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君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
番外編
19/19

彼を想う(後編)

 それ以来、ずっと私は彼の背中を追い続けていた。高校も、彼と同じところへ進むことにした。

 中学時代から高校全て、彼と同じクラスになれたのは奇跡だ。恥ずかしながら、運命すら感じた。もしかしたら運命の赤い糸で結ばれているのではないかと。


 しかし、それはいとも簡単に打ち砕かれた。


 彼女が――由希が高校三年になると同時に転校してきたとき、彼の目の色が変わった。


 ああそうか。彼女がその大切な人なんだ。


「大切な人に、酷いことをして別れてきた」と、彼は言っていた。その大切な人こそ、この少女なんだと直感した。

 彼に告白できないまま、何年も経って、おどおどしている間に彼の大切な幼馴染みが現れた。もう完全に、私はお邪魔虫だ。


 はっきり言ってしまえば、私は由希が嫌いだった。ここ何年も彼の側に居たのは私なのに、それよりも長い過去の時間を彼女は彼と過ごしていたのだ。

 そう考えてみれば、羨ましかったのかもしれない。私にはないものをたくさん持っている彼女が、妬ましかったのだ。


 でも、あのとき、映画を皆で観にいったとき。冬人と亮がトイレに行っている間に、彼女は私に言った。


「アリスちゃんってさ、冬人くんのこと、好きでしょ?」


 私は顔が真っ赤になったことくらい、自分でもわかった。


「ち、違っ――」


 そう誤魔化そうとして、私は思わず言葉を飲み込んだ。

 いつの間にか、ずっとにこにこしていた彼女が、真剣な眼差しで私を見ている。


「……うん、好き」


 思わず口が勝手に動いた。彼女がじっと私を見つめている。澄んだ瞳に綺麗な黒目で、女の私でさえドキッとしてしまいそうだった。


「……だよね! 最初会ったときからそうなんじゃないかなーって思ってたんだぁ」


 さっきの表情はどこへやら、いつも通り子供みたいにはしゃいぎ、私の手を取って強く握手をしてくる。


「私もね、冬人くんのこと好き。ね、冬人くんのこと、二人でいっぱい話そ?」


 それから私たちは、よくSNS上でも会話をするようになった。




 あれ、左足が動かない。痛い。


 何が起きたのかわからなかった。ただ私はいつの間にか階段下でうつ伏せになって倒れ、立つことができない。


 痛い。


 微かにどこかが痛んだ。


「…………」


 冬人が無言のまま、早足で私の横を過ぎ去っていった。


 逃げた。


 そうだ、彼が私を突き落としたんだ。そして彼は今、私から逃げた。


 優しかった彼の非情な一面を見て、私はひどく幻滅した。足よりも胸が痛んで苦しかった。


「――アリスちゃん! どうしたの!?」

「……別に、な、何でもない……」

「何でもなくないよ! だって……その足……」


 自分でもわからない。何故咄嗟にそんな嘘をついたのか。何のためについたのか。誰のためについたのか。足首は化け物のように膨れ上がっている。どう見たって何でもなくない。


 守らなきゃ。


 ふいに頭に思い浮かんできた。


 守らなきゃいけない。


 誰をだろう?


 彼を、守らなきゃいけない。


 何故かはわからない。気づくと私は彼をかばっていた。由希から問い詰められても、彼は関係ないと言い切ってしまった。


 なんでだろう? 私はまだ彼が好きなのだろうか。怪我を負わせた彼を、私はまだ好いているのだろうか。


「冬人くんを、嫌いにならないであげて。いつか必ず、向き合ってくれる日が来るから。もうちょっとだけ、待ってあげて」


 その答えが出ないうちに、由希からそう告げられた。目が合うたびに何度も、彼女は懇願してきた。


「お願い」


 まるで自分のことのように、彼女は深々と頭を下げた。


「……なんで、そこまでするのよ」


 たまらずに私が尋ねると、


「大切な人だから」


 淡白に、それだけを言った。


「……普通、女の子に手を上げる男なんて幻滅するんじゃないの?」

「たぶん、そんな簡単に嫌いになれたら、こんなに苦しくはない」


 苦悶の表情で、ぐっと何かを堪えるようにして彼女は言葉を発した。


 ああそうか。そうなのか。

 やっと、自分の中の苦しさの原因がわかった。

 たぶん私も、それでも彼が好きなのだ。好きで好きで仕方がないのだ。だから私は彼をかばった。彼が傷つかないように守ってあげたくなったのだ。


 そして由希の言う通り、彼は私と向き合った。不器用に、でも素直な気持ちを私にぶつけてきた。


 亮から告白されたことも、彼は知っていた。覗いていたらしい。が、おそらく最後までは聞いていなかったのだろう。それだけが救いだ。


「ずっと前から好きだった」

「……ごめんなさい。私、好きな人がいる」

「冬人か?」

「……うん」

「あんなことされてもか?」

「……それ以上に、私は彼に救われた」

「きっとそれも、あいつの偽善だぞ。打算的な偽善だ。あいつは水無月が思っているように性格が腐ってる」

「……それでも、私が救われたのは変わらない。偽善でも、私がそれに助けられた。だから私は、冬人が好き」

「……そっか、そうだよな。知ってた」


 私は自分の気持ちを言葉にするのに必死だったせいか、彼の表情も、何を言ったのかもいまいち記憶が曖昧だが、たぶんこんな会話だった。

 これを冬人に聞かれたらと思うと、途端に体中が熱くなる。


 その日だったっけ、由希から突如、お泊まり会がしたいなんて言われたのは。


 友人が少ないのを感づいていた父親と母親にそのことを伝えると、大喜びで由希を迎え入れてくれた。イギリスの家庭料理は不味いと評判だったので、私は両親に日本の料理を出してくれるようお願いすると、由希は遠慮しながらも、「美味しい!」と言ってたくさん食べてくれた。


「……アリスちゃんはさ、冬人くんのどこが好き?」


 夜、電気を消して二人で布団に入った後、彼女が唐突に「コイバナ」を始める。


「……不器用な、ところ」

「わかる! もう母性本能くすぐられるよねぇ」


 目が暗闇に慣れてくると、彼女の表情もよく読み取れるようになった。どこか嬉々として彼女は興奮している。


「……由希は、他にどんなところが好きなの?」

「優しいところ。だから私は冬人くんに救われたの」

「……私も、救われた。ずっと一人だったから、すごく嬉しかった」


「わかるわかる! いやー、アリスちゃんとはいい酒が飲めそうだよ」なんてオヤジ臭いことを言う彼女は、とても幸せそうだった。


「……実はね、私、本当は東京から直接パリに行くつもりだったの」


 何の前触れもなく、彼女の言葉が空を切る。


「けどね、いつ戻って来れるかわからないから、一回生まれ故郷を見たくなっちゃって」


 郷愁を覚えたとでも言うのだろうか。私は東京に対してそんなことを思ったことはなかったが、ここら辺のような田園風景がチラホラ広がる場所には、そんな思いを抱いても不思議ではないと思った。


「そこでね、ふと思ったの。冬人くんは今も、ここにいるのかなって」


 寂しそうに、彼女が囁く。


「私と冬人くんって、酷い別れ方しちゃったんだよ。さよならすら言わなかった。私は言おうとしたんだよ? 手紙で冬人くんを呼び出したんだけど、彼は来なかった」


「まあ呼び出した日が、大雪で休校になっちゃったんだけどね」と諦め半分で彼女が付け加えた。


「それでも、彼なら来てくれるって信じてた。だからそれを裏切られたとき、すごく悲しかった。本当は私が先に彼を裏切ったんだけどね、まだ子供だった私は他人のせいにしかできなかった」


 幼い頃の間違いなんてそんなに思いつめなくてもいいような気がするが、彼女は心底後悔するようにぎゅっと唇を噛みしめた。


「忘れようとしたの、冬人くんのこと。そんな最悪最低な人間なんて忘れたほうが楽だって、無理くりに思い込ませてね」


「馬鹿みたいだよね」と自嘲気味に言う。


「それが、大人になることだって。私は大人になるんだって。そうしたら不思議と、ピアノも周りからたくさん評価されるようになったの。『綺麗な曲だ』って、『感情が抑えられていて聞きやすい曲だ』って」


「大人になる」と確か彼も言っていた気がする。「我慢のできる人間になる」と。それと同じようなことだろうか。


「けど違う。私が弾きたいのはそんな曲じゃなかった。冬人くんの前で弾いたときがすごく恋しかった。あんなに感情を剥き出しにできたのにって」


 彼女にとって、彼の存在がどれほど大きかったか、私には想像できない。私だって相当な部分彼の存在が占めているが、彼女はきっと、それとは比べ物にならないほど、心の中を彼が占領してしまっていたのだろう。


「……だけど、私は忘れようって決めていたから。彼のことは忘れなきゃって」


 子供の頃の思い込みというのは、意外と心の奥底にこびりついて離れないものだ。私もその経験あるためか、すごく共感できた。


「気がつくと私は、彼のいる教室にいた。父親には確か、高校生として、青春をギリギリまで楽しみたい! なんて言ったんだっけ? よく覚えてない」


 しばらく彼女が黙り込む。じっくりと、こみ上げてくるものを堪えていた。


「彼がいた。同じ空間に、同じ空気を吸っている彼がいた。それがすごくすごく嬉しくて、ドキドキした」


 震える声を、彼女が絞り出す。


「だから、彼から話しかけられたとき心臓が飛び出るくらい心ははしゃいでいた。けれど、どこかでまだ、彼と関わっちゃいけないって思い込んで、最初は彼を突っぱねたの。君のことなんて知らない、覚えてないって」


 嗚咽が聞こえる。私はそれを聞こえていないふりをした。彼女が大きく深呼吸をし、言葉を続ける。


「すぐに後悔したけどね。そして私は彼の家に行った。そうしたらさ、冬人くん目を真ん丸くさせてびっくりしてさ。それがとても嬉しくて、すごく罪悪感を覚えた」


 彼女が強く布団を握った。


「結局、また私は冬人くんを頼った。私は彼に何一つしてあげてないのに、それでも彼は、私に優しくしてくれた。あろうことか、彼からあのときの別れ方を謝ろうとまでしてくれているようにも感じた」


 辛そうに、苦しそうに、彼女が言葉を並べる。こっちまでその波紋が広がり、泣き出しそうなほどだった。


「やっぱり彼が好きだったんだって。無理やり押し込めて馬鹿みたいって思った」


 真っ直ぐな声で、迷いのない澄んだ声で彼女が言う。


「だから、絶対に言う。好きだって、私は彼に伝える」


 据わった瞳が遠くを見つめる。彼女が滅多に見せない、真剣そのものの表情だ。


「二日後に、パリに行くの」


「ごめんね、言うの遅くなっちゃって」と、彼女は軽く謝罪を交えてから、


「だから私はそれまでに、彼に告げなきゃいけない。この気持ちを絶対に、表現する」


 ああそうか、彼女は天才なんかじゃない。ただの女子高生なんだ。

 だから私は、こんなにも共感して涙まで溢れてくるのだ。私と何ら変わらない、ただの恋する少女なんだ。


「……応援してる」

「……えへへ、ありがと」


 照れてにかっと笑ってみせた後、柔らかい口調で私に告げた。


「アリスちゃん、一つ、お願いがあるの」


 その瞳は私を見ている。同性でも、思わず意識してしまうほどの綺麗な瞳なのだから、彼が恋に落ちるのも納得がいく。


「どうか、せめて卒業するまでは、彼を好きでいてあげて。彼にはきっと、一途に想ってくれる人が何よりも必要だから」


 なんだ、そんなことか。


 私は構えていた肩の力をすっと抜き、


「言われなくても、そうするし。そうなるわよ」

「……よかった」


 彼女はほっとして胸を撫で下ろした。そして再び、柔和な眼で私を見る。


「アリスちゃん。冬人くんを、どうかよろしくお願いします」

「……はい」


 娘をお嫁に行かせる父親のように、丁寧な口調で彼女は言った。


「じゃ、おやすみ」

「うん、おやすみ」


 この日のことは、口が裂けても彼には言えない。墓場まで持っていこうと思う。由希のこんな弱い一面を、彼に言ってはいけない。この天才少女が、考え過ぎちゃうただの面倒くさい女子高生だったなんて、彼は知らないほうがいい。

 話し疲れたのか、彼女はすでにすーすーと可愛らしい寝息を立てていた。


 こんな顔、彼には見せられない。


 独り占めしている優越感が、たまらなかった。

 彼も彼女も、無理やり大人になろうとした。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。


 いつかは私だって大人にならなきゃいけないときが来る。子どものままじゃいられない日が必ず来る。


 そのときに私がどう成長するのかなんて想像できない。いつの間にかなっているかもしれない。

 けれどおそらく、一人じゃなれないのだ。誰かと一緒に、励まし合ったり傷つけ合ったりしない限り、私は大人にはなれない気がした。

 彼らを見ているとどこか、大人になることすら、私には難しく感じられた。

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