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君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
本編
14/19

旅立つその日に

 そうだ、林間学校だ。


 空に浮かぶ満月を見て不意に、俺の脳裏によぎるものがあった。アリスとの出会いの記憶が、鮮明に俺の頭に思い出された。

 林間学校の2日目、彼女の手を握りながら、俺は真っ暗な洞窟を抜け出したんだ。泣き止まない彼女を、「手を握ってやれば喜ぶかな?」なんて思いながら、何となしに出した右手に、彼女がちょこんと手を据えた。こっちが彼女をコントロールしてやるつもりだったのに、彼女の手の温かさに胸が落ち着かなくなったんだっけ。懐かしい。


 そんな他愛もない思い出の甘酸っぱさを味わいながら、俺は街灯と月明かりとが、ぶつかり合いながら差し込んでくる教室を見渡す。


 いまだに彼女は、本を読んでいた。


 かれこれ数時間が経とうとしている。放課後に入った時点で、既に半分ほどまでページが進んでいたはずだから、どう考えても読み終わるのが遅すぎる。

 それにさっきから彼女は、読み終えてしまいそうになると、本を畳み、バックの中を何かを探しているかのようにまさぐっていた。そして結局は何も取り出さずに、本を再び読み始める。その瞬間にさりげなく、読んでいたページよりもずっと前に遡っていた。

 それを、かれこれ十数回は繰り返している。


「…………」


 そして、先ほどから彼女がずっともじもじと足をくねらせていた。

 その行為にかなり身に覚えがあったので、


「……トイレ、行けば?」

「なっ――そ、そんなんじゃないから!」


 核心を突かれたアリスが慌てて立ち上がる。が、瞬時に腰が引け、強く足を絡ませていた。


「いや、早く行けよ。高校生にもなってお漏らしか?」

「むっ……だってその間に、あんた帰るでしょ?」

「帰らねーよ」


 ここまで待ったんだ。そう簡単に引き下がれない。


「妹に蹴り飛ばされたくないんだよ、俺は」

「……は?」

「こっちの話。それよりお前はさっさとトイレに駆け込め。ただでさえ松葉杖なんだから」

「……怪我させた本人がよく言うわよ」


 彼女は諦めたのか、ため息をついて立ち上がる。「帰ったら、末代まで呪い殺すから」と言い残して、彼女は足早に女子トイレへと向っていった。


 たった一言、他愛もない言葉を交わすのに、何日何時間かけてんだよ俺は。


 怪我をさせた本人が、果たしてこんな砕けた感じで話しかけていいのか、ずっと不安で言い出せなかった。彼女に嫌われたらどうしようと、怖くてたまらなかった。

 嬉しかった。彼女が変わらずに接してくれることが、この上ない幸せだった。


「……絶対帰ってると思った」


 教室の扉付近に現れた彼女は、息が少しあがっているのか、肩を上下させて呼吸を整えていた。


「ちゃんと手洗ったか?」

「洗うに決まってるでしょ! 全く」


 ぶつくさと文句を垂れながら、彼女はさりげなく俺の隣に座りなおした。


「……怒ってないのか?」

「なわけないでしょ。人に怪我させといて、それは都合が良すぎるんじゃない?」


 冷え切った声で彼女が言い放った。それが鈍器で殴られたみたいに頭をぐらつかせる。


「冗談よ。正確に言えば、今は怒ってない」


 彼女が、「そんなに怖がらなくても」とふっと笑って付け加えた。

 段々と、着実に、彼女の作り出す波に飲まれていく。


「……あれからずっと、毎日のように由希に言われるのよ。『冬人くんを、嫌いにならないであげて。いつか必ず、向き合ってくれる日が来るから。もうちょっとだけ、待ってあげて』って」


 由希が、俺の知らないところで根回しをしてくれていたらしい。ずいぶんと世話焼きな幼馴染みだ。けど、それがなければきっと、俺はこうしてアリスと二人きりで話などできていないだろう。


「そんなの毎日聞かされたら、冷めるわよ、色々と」


 彼女が嘆息を漏らして体を縮こませ、机に突っ伏した。


「……怪我させて、すまん」

「ぷっ」


 俺が何とか絞り出した謝罪の言葉を、彼女が噴き出して笑い出す。


「何その小学生みたいな謝罪」

「仕方ないだろ! こういうの……慣れてないんだ」


 何年振りかわからない。最後にしっかりと人頭を下げたのは、もしかしたら10年以上前のことかもしれない。


 俺はアリスのことをツンデレ娘だのなんだの心の中で馬鹿にしていたが、俺も大概だ。


「やっぱりあんた、似てるわよね、私と。だからきっと――」


 顔を机に伏せたまま、何かを言いかけて彼女の言葉が止まる。遠くの田んぼから響く蛙の合唱だけが、この教室に響き渡った。


「……それと、最後の大会、潰してすまなかった」


 もう一つ、心残りだったことを口にする。


「なんだ、そんなことも気にしてたの」


 しかしそれを彼女はさほど気にしてはいないようだった。無理に強がっているようにも見えない。


「そんなことって……お前、あんだけ頑張って練習してきてただろ? 悔しくないのかよ、俺なんかに潰されて」

「やっぱり、あんた勘違いしてたのね」

「……は?」


 終始顔を伏せたままだった彼女が、退屈そうに腕に顎を乗せる。


「あんたらみたいな弱小とは違って、私たちは強豪チームなの」


 流し目で俺のほうをチラと見て、しかしまた彼女はそっぽを向いた。


「……だから?」

「ストレートインって、知ってるでしょ?」

「……なにそれ」

「はあ……これだから弱小チームは……」


 嘆息を漏らすと、面倒くさそうにして顔を歪めた。


「ストレートインってのは文字通り、そのまま入るって意味よ。地区予選とか、そういうのをすっ飛ばして、いきなり本戦にいけるの」


 知らなかった。そんな某有名テーマパークのファストパスみたいなものがテニス界にもあったことを、今初めて知った。


「私たちの場合は関東大会から。つまり、私たちの試合が始まるのは六月」

「……間に合わないだろ、それでも」


 彼女が宣告されたのは、全治3か月だ。六月といえば、もう一か月程度しかない。どんなにリハビリを頑張ろうが、間に合う数字ではない。


「なめてもらっちゃ困るのよ。こっちは毎年毎年インターハイに出てるの。私一人いないくらいで、負けるチームじゃないわ」


「そういうチームに、部長として育ててきた」と、スパルタ教官のように彼女が呟く。


「……厳しくし過ぎたせいで、嫌われたけど」


 ぼそりと言い置き、再び机に伏せる。「部長は嫌われるのも仕事なんだよ」と俺がフォローするが、それに対して彼女はうんともすんとも言わない。


「インターハイは八月。ギリギリ間に合うか間に合わないかの瀬戸際だけど、リハビリさえ頑張れば、たぶん間に合う」


 彼女が軽く自身の左足をさする。そしてぎゅっと副木を握ると、それをこんこんと軽く叩いてみせ、直後「痛っ――」という言葉が飛び出す。


 馬鹿かこいつは。


「少しは気が楽になった?」

「……まあ」

「馬鹿正直ね」


 本当に、馬鹿だと思う。怪我を負わせた本人が、負わされた人間に慰められているんだから、これ以上ないくらいの間抜けだ。


「あんたを許す気はないわ。怪我どうこうより何より、私を見捨てて逃げようとしたあんたを、そう簡単には見過ごせない」


 彼女が俺を一気に現実に引き戻す。しっかりと、俺の目を見てものを言う。


「……だけど、これでプラマイゼロよ。あのとき、逃げずに私を助けてくれたことと、今回の件でおあいこ」


 一つ、彼女が伸びをする。天高くにその組んだ両手を伸ばす。幾分か大きくなった少女が、そこにはいた。


「……亮には、なんて返事したんだ?」


 突拍子もなく飛び出した俺の言葉に驚いた様子だったが、すぐに顔を赤く染めて魚のように口をパクパクとさせる。


「まさか……あんた覗いてたの?」

「……覗くつもりはなかった」


 情状酌量の余地を求める俺を、「悪趣味なやつ」と蔑むような目で見る。どこかの業界ではご褒美と聞いたことがあったが、少しだけ彼らの気持ちがわかった。


「断ったわよ」


 その言葉に、またほっとしてしまう自分がいる。


「確かに亮は、どっかの誰かさんより器用で優しくて気が利くけど、恋愛対象としては見てなかったわ。それに私は――」


 またも彼女の言葉が詰まる。じっくりと言葉を選ぶようにして、たっぷりと時間を味わってから、彼女がようやく口を開く。


「――他にいるのよ。昔からずっと、私の側に居てくれた人が」


 それが誰なのか、ずっと前から俺は十二分に知っている。そんな人間、彼女の周りには一人しかいないのだ。


 隠すに隠しきれていない。


「……由希は、明日旅立つ」


 独り言のようにぼそりと言葉が宙を舞う。


「あんたに、それを伝えたのかはわからない。けど少なくとも私は、あんたに伝えないのは間違ってると思う。だから、一応私から言っておく」


 彼女は立ち上がる。ふらふらと上半身を不安定に揺らしながら、松葉杖をついて、こちらを見る。澄んだ青い瞳で、俺だけを見る。


「……ずっと支えてくれた人に、何も告げずに去ろうとするのは――それを許してしまうのは、絶対に違う。伝えたいことを、想いを、ちゃんと伝えるべきだと思う」


 どんな思いで、彼女はその言葉を告げたのだろう。俺が由希に想いを伝えることが、どんな意味を持っていることくらい、彼女はわかっているはずだ。

 それでもなお、彼女が覚悟を決めてそう言うなら、俺が彼女のためにできることはただ一つ。


 由希と、真っ直ぐに向き合うことだ。そして、言葉にすることだ。


 ずっと言えなかった気持ちと、ようやく向き合うときが来た。そのきっかけを、彼女が作ってくれた。それを逃してはいけない。


「……それだけ、私が言いたかったのは」


 夜風が吹き込む。肌をさらりと爽やかに撫でていく。あわてんぼうな初夏の陽気を打ち消していくような、気持ちのいい風だ。


 それが彼女の髪をふわりと浮かす。月明かりに照らされた彼女の金色の髪は、いつにも増して美しく、妖艶な輝きを放っている。


「今日はありがとう。残ってくれて」


 彼女は笑った。引きつったような顔で、笑ってみせた。だから俺も、それにはにかんで返す。ぎこちないけれど、それが俺の精一杯で、俺を表すのには十分すぎる表情だった。


「……また明日ね」

「……ああ、また明日」


 かつ、かつと、松葉杖をつく音が廊下に響いていく。一定のリズムで、留まることなく、着実に遠ざかっていく。

 俺はその音につられるようにして立ち上がる。

 昇降口まで辿り着き、時計を見ると既に午後8時半を回っていた。スマホを見ると、妹からの着信が何十件と入っている。


 こりゃあ早く帰らないとえらいことだな……。


 俺は長々とした説教を覚悟し、靴箱を急ぎ開ける。


 ――ひらりと、雪が舞うように、1枚の紙切れが舞い落ちた。


 その景色に、俺の記憶が過敏に反応する。


『……由希は、明日旅立つ』


 そうだ。あのときと同じだ。彼女が東京へ行ったときと、全く同じだ。

 あのとき、できなかったことをしよう。


 俺はゆったりと腰を下ろし、静かにその紙切れを拾い上げた。

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