ。それに耐えられずに苦しみもがいていると、遠くから小さな川のせせらぎが聴こえ始めた。雪解けの水が流れるような、小さくて細い川。僕がその心地よい音色に魅了されていると、いつの間にか川があふれ返っている。そして三度それに食い込まれるのだ。
そこに細くて雪のように真っ白な手が差し伸べられる。僕が蜘蛛の糸をたぐるように、必死にそれにすがる。この波の元凶とでも言うべき少女が、助け船を出してくれる。
しかしその腕は雪が溶けるようにじんわりと消えてなくなった。
そして、これで仕上げとでも言わんばかりに少女が一気にペースを上げる。彼女の指先がまるでサーフィンでもしているかのように、白波の上を滑り抜けていく。波が轟轟と音を立てながら荒れ狂う。
波は会場全体を包み込み、会場全体を飲み込んだ。ここは彼女の世界だ。彼女のステージだ。この世界は、彼女の指先によって完全に支配されてしまった。
さらにペースが上がる。もはや誰も彼女を止めることはできない。ただただ波の音に聴き入るだけで、彼女の妖艶な指の動きに釘づけになるだけで、体の自由がきかない。全人類の体を、髪の毛一本一本から爪の先まで彼女が乗っ取ってしまったような気さえする。
そして僕もまた例外ではなく、彼女に支配されてしまっていた。支配というとげとげしい言い方が正しくないような気もする。なんというか、彼女という人間に僕というみじめな人間がやんわりと包み込まれてしまったような、そんな感じだ。
いよいよクライマックスだ。知識があまりない僕でもわかる。それまでの空気感と変わった。彼女の表情が変わった。
波が連続して襲いかかってくる。走馬灯のように、この五分ちょっとの間に経験した様々なことが頭に流れ込んできた。
白波の上を白い指が素早くなぞっていく。それに呼応するかのように鼓動が早くなる。
第一波が僕らを襲った。続いて第二波、第三波と息をする暇もなく次々にやってきて、僕たちに激しくぶつかっていく。雪が舞い落ちる。花が踊る。空気が騒ぎ、波も歌う。
彼女がスッと指を跳ね上げた瞬間、それら全てが崩れ去った。波も雪も花も、全てが消え去り、目の前にあるのは、深みのある藍色のドレスを綺麗に着飾ったあの少女の姿だけ。
少女が立ち上がり丁寧に一礼をした瞬間、ほんの少しの間があって、会場が我に返ったように拍手が沸き起こった。僕はただ唖然としているだけで、周りの空気に合わせて音が鳴っているんだか鳴っていないんだか、わからないくらいの手ばたきをする。あまりにも衝撃的で刺激的だったため、頭が体に追いついてこなかった。
もう一度、彼女の音色を聴きたい。彼女が奏でるおどろおどろしくも、僕を虜にしてしまったあの旋律をもう一度――――
ラ・カンパネラ。
それが、萩原由希という一人の天才少女が、この演奏会に選んだ曲だった。
演奏会が終わり、ホールの外に出る。まだまだ興奮状態で熱が抜けない僕は、外の冷たい空気を吸ってもなおまだ頭がぼーっと霞んでいた。ホール内にいた人が次々に出てくる。皆肩から蒸気が出そうなほどに高ぶっているようだった。
「――冬人くん!」
遠くからまだ幼いけれど、大人ぶったような声が響いてくる。その音のするほうへ目をやると、藍色のドレスを身にまとった少女が裾を地面に引きずらないように手で持ち上げながら駆けてくるのが目に入った。
「あんまり走ると危ないよ」
そんな僕の忠告も聞かずに彼女は息を切らしながら走ってくる。と、僕の目の前で豪快にスっ転んでしまった。
「……えへへ」
一挙に視線を浴びせられ、小さく照れ笑いをして見せる。
「だから言ったのに……大丈夫?」
「うん、平気。ありがとう」
僕が差し出した小ぶりな手を彼女の白くて長い指が優しく包む。それだけで僕はなんだかドキッとしてしまって、彼女の顔をじっと見ることができなくなった。
「ねえねえ! 私の演奏、どうだった? すごかったでしょ?」
「うん、すごくよかった! なんか、すごく鳥肌が立った!」
「でしょでしょ! すっごく練習したから。冬人くんに聴いてほしくて」
「そ、そうなんだ」
彼女の何の他意もないはずの言葉に、若干12歳のあどけない少年は嬉しくなってしまった。
「あら、冬人君。来てくれたのね。わざわざ由希のためにありがとう」
後ろから後を追うように現れた女性は、由希のお母さんだ。
「こんにちは、お母さん」
僕はいつも通りぺこりとお辞儀をする。
「うふふ、礼儀正しいわね。お父さん譲りかしら。ね、お父さん」
「あはは、妻に似たんですよ」
僕のすぐ後ろにいたお父さんが「私は敬語とか苦手ですから」と謙虚に付け加える。
「そんな謙遜なさらなくてもいいのに」
柔らかい笑みを浮かべてお父さんに語りかける。お父さんは照れるように「あはは」と作り笑いを浮かべた。
「いやー、やっぱり由希ちゃんはすごいですね。天性の才能を感じます。妻や娘にも聴かせたかったですね」
「仕方ないですよ、小夏ちゃんが風邪を引いてしまって、奥さんもその世話をしなきゃなりませんし。あ、後で動画貸しましょうか?」
「ぜひお願いします。小夏も由希ちゃんのピアノを聴きたがっていたので」
「あら、嬉しいですね。うふふ」
大人の会話というのはよくわからないもので、僕は終始上の空だった。それは由希も同じで、ずっとドレスを手先でいじっている。
「今回も優勝ですかね、由希ちゃん」
「いやー、今回はダメですね」
「……? こんなにも素晴らしい演奏だったのに、なんでです?」
お父さんが不思議そうに首をかしげると、
「んー、なんて言えばいいんでしょう。簡単に言ってしまえば感情の入れすぎですかね。音楽というのはどうしても手本となる楽譜が存在していますので、それから大きく外れちゃうと、やはり評価も低くなってしまうんですよ」
「へえ、そういうものですか」
「そんなことないよ! 絶対今回も一位だよ! たくさん練習したって由希ちゃん言ってたもん!」
僕はなんだか彼女の努力を否定されような気になてて、思わず自分のことのように反抗的になってしまった。
「ありがとね、冬人君。でもね、由希の他にも上手な子はいるから、いつも一位とは限らないの」
だけど、結果は彼女の言う通りになっていた。
結果は2位。彼女は初めて優勝を逃したのだ。
「……その、残念だったね」
「へ?」
結果が分かった後、僕は由希の近くへ行き、悲しんでいるであろう彼女を慰めようとしたが、当の本人は全然気にしていないようで、それどころか、
「いや、ほら、優勝できなかったから」
「なーんだ、そんなこと」
「そんなことって······悔しくないの?」
「うん、ぜんぜん」
ケロッとしていて、何だか心配した自分だけ置いてけぼりな感覚が襲う。
「逆にね、今すごく気持ちいいの。たぶん、誰かのために弾いたことって今まで一度もなかったから。冬人くんのためだけに弾けて、とても気持ちがいいの」
「……よくわからないけど」
「うーん、いつか冬人くんもわかるよ。大人になって、誰かのためになればそれでいいって、思うときがあるよ。きっと」
そういうものなのか、と思った。
彼女からは学ぶことが多い。僕よりも大人で、どこか先の世界を生きているような、そんな気がした。
最初は僕が彼女に世界の素晴らしさを教えていたはずだった。彼女は小さい頃からピアノ一筋で、それは父親の影響らしかった。父親はとても厳しくて、由希を外で遊ばせることさえさせなかった。
そこに、僕が現れたのだ。どうやって知り合ったかはあまり覚えていないが、おそらくある日の放課後だった気がする。ピアノの練習があるから、そう言っていつも早く帰ってしまい友人も少なかった彼女を無理やり引っ張って一緒にブランコに乗ったのだ。それ以来、彼女はこっそりと僕と遊ぶようになっていった。
しばらくすると、色々な場所へ行った。駄菓子屋、川辺、近くの公園。そのどこでも、彼女はキラキラと、まるでおとぎの国に迷い込んだ少女のように、無邪気にその目を光らせていた。
だけど、気がつけばいつもこうだった。僕が彼女に教えようとしていたはずなのに、いつの間にか僕が彼女から学んでいるのだ。
そして、知らないうちに僕は、そんなおとぎ話みたいな少女が好きになっていた。
「――そうだお父さん。今夜食事でもどうですか?」
由希のお母さんが思い立ったように僕のお父さんに提案する。
「あれ、さっき藤野さんに誘われていませんでしたっけ?」
「あー……誘われていましたけど、ほら、ちょっと気まずいですし、断っちゃいました」
「そうですか、そうですよね。今回は藤野さん家の幸樹君が優勝でしたもんね」
そう、今回由希に変わって優勝したのは藤野幸樹という少年だった。僕はなんとなく、すでにそいつのことが嫌いになっていた。
「にしても、あの噂は本当なんですかね。藤野さんがお金で審査員を買収したとか――」
「――そんな根も葉もない噂を言うのは良くないですよ、お父さん。幸樹君は本当に素晴らしいピアニストです。今回は彼の努力が実を結んだ結果です。それ以上でも、それ以下でもないですよ」
温厚な由希のお母さんが、珍しく語調を強めてお父さんに語りかける。お父さんは慌てて、
「そうですね、幸樹君の演奏にも非常に惹き込まれましたし。失礼なことを言いました」
そして最後に「すみません」と身を縮こませて付け加える。
お金の力で由希に勝つなんて、なんて卑劣なやつだ。
幼いながらも、僕はそう感じていた。そして、ますます彼のことが憎らしくなった。
「で、どうですか。まあ私たちも経済的に余裕はあまりないのでファミレスとかになっちゃいますけど」
「うーん……妻も娘も待ってますし……」
「――あ、冬人君」
大人の世界から離れてぶらぶらと歩いていると、それに目をつけた由希母が僕を手招く。
「今日四人でご飯食べに行かない?」
「……? 四人って誰ですか?」
「冬人君と、私と、お父さんと……あと、由希も来るわよ」
最後の言葉に、やっぱり反応してしまう。
「行きたいです! ね、お父さん、みんなで食べに行こうよ!」
「うーん……」
「どうします?」
「…………」
お父さんが僕を見る。僕は精一杯それに表情で訴えた。
「……じゃあ、行きましょうか」
「はい、ありがとうございます。今由希を呼んできますね」
由希のお母さんはにこやかな笑みを見せた
こうして、僕たちは四人で楽しいひと時を過ごしたのだ。
「――じゃあお父さん、由希ちゃんとお母さんを家まで送ってくるからな。それからちょっと仕事の用事があるから、お母さんに遅くなるって伝えておいてくれるか?」
近くのファミレスで食事を済ませた後、僕はお父さんのワンボックスカーに乗せられ、家まで送り届けられた。
「うん、わかった!」
「そうか、冬人は偉いなあ。お父さんの自慢の息子だ」
「えへへ」
僕の頭を撫で、車から降ろすと、お父さんは手を振りながら、早速由希の家へと向かってしまった。
僕は父に手を振り返すとともに、後部座席から小さな手を大きく動かしている彼女にも、満面の笑みで応えた。
――今思えば、俺はここで気づいておくべきだったのだ。
父は、このときまでに残業など、一度たりともしたことがなかった、と。
だけど、彼女に夢中だった俺は何も見えていなかった。もしここで気づいていれば、俺と彼女が引き裂かれる運命は変わっていたのかもしれない。
でもそれは所詮「変わっていたのかもしれない」で、そして同時に「変わらなかったかもしれない」ということも言外に含んでいるのだ。
たとえ気づいていたとしても、俺は動かなかっただろうから。
だが、これは仕方のないことなのだと言われたら、俺は納得してしまうだろう。少年一人がどうこう動くどうこうの問題ではなく、子どもの力じゃどうしようもなかった話なのだから。
いつだって子どもの人生というのは、大人の身勝手な思惑によって、さも当然のように崩れ去ってしまう。
それこそ波打ち際の砂の城のように、無抵抗のまま、着実に壊れていくのだ。