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君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
本編
2/19

彼女を想う

「ほらー、お兄ちゃん! 早くしないと学校遅刻しちゃうよー?」

「…………頭痛い」


 いつも学校をサボる理由で使っていたが、今日だけは本当に頭が痛かった。頭が痛いし全身がだるい。体じゅうに重力の激しい圧迫感を感じる。


「もう……ちゃんと学校行かないと、内申に響くよ?」

「……るせぇな、わかってるよそんなこと」


 妹が部屋に入り込んで起こしにきた。おそらくもう制服に着替えている頃合いだ。

 本当に具合が悪いのだが、嘘をつき続けた俺は、妹からも既に信頼を失ったようだ。肝心な時に真実を言っても信用してもらえない。ふとイソップ物語に出てくる羊飼いの少年を思い起こした。どうしようもない無力感に陥ったが、今日はそんなものは全く気にならない。


「お兄ちゃん、今年大学受験なんだから、もっと真剣に将来を考えないと」

「…………」


 正直、今は将来のことなんて考えている暇がない。目の前のことで手がいっぱいだ。


「……勉強つらいのはわかるけど、今頑張らないと」


 ……わかっている。

 けど、今つらいのは勉強じゃない。


「それに、お兄ちゃんやればできるんだから」


 ……わかっている。

 やればできると言うのはただの言い訳だろう。やっていない者の言い草だ。哀れでちっぽけな俺にはよく似合う言葉だ。


「お兄ちゃん昔から――」

「お前なんかに、俺の何がわかるんだよ」


 喧嘩は絶えない仲だが、こういうふうに冷たく鋭く言い放つことはなく、いつもはもっと激しく、乱暴な言葉で言い合うのだ。そのせいか静かな怒りの籠った冷淡な言葉に、妹を見るとかなり気圧されている様子だ。それを見て、少し申し訳ない気持ちになる。

 それでも彼女は、


「……もし、何か悩み事があれば私に相談してよ? お兄――」

「早く行けよ、遅刻するぞ」

「……行ってきます」


 静かに立ち去る彼女。拒絶されてもなお俺を気遣ってくれる。

 本当に、俺に似なくてよかった。


「――ちゃんと、学校は来なよ?」


 どんなに拒絶されようと、それでも扉の閉まり際にさらっと優しく言い置いていく彼女は、いったい俺よりどれだけ大人なのだろうか。どんどん自分が下等な生き物に思えてくる。


「……くそ」


 再びまだ暖かい布団に潜り込む。今日はこのまま一日こうして時間を潰してしまおうかとも思ったが、妹も言うように俺は受験生だ。内申書に響くかどうかではなく、授業をしっかり受けないとまともに皆についていけない。だから授業をサボるのはかなり致命的だった。

 それでも、頑張ればなんとかなると思い込んでサボりを繰り返してしまう俺は、弱くてちぽっけだな。


 ――そんな俺が、彼女にそっぽを向かれても仕方がないだろう。


「……本当に、お前は忘れたのかよ、全部。俺のことも、俺とも思い出も何もかもを……」


 怒りと悲しみと喪失感で胸がぐちゃぐちゃにかき回されて、気持ちが悪い。


 時間割を見る。今日は午後に主要な三教科である、国数英が集中している。どうやら午後からは行ったほうがよさそうだ。

 彼女の顔を見るのはかなり気まずいものだったが、そうは言っていられないのが受験生だ。このサボりが命取りになるかもしれない。


 そう、勉強をしに行くだけだ。別に彼女がどうとかは関係ない。彼女が俺を忘れていようが、もう自分には全く関係のないことなのだ。


「……関係、ないことだ」




 ちょうど昼休みの時間に着くように見計らって、俺は家を出る。まだ春のぽかぽかとした陽気を感じるが、日差しに焼け焦がされてしまいそうで、太陽がまぶしく感じる。もうすぐそこに、夏の匂いもした。


 学校へは、自転車で25分ほどだ。でも今日のその25分は、1時間以上にも感じた。


「……気まずい」


 駐輪場に着いてから、なかなか昇降口までの一歩が出ない。腕時計を見ると、まだ12時20分だった。昼休みが始まるまで、後10分ある。長い長いと感じてたはずなのに、何故かいつもより早いペースで来てしまったらしい。


 あと少し、ここで時間を潰さないとな。


 授業中に教室に入れば、それは当然全員の視線を一斉に受けることになる。それは嫌だったし、何より彼女にも見られていると思うとさらにきまりが悪い。手持ち無沙汰になってしまったので、なんとなしにスマホを取り出して電源を入れたり消したりしてみる。そこに反射している自分の顔を見て動く気力が余計に削がれた。


「――校内では、携帯電話使用禁止なんだけど」


 見ると、スマホの真っ黒な画面に西洋人形のように目鼻立ちの整った少女が映っている。


「別にいいだろ、皆やってるし。それにここは外だしセーフだ」

「外は外でもまだ学校の敷地内でしょ。変な屁理屈こねないの」


 少女は短い金髪をさらりと手で流しながら、左足を軽く引きずるようにしてこっちにやってきた。


「……足、ケガしたのか」

「……今朝階段踏み外して」

「ドジだな」

「う、うるさい!」


 鞄で俺に殴りかかってくるが、それほど痛くはない。五年も経てば力加減もわかってくるようだ。


「大丈夫なのかよ。もうすぐ大会だろ?」

「平気よ。二、三日で治るし、そんなに激しくなかったら運動しても大丈夫って言われたから」

「……気をつけろよ。お前ら期待されているんだから」


 彼女――水無月アリスは、俺の中学1年のときからのクラスメイトだ。そして、この高校の女子硬式テニス部のエース兼部長でもある。毎年関東大会で上位に入るチームで、毎年毎年インターハイ出場を期待されているのだ。当然、彼女自身も相当な腕前だ。


 対して――


「あんたも、他人事じゃないでしょ?」


 俺たち、男子硬式テニス部はというと、地区大会で1回勝てればいいくらいの弱小である。当然、俺も相当な下手さ加減だ。


「俺らはいいんだよ。お前らと違って期待もされてないしな」

「……最後の大会くらい、もっと気持ち込めなさいよ」


 アリスが不機嫌そうに眉をひそめる。額には汗が滲んでいた。

 肌を刺すような強い日差しが、じりじりと迫ってくる。まだゴールデンウィーク前だというのに、今年の夏は早い。俺も汗がじんわりと噴き出してくる。


 これじゃきっと、ゴールデンウィークの大会もかなり暑くなるのだろう。


「じゃ、私先に行くから。あんたもさっさと来なさい」


 外の部活にも関わらず真っ白で、丁寧にテーピングが巻かれた左手を後ろ向きで小さく振る。よく見ると、ケガをした足はもちろん、それ以外にもテーピングが巻かれている場所がいくつかあった。彼女の努力の証を俺は直視できなくて、彼女の奥にある薄汚れた校舎の壁を見つめる。


「……後5分、か」


 スマホのデジタル時計は12時25分を知らせていた。


 ……暑い。


 さっさと教室へ行ってしまいたい。っていうか、いっそ帰りたい。

 が、甘い誘惑に誘われながらも俺はきっちり5分間耐え続け、4時間目終了のチャイムが鳴ったのを確認してから、教室へと重い足を引きずるように動き出す。


「――お、なんだ冬人、今日も重役出勤か?」


 その手前の廊下で、購買からの帰りなのか、ひょろりと背の高い青年は手にパンを三個も抱え込んでいる。


「相変わらずバランスの悪い食事だな。ちゃんと栄養考えろよ、だからそんなにひょろいんだぞ?」

「お前だって、人のこと言えないだろ。筋肉無さすぎて懸垂5回もできないくせに」

「1回1回降りてジャンプすればいけるし」

「それ懸垂って言わねーから」


 男子硬式テニス部、通称男テニの部長がゲラゲラと快活に俺を笑ってくる。


「――あ、関口君。中村先生が呼んでたよ? なんか部活のことでって」


 よくこいつと話をしている少女が二人の他愛もない会話に割って入ってくる。


「あ、やべっ! 昼休み来いって言われてたんだった!」


 関口君、と呼ばれた青年は、慌てて俺に向かって、


「なあ冬人、悪いけどこれ俺の席まで持ってってくんね? じゃ」

「おい亮――」


 俺の返事を待つ前に颯爽と職員室へ走っていく。


「ちょっと関口君! 話はまだ終わってないって! 職員室じゃなくて小会議室に変更になったって中村先生が……って、全然聞こえてないし」


 少女が呆れたように、遠い目で見えなくなったはずの亮の背中を見つめている。


「ほんと、関口君はせわしないなぁ。横山君はよくそんなのに付き合ってられるよね?」

「……もう慣れたよ」

「あはは」


 1つ作り笑いをしてから、


「あ……じゃあ私そろそろ行くね?」


 階段の陰に消えたはずの亮の残像を追いかけようと、彼女もまた必死に走り出す。廊下でたむろっている生徒の間を縫うようにくぐり抜け、少女も同じ場所へと消えていった。


 ……青春、してるな。


 新しくなったばかりで滑りがやたら良い扉を開ける。教室に入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは端の机に群がるイケイケ系の男女五、六人のグループだ。


 正しく言うなら、机に群がっているというより一人の少女に引き寄せられていると言ったほうがいいのかもしれない。


 少女――萩原由希が転校してきた始業式からはや3週間ちょっと。まだ転校生という熱はこのクラスを興奮の渦に巻き込み続けていた。

 人付き合いが苦手だったはずの俺の幼馴染みは、今ではクラスの中心になるほどの人気者だ。それは嬉しいようで、どこか寂しかった。


「授業もサボり教室に来ないで購買でパン買ってくるとか、ちょっと引くんだけど」


 先ほどの金髪少女――アリスがパンを腕いっぱいに抱え込んだ俺を見下すような視線を送ってくる。


「いやいや、これ俺のじゃなくて亮のだから」


 まあサボったのは事実だけど。


 自然と、彼女の机のほうへと意識が向いていった。


「……なにお前、弁当2つも食うのか?」

「ち、違うわよ!」

「じゃあなんで二つあるんだよ」

「…………ん」


 返事かどうか怪しいが、その言葉をと同時に1つ弁当箱を俺に差し出してくる。


「……は?」

「だから、さっさと受け取りなさいよ! 勘違いされるじゃない!」

「……つまり、お前が俺のために弁当を余計にわざわざ作ってきてくれたってことか?」

「そ、そんなんじゃないわよ! これは私が作ったんじゃなくて……」

「じゃあ誰だよ」

「…………ま、まあ、どうしてもって言うなら別に作ってあげてもいいんだけど」

「……で、誰が作ったんだよ」

「無視すんな!」


 今度は分厚い現代文の教科書でどつかれそうになる。


「へいへい、じゃあ今度作ってきてくれよ」

「じゃあって何よ、じゃあって…………まあ、今度……ね」


 照れるようにして顔を俯きながら小声で付け加える。


「……で、それはお前が作ったんじゃなきゃ誰が作ったんだよ?」

「小夏ちゃんよ」

「…………なんであいつが」

「『直接渡さないの?』 って訊いたんだけど、『お兄ちゃんと今ちょっとあれで……』って言葉を濁してたから……もしかしてあんたたち、また喧嘩でもしたの?」

「喧嘩っていうか、あいつが余計な心配してくるからちょっとイラッとしたっていうか」

「余計に心配かけてんのはあんたでしょ」

「まあそりゃあ、そうだけど……」


 正論を言われ言葉が詰まる。


「あんまり心配かけんじゃないわよ。小夏ちゃん、昼休みになったらすぐに中学棟からこっちに走ってきてくれたんだよ? 親しき中にも礼儀あり。ちゃんとお礼言っておきなさい」


 中高一貫のこの学校は校舎が2つに分かれている。妹のいる中学棟からここまでは、中央廊下をはさんで、最短距離でも結構な距離があった。俺が購買に行く前に弁当を渡そうと必死に駆けてきたのだろう。そして着いてみたらまだ俺は学校に来ていなかったのだ。その瞬間の姿を思い浮かべると、やはり罪悪感に駆られる。


「……はあ、わかったよ」


 まさかハーフの人間に日本の礼儀を説かれるとは思わなかった俺は、半ば感心しながら敬意も込めて了承する。


 英国にも礼儀のようなものがあるのだろうか? 英国紳士って言うくらいだし。


「ほら」


 改めてそのピンクの弁当箱を差し出してくる。兄の弁当箱をピンク色にするあたりのセンスは疑うが、まあありがたくいただくことにしよう。

 それを黙って受け取り、アリスの右隣にある自分の席に荷物を置く。そして前の机にパンを置いてから、席について弁当箱を広げた。

 玉子焼き、ハンバーグ、ミニトマト、ブロッコリーなど、自分の好みに合っていながらなおかつ彩りも栄養もきちんとバランスが取れている。一口玉子焼きを頬張ってみると、自分の好きなしょっぱい玉子焼きの優しい味わいが広がった.


……うまい。


 帰ったら、ちゃんと謝ろうと思った。


「――へぇー、由希ちゃんってピアノ弾けるんだー、すごいね」

「えー、そんなことないよー、私より上手い人たくさんいるし」

「またまたぁー。私、知ってるんだよー? 小学生のとき全国1位を取ったって」

「いやいや、昔のことだよー。今は全然だし」


 鬱陶しい言葉が聞こえた。一人の少女と、それを取り巻く雑踏との会話だ。少女が困ったような声色をしている。元来人見知りの彼女は、やはりまだ人との会話は苦手のようだ。


《助けないのか?》


 僕が呟いた。


《僕なら助ける》


 ……別に、俺には関係ない。


 それだけ言うと、彼の声も聞こえなくなった。聞こえるのは気持ちの悪い甲高い女子たちの声。それに入り混じるように下心丸出しの男の声も聞こえる。

 それが耳障りで、俺は弁当の蓋を開け放ったまま席を立ち、廊下へ出る。


 ああ、どうして俺はいつもこうなんだろうか。どうして――


 その考えは、いつもいつも自分の中で堂々巡りしているものだった。


 いつだって気づくのは簡単なのだ。誰が今何を思っているのかがなんとなくわかる。他人の苦しみが痛いほどわかる。これはたぶん、自分の長所だろうと思う。

 だけど、たとえ気づいたとしても俺は動けない。いつだってそうだ。気づいても俺には何もできない。それがひどくはがゆくて苦しいのだ。


 彼女は今、助けを求めている。


 それでも頼りない俺は、きっと彼女を救い出せないだろう。永遠に、永久的に、彼女の手を取ることは叶わない。

 それは昔から、それこそ彼女と過ごしていた幼い頃から、僕は気づいていた。


 廊下に出ると、涼しい風が1つ吹き抜けた。俺を嘲笑うかのように、それは俺の横を追い抜いていく。あっという間にそれは俺の手の届かないところまで行ってしまった。


 俺から、彼女を遠ざけてしまった。


「――やあ、久しぶり。横山冬人」


 皮肉たっぷりに、嫌みのこもった薄汚い声が耳の奥底に突き刺さってくる。殺したいほどに憎み、恨み、羨んだあいつの声。


「…………」


 俺は何も答えない。ただじっと、その男の眼だけを睨みつける。だが、相手は全く動じない。眉一つ動かさずに、こちらに微笑みかける。


 ピエロのような笑い顔。人を見下すような声。その顔も喉元もここで食いちぎってやりたい。切り裂いて殺してしまいたい。


 一瞬で俺の脳内に男を殺す映像が連続して流れる。頭の中で俺は何度もこいつを殺す。その度に快感が襲う。けどそれだけじゃ我慢できず、また妄想が始まる。


「無視はつらいなぁ、僕は君と仲良くしたいだけなのに……。それとも――」


 薄気味悪い笑みを浮かべる。おぞましい笑顔。見ているだけで吐き気を催す。それでも俺は眼を飛ばし続ける。臆病で弱い自分なりの必死の抵抗だ。


 俺は、こいつが嫌いだ。嫌いという言葉じゃ片付かないくらいに憎らしい。なぜなら――


「それとも、彼女を奪った僕が、そんなに憎いのかい?」

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