出来なかった過去
〈明日の放課後、音楽室で待ってるね〉
僕がその紙切れを拾うと、そこには小さな丸文字でそう書いてあった。
可愛らしい文字だ。
誰の字なのかは、はっきりとわかっている。
「ねぇ、明日雪降るんだって」
「そうなの? じゃあ皆で雪合戦だな」
背後では、1組の男女が仲睦まじく微笑んでいた。そのまま視線を昇降口の外へと移すと、もう空が厚い雲に覆われつつある。気温もますます低下してきているようで、手袋をしていても手がかじかんでヒリヒリと痛んだ。
図書館での1件以来、由希とは一度も話していない。
間違いなく、僕は彼女が好きだった。けれどたった1回、ほんの少しの嘘をつかれただけで、彼女への好意は薄れていった。
所詮、彼女への想いはその程度だったんだと思う。今思えば、好きなところばかりだけでなく嫌いなところだっていくつもあった。
僕を何食わぬ顔で振り回す。何を考えているのかよくわからない。
他にも、彼女に苛立ちを覚えることは多々あった。なんでそんな彼女を好きになったのかわからない。
ふと、薄汚れたグレーのゴミ箱が目に入った。僕はピンクの紙切れを丸め、そのゴミ箱に投げ入れる。
すっと、綺麗な放物線を描き、それは中へと落ちていった。
翌日、学校は休校となった。
予報を上回る大雪で、危険と判断されたらしい。僕は母親からその話を聞いた。折角の休みなので友人と遊ぶつもりだったが、外出は禁止とのことで僕がぶーぶー文句を垂れる。が、母は無表情に何も答えなかった。
つまんないの。
結局僕は、起きてきた小夏と二人でゲームをして過ごした。
午後からは天気が回復したので、僕と小夏は外で雪遊びをすることにした。雪合戦をしたり、子ども一人がかがんで入れる程度の小さなかまくらを作ってみたり。無邪気な子供の声だけが、閑静な住宅街に響き渡る。
そして、最後に二人で雪だるまを作った。
「……由希ちゃんの雪だるま。可愛かったなぁ」
泥まみれで形もぐちゃぐちゃの二つの雪だるまを眺めて、小夏が物惜しそうにぼやく。
「ねぇお兄ちゃん。由希ちゃんも呼ぼうよ」
僕のコートの裾を、くいくいっと魚が餌をついばむようにして引っ張った。
「……あんなやつ、もう知らない」
「……どうしたの? 喧嘩したの? 駄目だよ、すぐ仲直りしなくちゃ」
「喧嘩じゃない」
「じゃあ、どうしたの?」
どう言葉にしたらいいかわからない。由希へのこの思いを、僕はどう言えばいいかわからない。
僕を振り回すのが嫌い。感情が読めないのが嫌い。
でも、笑顔は人一倍可愛いんだ。一緒に居ると楽しいんだ。振り回されて、嫌なときと嬉しいときがあるんだ。
この気持ちを、どう自分の中で落ちつけていいのかわからない。好きなのか、嫌いなのかはっきりしないのが、とてつもなく気持ち悪い。
そして、途方もなく苦しい。胸に綿を詰められたみたいに、息苦しくて、もやもやとしている。
〈明日の放課後、音楽室で待ってるね〉
時刻は四時を回った。学校があれば、放課後の時間帯だ。
――彼女は今、そこにいる。
確証もないのに、確信はあった。
けれど、どうしても僕の足は動かない。もし彼女がいなければ、結局最後まで僕は彼女に振り回されたことになる。
くだらない意地が、僕の足に絡みつく。寒さに凍り付いてしまったように、足が止まる。
「……もう寒くなってきたから、ゲームにしよう」
僕の提案に、小夏は黙ってついてくる。
これでいい、これでいいんだ。彼女はそこにいない。だってそうだろう? 今日は、学校は休みなんだ。そもそも放課後という時間が存在しない。
それに、外出はしちゃいけない決まりだ。
『待ってる』
記憶の中の彼女が囁く。
『君が来るまでずっと』
もう僕を振り回さないでくれ。僕は君のおもちゃじゃない。
『私、君のこと――』
まだそんなことを、僕は期待してるのか。彼女には婚約者がいるのに。それを僕に、何一つ教えてくれなかったのに。
「お兄ちゃん、はやく」
小夏がリビングのソファーに座り込んでいる。その膝元には、コントローラーが二台置かれていた。
「……うん」
彼女から一つ受け取り、僕は彼女のすぐ隣に座り込む。低反発のソファーに下半身が埋もれていった。
僕はしばらく、そこから動くことができなかった。




