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君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
本編
16/19

これからの未来

〈明日の放課後、音楽室で待ってるね〉


 俺がその紙切れを拾うと、そこには鋭く整った文字でそう書いてあった。


 大人びた文字だ。


 誰の書いたものなのかはすぐにわかった。あのときから大分時間が経ち、あざとい丸文字ではなくなっていたが、その形から微かな柔らかさを感じ取った。


 アリスはもう帰ったようだ。彼女の出席番号の下駄箱が開け放たれており、学校指定の上履きが一足しまい込まれている。

 彼女のドジを薄く笑いながら、俺はその扉をそっと閉めてやった。


 外は、雲一つない月空だった。街灯さえなければきっと、たくさんの星々を見ることすらできただろう。東の空にも雲はない。


 明日は、ほぼ確実に晴れる。


 前と違って逃げ道はない。だが、逆に好都合だ。抜け穴さえ見つければすぐにでも逃げ出す俺にとっては、頑丈な牢獄の中に閉じ込めてもらったほうがいい。


 靴を履いて外に出でると、ワイシャツでは少し肌寒いくらいだった。


 ひとまずは、目の前のことを耐えないとな……。


 小さな嘆息を漏らし、自転車の鍵を解く。

 そして小夏の説法を覚悟しながら、俺は家路を急いだ。




 いつもと変わらない日常が、そこにはあった。横ではアリスが文庫本を開き、たまの休みにチラチラと俺のほうへ視線を泳がしてくる。「なんだよ」と俺が返すと、「……別に、なんでも」と、伏し目がちになる。

 亮も亮で、「前はひでーこと言って悪かったな」なんてケロッとしていた。どこか吹っ切れたようにすら思える。


 前とほとんど変わらない景色が、俺の周りには広がっていた。


 ――彼女を除いては。


「ねぇねぇ知ってた? 由希ちゃんがパリに行くってこと」


 よく由希と仲良くしていた茶髪の女子がひっそりともう片方の女子へ耳打ちする。


「全然だよ。一言くらい私たちにあってもよくない?」

「ほんとそう。なんか、変な子だったね」


 ひそひそ話をするならもう少し声のトーンを抑えろと言いたい。おそらく周囲数メートルには聞こえている。

 そう。由希だけは、もう教室にはいなくなっていた。朝のホームルームで唐突に担任から話があったのだ。


「突然だが、萩原はパリに行った。本人たっての依頼で、そのことは誰にも言わないでほしいとのことだ」


 彼曰く、彼女は誰にも言わずにこの教室を離れようとしたかったらしい。


 何もわかってない。


 由希はそんな薄情なやつじゃない。彼女の大切な人間にはちゃんと、別れを言うチャンスをくれている。アリスにも……そして俺にも。

 昨晩はアリスの家に泊まったらしい。そこで二人がどんな話をしたのか興味はあるが、どちらに訊いたとしてもきっと答えてくれないだろう。女の子の秘密とか言って誤魔化すに決まっている。


 彼女はそこできちんとお別れをしたらしい。朝一に、アリスからそんな話をされた。


「だからあんたも、ちゃんとしなさい」


 何をするのか、とまでは明言しなかった。別れを言うのか、思いを伝えるのか、彼女は俺に選択の余地を与えてくれた。

 本当は、彼女と会って何を話したいかなんてまだ思いついてなかった。彼女と会って、俺は何を伝えるべきなのかいまだに自分でも理解していないのだ。

 目の前に、古ぼけた扉がある。音楽室はあまり重要視されないのか、他の教室が綺麗にリフォームされようとも、この教室だけは一向に寂れたままだ。


 ここに来る途中に見てきた六年二組の教室は、俺たちが過ごした頃とは打って変わって、扉は木製から軽い金属素材に変わっていた。

 しかしここだけは、何も変わらない。俺たちがまだ小学生だった六年前から、何一つ変わっていなかった。


 よく考えたら、普通は高校の音楽室に向かうべきなのかもしれない。高校の下駄箱に、〈音楽室で待ってるね〉なんてメモ書きが入れ込まれていたんだから、本来ならそっちのほうが自然なはずだ。


 だが、気づけば俺はここにいる。ここで、この教室の前で立ち尽くしている。


 この扉の向こうに、彼女がいる。


 証拠は何もない。別段俺が忍びの一族の末裔で、相手の気配を察することに特化しているというわけでもない。はたまた前世は犬で、嗅覚が異常に優れているわけでもない。


 それでもここには、由希がいる。


 何と言えばいいのか。「暖かさ」という言葉がしっくりくるかもしれない。「熱」ではない、俺をほんのりと包み込むような「暖かさ」だ。


 部屋に入ったら何と言おう。ごめんなさいから入ろうか。いや、「何に対しての?」と訊かれるに決まってる。そして俺はそれに、「なんとなく」としか返せない。

 だったらいっそ、開き直ってやろう。そんなに俺に会いたかったのかと、からかって、振り回してやればいいのだ。


 彼女が困惑する顔が目に浮かぶ。しめしめ、最後に一泡吹かせたぞ。


 俺は扉に手をかける。油のとれたレールと木とが擦れ合い、キィキィと超音波のような音を立てていた。


 が、半分開けたところでうんともすんとも言わなくなる。俺が全体重を乗せてみるがびくともしない。


 おかしい。前はもっとスムーズに――


 ひんやりとした感覚が、右手から体じゅうに広がった。白い手が、扉を抑える俺の手に重なる。


 すると、突如として扉が動き出し、俺はバランスを崩して倒れ込んだ。


「もう、ドジだなぁ。ここの扉はちょっと持ち上げながらじゃないと開かないんだよ。覚えてないの?」


 いたずらっぽく笑いかける少女が、自身のほっそりとした腕を伸ばし、俺に差し出す。


「……初耳だ」

「あはは、冬人くんには言ってなかったっけなぁ?」


 俺が遠慮がちに手を重ねると、力一杯に彼女が僕の体を引き上げた。薔薇のシャンプーの香りが、優しく鼻孔を刺激する。


 少女は、藍色のドレスを纏っていた。俺はそれに見覚えがある。


 俺を誘ってくれたコンクールで、彼女が着ていた服にそっくりだ。それを見ただけで、まるでピアニストの演奏会に来た気分になった。


 顔が熱くなった俺に向かって、彼女はにこっと笑い、深々と一礼をする。

「ようこそ、萩原由希の演奏会へ。横山冬人くん」




「俺さ――」

「まあまあ、取りあえず聴いてってよ。話はそれから」


 俺の言葉を苦笑しながら遮る彼女に、やはり叶わないなと改めて実感した。

 俺は彼女に案内されるがまま、席の一つに座らせられる。


「……ドビュッシー、月の光」


 由希が囁くように口を動かす。

 柔らかな旋律が響く。月夜に一人、少女が奏でる。

 草原に、俺はいる。ぽっかりと森に穴が開いたような場所。真ん中には、蔦の絡まったグランドピアノがぽつんと置き去られてある。


 そこに座った少女が一つ、指で白鍵を叩いた瞬間に、涼しげな風が吹く。彼女の長い黒髪が仄かに揺れる。前髪が、俺を誘うように手招いた。

 少女のずっと上のほうで、遠慮がちに月が居座っていた。まるで彼女だけを包み込むスポットライトのようで、その光を受けて少女が淡く発光する。

 悲しげに、少女の指が動いていく。感情が高ぶるに合わせて、徐々に強く響くクレシェンド。儚げに放たれるフォルテシモ。


 風が周りの木々をざわめかせる。少女はやはり、何もかもをコントロールしていた。季節も、風も、空気も、温度も。この世界に存在する全ては、彼女の手の中に握られている。

 彼女の表情は何も変わらない。だが、周りの環境だけは確実に変わっている。彼女が変えている。彼女の人間らしい部分を、久しぶりに垣間見た気がした。

 世界は再び静寂に包まれる。風はいつしか止み、彼女の指の動きもゆったりとしてくる。


 ゆっくりと、着実に、彼女の世界は終わりへと向かっていった。


 彼女が音を収束させる。散らばっていた音の破片が、ある一つの道へと導かれていく。

 全てが繋がったとき、じっくりと味わうように押し付けていた彼女の指がふっと鍵盤から離れた。


 ――しかし、これは彼女のピアノではない。唸るような熱情も、思いのままに揺れ動く曲節も、ここには何一つ存在していない。


 これはただ、「上手」としか言えない演奏だった。動画サイトで聴くプロの演奏と、何ら変わりはない。


「上手くなったな」

「なにそれ皮肉? わかってるくせに」


 彼女もそれには気づいているようで、俺の皮肉をあっさりと見抜いてきた。


「次、サティ、ジムノペディ第1番」


 淡々と、事務的に、彼女は旋律を奏でる。まるでプロのピアニストのように、流れるようなミスのない演奏だ。

 間違いなく、彼女は世界的に有名なピアニストになる。何年後かはわからない。もしかしたら、数年後にはテレビに出るくらいにまで成長しているかもしれない。朝の情報番組で、「パリで発見! 天才ピアノ少女!」なんて特集が組まれているかもしれない。


 きっと、彼女はそうやって大人になる。彼女はピアニストとして、世界に羽ばたいていく。こんなところで、ちっぽけな幼馴染みにかまけてる暇などない。一刻も早くパリで有名な講師に教えを乞うて、一時も早く世界的コンクールで優勝する必要がある。例え天才といえども、厳しい競争を勝ち抜くためには、余計なものは迷わず切り落としていかねばるまい。


 単調なリズムが、俺の鼓動を落ち着かせる。ジムノペディという曲は、俺も好きで何度かネットで聴いていた。ゆったりとしたリズムの中で、それでも曲調がしっかりと変化していく。

それと彼女の演奏とは、何も変わらない。いや、ひょっとすると彼女の演奏のほうが上手いのかもしれない。素人の俺がどこまで正確な評価を下せているかはわからないが、少なくとも俺は、彼女のピアノのほうが、音が整っていると感じた。ブレのない、透明度の高い音だ。


 ――でも、やはり違う。これは彼女の曲ではない。彼女はこんな、正確無比な少女ではない。ミスタッチなど気にすることもなく、感情の赴くままに、思うがままに旋律を奏でる少女だ。


 君が奏でるのは、そんなピアノなのか。


 けれど、それは彼女の成長の証でもある。上手いピアノというのは、間違いなく世間の人を惹きつける。

彼女は着実に、ピアニストになっている。感情のままに、幼馴染みにピアノを見せびらかす自慢げな少女から、感情を抑え、世間の人々に綺麗な演奏を届けようとする分別のある少女へと、変わりつつある。

少女は今も、何かを弾き続けている。これが4曲目だっただろうか。わからない。もうどうでもよかった。これは俺の知る由希の演奏じゃない。ピアニストとしての彼女の演奏だ。そんなのは、俺は聴きたくはない。


「……ふぅ」


 気づくと、静寂に包まれていた。演奏を終えた彼女が、一息ついて肩を落とす。


「冬人くんはさ、大人になるって、どんなことだと思う?」


 上半身だけをくるりと回転させ、彼女は窓の外を見やる。大部分が欠け落ちた三日月が、俺の目にも留まった。


「……自制できるようになるってことじゃないか?」

「と、言うと?」

「自分の欲望や感情を抑え込んで、相手に合わせて自分を作れたら、偽れたら、それは大人になったってことだと思う」


 今の彼女を見て思う事だった。彼女は大人になった。それがどことなく寂しい。置いてけぼりを食らった気分だ。


「それが大人になるってことなら、私は大人になんてなりたくない。だってそんなの……息苦しくて、耐えられないよ」

「だったら、吐き出せる相手を作ればいい。詰まって苦しい息を、心置きなく吐き出せる相手がいればいい。お前には、もういるだろう?」


 幸樹は、きっと上手に彼女を幸せにできる。彼女のどんな辛さでも受け止める人間性と、それに対して的確な対処を行える能力とを、彼は兼ね備えている。

 俺には、到底そんな行動はできない。彼女の辛さを受け止めることさえできない。


「いるよ。目の前に」


 頼りない俺を、彼女はそう言ってくれた。俺がその相手だと、そう言った。


「最後は、君のリクエストを訊きたい。君が聴きたい曲を、君の言葉で教えてほしい」


「……リスト、ラ・カンパネラ」


 気づけば、俺の口は勝手に動いていた。


 物足りない。乾きが癒えない。何もかもが足りない。こんなんじゃ、満足できない。


「……はい」


 彼女はふわりと楽譜を床に捨てる。風に煽られ、一枚一枚が広がっていく。彼女はそんなのは気にする素振りを見せず、瞳を閉じて深い呼吸をする。


 目を開き、ふっと笑った。


 最初の音が奏でられる。


 ああそうだよ、そうだ。その音だ。


 きりきりとした、とげとげしい響き。感情がむき出しで、何一つ隠そうという気がない。痛々しい音。

 俺なんかじゃ到底受け止めきれない感情の流れ。小さな俺など簡単に飲み込んでしまう流れ。どんなに足掻こうと、俺は彼女の織り成す波に飲まれるしかない。


 世界が変わる。物語でもなく、それは俺にとっては現実の世界だ。馬鹿みたいに、はじける様に白鍵を叩く彼女は、いつにもまして子供っぽい。幼児がおもちゃを乱雑に扱っているようにすら見える。

 遠い空の下にいたはずの彼女が、いつの間にか数十センチあるかないかくらいの距離にいる。手を伸ばせば触れてしまうような近さだ。だが俺はあえて手を出さない。彼女の演奏を、熱情を、邪魔するわけにはいかない。


 俺はそれを受け止めきれない。けれど、一緒に流れてやるくらいならできる。

 小川のせせらぎは、いつしか濁流となって二人に襲い掛かる。世界は深い水色に包まれて、二人は息苦しくもがき続ける。

 救いの手は、あのときのようには伸びてこない。代わりに同じ水の中から、もがきながら伸ばしてくるその手を俺はそっと掴む。


 暖かかった。その暖かさに刺激され、走馬灯のように記憶が呼び起こされる。

 彼女と乗ったブランコ。彼女と行った公園、駄菓子屋、河原。

 その全てで、彼女は笑っていた。幼い無邪気な声で、顔で、笑いかけてきた。


 好きだ。


《やっと思い出したのか》

 ああ思い出した。俺の好きな彼女だ。俺が好きな彼女だ。


《じゃあ伝えよう。好きだって、言葉にしよう》

 いや、言わない。


《……え?》

 俺は言わない。


《なんでさ》

 あいつが苦しんでるのに、俺だけが抜け駆けはできない。


 曲が終盤に差し掛かる。彼女がふっと気合を入れたのがわかった。音が集まっていく。とげとげしく散らばっていった音が、傷つけあいながら一つにまとまっていく。


《苦しんでる?》

 ああそうだ。見てみろよ、あいつ。


《…………》


 彼女は泣いていた。無表情に、涙だけをボロボロ落としてドレスに染み込ませながら、体を揺らして白鍵を叩いている。


 言いたくても言えない辛さは、お前だってよくわかってるだろ?

《……ああ》


 それをあいつは、直接言えない代わりに不器用にピアノで表現してるんだ。それなのに、俺が言ってしまったら、ずるいだろ。

《後悔はしないのか?》


 きっとする。

《だったら――》


 俺だって、大人にならなきゃいけない。そのくらい、自制できないでどうする。あいつが大人になったんだ。俺はもう、由希に置いていかれるのは御免だ。


《……はは、僕と変わらず、君も大概だな。大馬鹿だ》

 馬鹿で結構。


《それが君の答えなんだね》

 そうだ。俺が何年も悩んで、苦しんで、他人様に迷惑をかけて、支えられて、足掻いた末に出した結論だ。


 後悔はする。けど後悔することを俺は、悔やみはしない。それだけの力を、強さを、俺はこれから育んでいく。


《そっか、頑張れよ》


 無責任に言い置くと、それ以後《僕》の声は聞こえなくなった。


 世界が崩れ始める。彼女が終息へと向かわせている。激情が嵐のように二人をさらっていく。とめどない熱情が二人の間を行き来する。

 集まった音たちが一気に弾け飛んだ。拍手喝采が周りから沸き起こる。ステージ上で、少女があどけなくお辞儀をする。


「……えへへ」


 眼を擦りながら、真っ赤な瞳で笑う。どこか幼さの残る表情だ。照れた顔が、なんともいじらしい。


「以上を持ちまして、萩原由希の演奏会を終了とさせていただきます」


 はにかんだ顔で司会の真似事をしてみせる。


「何か、言いたいことはありますか?」


 涙で濡れた部分が、余計に深い色合いになっている。そんなドレスを纏った少女が、俺だけに語りかける。


 言いたいことなんて山ほどある。今すぐにでも全て吐露して、楽になりたい。


「…………」


 彼女がにこやかに返事を待つ。


 けれど、決めたんだ。俺は大人になる。彼女と共に大人になる。もう由希に、置いてけぼりを食らうのは御免なんだ。


 俺は静かに、首を振った。

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