二人の月
今日は疲れた。
こんなに精神的にくることを連続で味わってしまっては、当然ながら他のことには何も身が入らないわけで、午後の授業も結局心ここにあらずのままずっと、廊下に舞い落ちている埃だけを眺めていた。これじゃあ家でサボったのと同じだ。
そして、大会が2週間後に迫っているというのに、部活にも全く集中できなかった。おかげで激しくすっころんでしまい、今こうして部活終わりのシャワー室で傷口を洗い流しているというわけだ。
「おい冬人、もう最後だぞ?」
隣で汗を流していた亮が早く出ろと催促してくる。
「……ああ」
「……なんだお前、何かあったのか? 今日ずっとぼーっとしてるし」
「別に、なんもねぇよ」
それから少しの間シャワーが流れる音だけが響き、
「……ふーん。じゃあ俺先出るから、戸締りよろしくな。ほれ」
そう言って仕切りになっているカーテンの隙間からシャワー室の鍵をひょいと出してくる。
「…………」
俺がそれを黙って受け取ると、
「じゃ、また明日な」
本来ならシャワー室の鍵は部長が職員室まで戻さなければならないのだが、彼なりの心遣いなのだろう。あいつは適当に生きているように見えて案外色々考えられる奴なのかもしれない。
亮の言葉に甘え、しばらくシャワーを浴び続けることにした。頭から足に滴り落ちてゆく水の粒を見ていると不思議と心が落ち着く。それからシャワーの温度を低くしてみる。冷たくて気持ちがいい。いつもの部活終わりだったら最高の気分になっているはずだ。
……由希は、まだピアノやっていたんだな。
昼休みの時のあの耳障りな男女の会話を思い起こす。そして同時に、彼女が昔弾いていたあの曲を思い出す。
あれは、なんていう曲名だっけ? ザ・カンパニーみたいな、絶対こんな名前じゃないけど、確かそんな感じだった気がする。
メロディーはなんとなく頭に流れているのだ。曲の緩急がすごくて、目まぐるしく曲調が変わっていったことも記憶にある。それに完全に虜になってしまったことも。
あんなに大切に取っておいた思い出のはずなのに、俺はどうしても思い出せなかった。これでは俺を忘れてしまった彼女のことなんて責められない。
「……帰るか」
シャワーを止め、冷え切った体についている水滴をタオルで拭き取っていく。髪の毛は濡れたままでいいだろう。男の髪なんてすぐに乾く。
一通り着替えを終え、窓の鍵もしっかり閉めてから、俺はシャワー室を出た。
「――――あ」
古びた音を立てる扉を横に引くと、輝かしい黄金の糸のようなものが目に飛び込んできた。その糸を頭に纏った少女は、ぽかんとしながら、俺を見ると途端に顔を赤らめる。
「……なんだお前、まだ帰ってなかったのか。女子は俺らより先に終わってたよな?」
「……いや、その……なんとなく、あんたの靴があったから、まだシャワー、浴びてるのかなって」
歯切れが悪く、細かく区切って籠った声で呟く。
「……なんで俺がシャワー浴びてるからって、お前がその前で待つ必要があるんだよ」
「それは……」
恥ずかしくてそれ以上何も言えないのか、もじもじとするだけで一向に返事をくれない。
「……もしかして、お前もシャワー浴びたかったのか?」
「へ? あ、うん。そうそう! 私もシャワー浴びたくて、でもうちの学校もともと男子校だったからシャワー室一つしかないでしょ? それを男子が占領しちゃってるし。だから遅くまで残っていればみんな帰るかなって思って」
急に早口で色々なことを話し出す。アリスは日本語が達者だが、それが裏目に出ているらしい。ペラペラと色々なことを勝手に話してくる。
「じゃあほら、入れよ。他の奴らが来ないように見張ってるから」
俺が親切に彼女に促すと、
「……お言葉に甘えて」
一つだけそう言い残し、「覗いたら殺すから」なんて半眼で言いながら彼女は室内へ消えていった。そして水の滴る音が聴こえはじめる。気にしないようにしても女子がすぐ近くでシャワーを浴びていると考えると、やはりちょっと意識してしまう。心臓がくすぐられたような疼きがほんの少しだけ走った。
「…………ねぇ」
「ん? なんだよ」
この動揺を悟られぬよう精一杯平静を装う。声が少し震えたが、壁とカーテン1枚隔てているし、水が跳ねる音も混じっているので彼女は気づいていないだろう。そう願いたい。
「あんた、あの子とどういう関係なの?」
「……あの子って?」
「とぼけないで」
シャワーの音に掻き消されそうにながら、しかし彼女の透き通った綺麗な声は確実に俺の耳まで届いてしまう。
「あの子が転校してきてからあんたがおかしいの、気づかないとでも思った?」
何年も一緒のクラスにいれば、お見通しというわけらしい。今度こそ、もっと上手く感情を隠さなければならない。
「別に、何も関係ねぇよ」
「嘘言わないで」
「…………」
彼女の静かな威圧に思わず圧倒されてしまう。
「……私には、言えない関係なの?」
アリスはシャワーを止め、俺の返答を聞き逃すまいとしてくる。
「……そうだよ、お前には言えない関係だ」
「…………あっそ」
これ以上追及しても無駄だと思ったのか、彼女はそれっきり何も言わずに沈黙したままシャワーを浴び続けた。
はあ、なんでこう冷たく当たってしまうのだろうか。妹といいアリスといい、俺になんて優しくせずにさっさと突き放してしまえばいいのに。
「まっ、あんたのことだからきっと大丈夫なんだろうけど」
「どこからそんな自信沸き起こってくるんだよ」
「伊達にあんたのクラスメイトやってないわよ」
彼女もまた、俺を見放そうとはしなかった。それが余計に俺の心臓をしめつける。
「……そろそろ帰りたいんだけど」
「あんまり女の子を急かすんじゃないの。モテないわよ」
呆れ声で彼女がぼそりと余計な口を叩いた。
「左様でございますか」
辺りはすっかり暗闇に包まれてしまった。天気予報は外れ、空にはうっすらと雲が細くたなびいている。それによって霞んだ月が白熱電球のように自らの輪郭を滲ませていた。昼間はあんなに暑く感じた空気も、やはりまだ夏ではないのか夜はひんやりと涼しかった。シャワーで濡れた体や髪を風がふわりと撫でていく。
「終わったわ」
振り返ってみれば、そこにいたのはいつもよりもかなり可憐に見える彼女の姿だった。それが月明かりのせいなのか、ほのかに香るシャンプーのせいなのかわからないが、それでも俺は思わず胸がきゅんとしてしまう。
「あ、ああ……」
今度は俺まで歯切れが悪くなる。その艶めかしい姿を見ていられなくて月を眺めるふりをして顔を逸らした。
「……月が綺麗ね」
俺の視線に彼女が合わせて上を見上げる。しかし肝心の月はというと、今は雲で覆われてしまって辺りが薄暗くなっていた。お世辞にも綺麗とは言いがたい。
「いや、雲かかってるし。適当なこと言うなよ」
「適当じゃないわ。本当に綺麗」
「お前、目腐ってんじゃないのか?」
「失礼ね。これでも視力はA以外取ったことないのよ」
彼女は無邪気に自慢してみせる。そんなことを自慢したところで、という話だが。
「俺にはあの月が綺麗だなんて思えないけどな」
「一人で見る景色と、あんたと二人で見る景色とは、全然違うのよ」
夜風が彼女の短い金髪をなびかせていく。それを少し鬱陶しそうに、彼女は揺れる髪を押さえている。シャンプーの柔らかい香りが微かに俺の鼻先をかすめた。
「……ほら、湯冷めしないうちにさっさと帰るぞ」
ぼんやりと暗い空に浮かぶ月を眺めている彼女に声をかける。
「……そうね」
小声でそう返事をした後、彼女も俺の数歩後ろをついてきた。別段家が近いというわけでもなかったので、二人で行動するのは駐輪場までだ。その道中、どこか彼女は切ない笑みを浮かべていたような気がした。
それから俺たちは一つだけ別れの挨拶をして、そのままそれぞれの帰路についた。
ようやく家の前に着いた頃には、もう夜の八時を回っていた。家は明るいので、おそらくはもう妹が買い物を終え夕飯の支度をしている頃だろう。
玄関のドアを開ける。
――その前に、俺は妹へなんと謝罪したらいいのかを考えなければならない。
アリスに言われた通り、悪いのが自分なのは明白な事実だ。だから、謝らなければいけないだろう。普通にすまなかったでいいのか、はたまた何か奢るとか条件をつけたほうがいいのか、いやでもそれだと物で釣っている感じがするし……。
こういうときは、ぶっつけ本番しかない。
俺は扉を開け、靴をいつも以上に丁寧に並べて、まるで他人の家に上がるかのように遠慮がちに台所まで歩いていく。
とうとう俺は腹をくくり、一気に妹の前へ踊り出た。
「小夏、その……今朝は悪かった。心配してるお前の気持ちも全然わかってなくて、本当にごめん」
委縮して目を合わせられない。頭を下げた状態のまま何秒か過ぎた後に、
「あ、お兄ちゃん。おかえり」と、気の抜けたいつも通りの挨拶だけが返ってきた。
「……おかえりって……お前、怒ってないのかよ?」
「今朝はちょっとイラッとはしたけど、今さっき事情は聞いたからさ」
「……? 事情って――」
そこでは初めて、鍋がぐつぐつと煮立つ音も、フライパンの上で油が飛び跳ねる音も聞こえていないことに気づいた。
「――あ、久しぶり、でいいかな? まあそれも変だよね、いつも学校で会ってるし。でもまあ、こうしてゆっくり話すのは久々だからそれでいっか。ね?」
脊髄に直接刺激が伝わる。心臓をいきなり鷲掴みにされたような、そんな衝撃が全身を駆け巡る。
……あれは全て、悪い夢だったのだろうか。
わからない。疲れがピークに達して現実逃避気味な考えが脳裏をよぎる。頭の回転も鈍くなっていた。
が、ただ一つ、はっきりしていることは、
「……久しぶり、由希」
彼女が――俺の知っている彼女が相変わらずにそこにいて、俺のことを覚えてくれている、という当たり前であるべき状況が、今ここにあるということだった。
「ほんと、久しぶりだよね~。小学校のとき以来だから、五、六年ぶりくらい?」
由希が両手で指を数えながら懐かしそうに微笑む。
「……たぶん、そう」
その眩しい笑顔があっという間に俺の心を照らし尽した。
「……あ、あと、ごめんね。昨日声かけてくれたのに、君だれ? なんて訊いちゃって、本当にごめん! 言い訳してもいいなら、昔の冬人くんずっと背が高くなっちゃってて最初わからなかったの。でも昔みたいに優しいオーラが出てたし、もしかしたらって思って……来ちゃった」
「来ちゃったって……」
それはそれですごいことだ。学校でしっかり言葉を交える前にその人の家に上がり込むのは、なんというか、規格外の行動力な気がする。
そんなところも、昔と変わっていなくてほっとした。
「由希さん聞いてくださいよ~、お兄ちゃん、由希さんに忘れられたショックでベッドに潜りっぱなしだったんです。ね?」
「なっ、いらんこと言うなって!」
不敵な笑みを浮かべ、俺をからかうように確認してきた妹を軽くはたく。が、彼女は手慣れた手つきでそれを振り払った。
「ふふ。相変わらず、仲いいんだね。羨ましいなあ」
小突き合う兄妹を見て幸せそうに微笑む少女は、どこか遠い目をしていた。
「よかったね、お兄ちゃん」
耳元で小夏が、まるで自分のことのように嬉しそうに囁いた。その後に「えへへ」と照れ笑いを見せる。
「あっ、よかったら由希さん、夕飯食べていきませんか? すぐできますので」
急な提案に由希は両手を胸の前で振りながら、
「いいよいいよ~、そんな、迷惑になっちゃうし」
「遠慮しないでくださいよ~、二人分作ろうが三人分作ろうが変わりませんし」
「えー、でも……」
「食べてください!」
「うーん……じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな?」
妹が心底嬉しそうに返事をしてからまな板と包丁を用意し、手際よく野菜を切っていく。金属の包丁と木製のまな板とがぶつかり合う心地よい音がテンポのいいリズムを刻みだした。
「……あ、そうだ」
ふと彼女が思い立ったように声をあげ、
「久しぶりに、冬人くんの部屋見たいなあ」
「……別に何も面白いものはないけど」
「いいのいいの! ほら、いこ?」
自分の家だというのに、俺は彼女に手を取られ二階に上がり、俺の部屋へ案内される。
「ほら、入って入って!」
部屋の主より先に入って、勝手にベッドに腰かけた。
「うわー、懐かしいこの感触! よくここで飛び跳ねて怒られてたよね」
彼女が座ったまま軽く体を上下させてぴょこぴょこ跳ねる。
「……お前は変わってないな」
「え、そうかなー? うーん……ちょっと大人っぽくなってない? ほら、髪の毛とかも伸びたし」
そう言って長めの黒髪を手でいじって見せてくる。
「どう? 大人っぽいでしょ?」
どうやら、意地でも大人になったと言ってもらいたいようだ。
「……まあ、成長したんじゃないか?」
「うふふ、ありがと」
満足げに大人っぽい笑みを向ける。
「でも、冬人くんも成長したんじゃない? ほら、手とかこんなに大きくなってる」
「あ、あんまりべたべたすんなって! もう昔とは違うんだから」
少し間を空けて隣に腰かけた俺にすり寄り、俺の右手と彼女の左手を重ねようとしてくる。指先がちょこんと触れたところで居ても立ってもいられなくなった俺は、とっさに身を後ろにはじいた。
「もう、恥ずかしがり屋さんなんだから」
俺をくすぐるように笑った彼女は立ち上がり、今度は俺の机に向かう。
「あー、まだこの写真持ってたんだー」
彼女が手に取りこちらに掲げてきたそれは、俺と彼女とが小学生の頃に雪だるまを二人で作ったときのものだった。真ん中に二つの雪だるまが肩を並べて居座っている。その両側に、彼女はピースサインをしながら満面の笑みで、左側に写った少年は釣り糸で引っ張り上げられているみたいにぎこちなく口角を上げていた。
しかしこれは、確かに机の引き出しの奥にしまっておいたはずのものだった。彼女を必死で忘れようと、幼かった少年なりの意思の表れだったはずだった。
なのに、何故かそれが机の上の目立つ場所に置かれていた。ご丁寧にフレームまで付けられた状態で。
なんとなく、誰の仕業かは予想できた。
「懐かしいなあ。このとき冬人くん、ふてくされてたんだよね。私とどっちが上手く雪だるまを作れるかって勝負してて、結果は見ての通り私の圧勝だったもんね。それでムスッとしちゃってさ」
懐かしのその写真に思わず見入ってしまう。彼女の側に立っている雪だるまは綺麗な八の字の輪郭を取っているが、一方の俺のはというと、ぐちゃぐちゃに形が崩れており、ところどころに土が混ざって見るも無残な姿だ。
「……だって、お前に負けたのが本気で悔しかったから」
心底悔しかった俺は「ほら、笑って笑って」とせがむ彼女の母親の言うことを素直に聞かず、こんな堅い表情を纏ってしまったのだ。
「私、手先は器用だからね。それに、私だって冬人くんに負けたくなかったし」
彼女の手先が器用なのは生まれつきだ。それこそ天才としか形容できないような、そういう生まれ持った才能だった。
「……ピアノ、今でも続けているんだな」
「あ、もしかして、昼休みの話聞こえてた?」
俺は黙ってそれにうなずく。
「今でも続けてるんだけどね、最近はずっと不調なの。けど皆に言っても全然信じてもらえなくて」
《僕だけは気づいているから》
「……うるさい」
「え?」
「あ、いや、なんでも……」
気づいているだけじゃダメなのに、それを何度言ったら《僕》は気づいてくれるのだろうか。行動に移さなきゃ意味がないことを、《僕》はいつになったら理解するのだろうか。
――俺は、いつになったら動き出すのだろう。
「…………?」
彼女は変わらずにきょとんとしたまま首を傾げている。
「……なあ、もし困ったことがあったら俺に――」
「由希さん、ご飯できましたよー! ほら、お兄ちゃんも早く!」
勢いよくドアが開き、エプロン姿の小夏がずかずかと入り込んでくる。
途切れた俺の言葉を気にするように横目で俺に視線を送ってくきた。
「……よし」
その視線を静かに受け取った俺は、ゆっくりと立ち上がって、
「……飯、食べるか」
その言葉に妹が「ささ、早くしないと冷めちゃいますよ」と被せてくる。由希はまだ戸惑っていたが、それでもすぐに、
「うん、冷めたら美味しさ半減だもんね」
と言って妹の後に続いた。
二人が去った後の部屋を見渡すと、いつもと変わらないはずの部屋もどこか殺風景に見えた。小物にもこだわらないため、元から殺伐とした場所ではあったが、それがより一層引き立てられている。
電気を消すとさらに寂しさが増した。遠慮がちに、それでも精一杯自己主張しようとする街灯が強く室内に差し込んできた。俺はそれを見て自嘲気味に笑みを浮かべてから、二人の後を追った。
リビングに着けばすでに二人が席についていた。
「もう、お兄ちゃん遅い! あんまりお客さん待たせちゃダメでしょ!」
妹に怒られながら、「へいへい」と生返事をして一番キッチンに近い自分の定位置に座る。
「ではでは、お兄ちゃんと由希さんの再会を祝して――」
すると突然、聞きなれない携帯の電子音が響く。なんでもない通知音のはずなのに、何故だか俺にはむずがゆい不協和音のように聞こえた。
その音に気づいた由希が鞄から自分のスマホを取り出す。急に表情が暗くなったのが見て取れた。
「…………ごめん」
「どうかしましたか?」
「……今すぐ帰ってこいって、言われちゃって」
「…………」
事情を知っている妹が気まずそうに沈黙する。
「……ま、仕方ないんじゃねぇの?」
妹に変わって言葉を続けた俺に対して妹も由希も目を見開いて驚愕する。まるで時間が止まったかのように固まっている。
が、一番驚いていたのは自分自身だった。まさかこんな言葉が平然と出てくるとは思いもしなかった。
きっと疲労のせいだ。たった一日で目まぐるしく状況が変わり、心身ともに疲れているのだろう。
ちらりと横目で由希を見た。彼女ははっと我に返ったと同時に薄ら笑みを浮かべ、魔法が解けたように再び時間が流れ出した。
「ほんと、ごめんね。中途半端に返事しちゃって。ご飯も作らせちゃって」
その言葉に反応し今度は妹が喋り出す。
「いえいえ、気にしないでください。ご飯はお兄ちゃんが処理してくれますし、また時間があるときに来てくださいよ」
「うん、そうする」
無茶を言う妹を尻目に、早々と帰り支度を済ませ、早足気味で玄関へと向かう。
「じゃ、また来るね」
「はい! ぜひまた!」
「冬人くんも、また明日学校でね」
「……ああ、また明日」
彼女が淑やかな笑みを浮かべるのを見て、何故か泣きたくなってしまった。
ああ嫌だ。
一瞬だけ、彼女が寂しそうにするのが見えてしまったのだ。彼女の笑顔の裏に隠された気弱な陰りを、見つけてしまった。気づいてしまった。
彼女が元気いっぱいに手を振る。それに応じて妹も全力で手を振った。
俺に対しては、彼女はそっと手を上げただけだった。だから同じように俺も右手を小さく上げる。
彼女は早歩きで帰っていた。もうその姿は完全に暗闇に溶け込んでいる。
ふと、あるメロディーが脳内で流れ始めた。それは俺がこよなく愛したはずの曲。うなるように変化していく旋律に魅了され、それを奏でる少女に惹かれたあの音楽。
そうだ。思い出した。
ラ・カンパネラ。俺を招いた最初で最後の演奏会で、彼女が奏でた曲。
そしてそれは、彼女が唯一、優勝を逃した演奏会でもあった。
そのときに彼女に変わって優勝した男の名を、俺は死してもなお忘れることはないだろう。そのくらい克明に、俺の頭に彫り込まれている。
藤野幸樹。彼もまた、彼女に匹敵するくらいの天才ピアニストだった。
「やあ、久しぶり。横山冬人君」
昼間のあの言葉が脳裏に蘇ってくる。あの人を小馬鹿にしたような響きが鼓膜に張り付いてしまってはがすことができない。
彼女の姿はもう完全に夜の闇に吸い込まれていた。もう手を伸ばしても引っ張り上げることはできない。彼女は帰らざるを得ないのだ。
彼女の、婚約者の元に。藤野幸樹という、俺がこの世で一番憎んでいる人間の隣に。