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君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
本編
13/19

家族として

 不思議と、憑き物が落ちたようにスッキリとしていた。


 落ちるところまで落ちてしまえばいい。それ以上落ちることのない、底の底まで行ってしまえばいい。そうすればきっと、俺はそこに居座り続けられる。

 誰もいない廊下で、亮が何やら、アリスに微笑みかけていた。彼女はそれにぎこちなく応じる。まるで付き合いたてのカップルのように、それは見えた。


 でも残念だったな、亮。アリスのは俺が好きなんだ。孤独から、彼女を救い上げた俺が好きなんだよ。


 情けなく、虚勢を張って心で呟いてみる。


《彼女が好きなのは「俺」じゃなくて「僕」だ》


 冷笑する《僕》の言葉が、俺の記憶を隅々まで刺激していく。

 そうだ。俺は《僕》じゃない。俺の中で、《僕》という存在は、とっくの昔に死んだ。彼女が俺を捨て、婚約者と共に東京へと向かった時点で、既に死んでいたんだ。


 アリスが好きなのは《僕》だ。あの日、俺が箱に押し込めて窒息死させた、《僕》自身なのだ。


 いつだっただろうか、俺が彼女を救ったのは。それすら、俺には思い出せない。


 アリスも由希と同様、一人ぼっちの少女だった。ひどく孤独を嫌い、けれど皆に溶け込むことのできない、中途半端なやつだった。


 だから俺は彼女を助けた。誰からも相手にされない中、何気なく話しかけてくれる人が一人いるだけでどれだけ救われるか、由希との経験上知っていた。


 由希を失った俺にとって、一刻も早く、自分を愛してくれる人が必要だった。彼女はそれに、うってつけの人物だった。

 アリスから好意を貰うために俺は、あくまで打算的に、彼女を孤独から救い上げた。見事に彼女は俺の口車に引っかかったというわけだ。


 そして今度は、亮が、俺という悪から彼女を救い上げる番だ。


「――水無月。俺と付き合わないか?」


 迷いのない、真っ直ぐな言葉が、ぬるまったい廊下を渡り歩く。


「ずっと前から好きだった」


 亮はイケメンで、器用で、気が利いて、いつも笑っている、そんな男だ。


 十分すぎる。お似合いだ。


 彼女はなんと答えたのだろうか。今では、真相は闇の中だ。


 俺は彼女の言葉が聞こえる前に、階段を駆け上がった。遠く、遠くへと、素早く足を運んでいく。自分はこんなにも速く走れるのだと感心した。


「――どうしたんだい、冬人。そんなに慌てて」


 気づけば、俺は音楽室の前まで来ていた。廊下の先で立ちふさがる青年は、まるで俺の悪事を全て見え透いているかのように、この世界の支配者であるように、俺を見下してくる。


「そんなに必死になって、何から逃げてるんだい?」


 全てだ。何もかもからだ。


「……つまらないな、君」


 ぽんと、肩に手を置き、耳元で囁く。それを振り払う力は、もう俺の中には残っていない。

 幸樹の言う通りだ。どうしようもない、救いようのない惨めな人間だ。


 ひと思いに殺してくれと願う。こんな人間として生きるくらいなら、死んだほうが幾分もましなことくらい、わかるだろう? お前ならわかるだろう?


 懇願するような瞳で、俺は彼を見上げる。

 すると、いつものように気味悪く笑うでもなく、俺を見下すでもなく、彼はこう言った。


「惨めな男だ」

 


「――惨めなんかじゃありません」



 声が聞こえる。その声を聞かなかった日は、一日たりともなかった。十年以上前から、毎日俺の耳に欠かさず届いていた声。


「うちのお兄ちゃんを、馬鹿にしないでください」


 彼女ははっきりと言うと、俺と幸樹との間に割って入ってきた。俺の肩に乗った彼の手を、彼女が代わりに払いのける。


「自分を好いてくれる女に手を出して、挙句の果てにそれを謝りもせず、ただただ壊れていくものから目を背け続ける男の、どこが惨めじゃないか説明してもらおうか」


 彼の鋭い眼差しが、彼女に突き刺さる。しかし彼女はそれに動揺する素振りも見せず、


「確かに、人に手を出したお兄ちゃんは最低な人間です。私も幻滅しました」


 低い調子で、けれどそこに、俺を蔑むような気配はない。


「……だけど、ずっとお兄ちゃんは苦しんでるんです。罪悪感と、くだらないプライドの狭間で、馬鹿正直に葛藤しているんです」

「答えになってないな。結局、彼が現実から目を逸らし続けている事実に変わりはないだろう。彼は逃げ続けている」

「目を逸らすことが、逃げていることになるんですか?」

「なるさ。直視できないから目を背ける。それに対して、何も解決方法を探らない。これが、逃げ以外の何だと言うんだ?」

「私は、それが逃げだなんて思いません」


 きっぱりと、少しの迷いもなく言い切る。


「さっきも言いましたよね? お兄ちゃんは葛藤しているんだって。全然全くこれっぽっちも、逃げてないじゃないですか。そこでずっと、胸が張り裂けそうになりながら、踏ん張って留まっているんですから」

「止まっているだけじゃ、何も変わらないだろう? それは逃げていることと大差ない」

「ええ、それだけじゃ何も変わりません。だからこそ、最後の砦として、私がいるんです。私がお兄ちゃんの背中を押すんです。そっと押してあげるだけで、うちのお兄ちゃんは動き出せるんです。そういう人間なんです。伊達に十数年、妹をやっていません。私の目に狂いはありません」


 彼女がふっと一息つき、肩の力を抜いた。


「いいじゃないですか、少し目を瞑って、誰かの助けを待つくらい。人間、誰もが一人で生きているわけじゃないんです。お兄ちゃんはその典型的な人間なんですよ」


「あなたはその例外ですが」と、彼女は語尾に付け加え、「でも」とさらに言葉を続ける。


「あなただって、本当はわかってるんじゃないですか? 由希さんと触れ合って、彼女の弱さを知って、それを愛おしく思って、好きになって……。一人じゃ生きていけない弱さくらい、人並みには理解してるんじゃないですか?」

「…………」


 黙り込む彼に向かって、彼女が大きくその腕を広げる。小さくて細い腕を、目一杯広げて見せる。


 その背中が、ひどく大きく見えた。


「お兄ちゃんは、私が誇れる最高のお兄ちゃんです。それをよく考えもせずに、軽々しく――馬鹿にしないでください」


 彼に負けないくらい真っ直ぐな瞳で、数十センチ差はあるであろう青年を、怖気づくことなく睨みつける。


「……ふむ」


 彼は顎に指を当て、何やら考え込んでいる。しばらくの間同じ仕草をしながら、「僕の出る幕じゃないかな」と、意味ありげに呟いた。


「すまない冬人。僕は少し熱くなっていたようだ。これで失礼するよ」


 彼は小さく手を上げると、そそくさと階段を下りていく。あっけない幕切れだった。


「…………」

「…………」


 残った二人に、静寂が訪れる。その心地よい静けさの中、俺はずっと、腕をおっぴろげたまま、目の前に立ち続けている少女の姿を見つめていた。


「…………ぷはー、緊張したぁ。幸樹さん、すっごい目で睨んでくるんだもん。びっくりしちゃうよ」


 彼女が大きく息を吐き出すと同時に、両肩が穴の開いた風船のごとくしぼんでいく。


「まあそのおかげで、私も腹決めて言いたいこと言えたんだから、良かったけど」


 彼女がゆっくりと振り返る。紺色のブレザーを纏った彼女は、うなじ辺りまであるセミショートの黒髪を艶やかに光らせ、前髪を花柄のヘアピンで留めていた。


「……もう、何か言ってよ。あんなに頑張ってお兄ちゃんを守った妹に対して、何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「…………」

「……ま、そんなこと言われたら言われたで気持ち悪いんだけどね」


 ふっと妹が笑う。何も変わらない、いつも通りの笑顔で。


「……全部話してよ、お兄ちゃん」

「……全部知ってるんだろ?」

「お兄ちゃんの口で、お兄ちゃんの言葉で、私に伝えて」


 小夏は俺の口を指差す。まるで小学校の先生に怒られているときのような、そんな気分だった。


「……俺が、アリスを階段から突き落とした」


 まずは事実を端的に述べる。

 何故だろう。やはり彼女には他の人間にはない、独特な柔らかい雰囲気がある。ふんわりと俺を包みあげて、あっという間に心に余裕を与えてくれる。


 家族だから。兄妹だから。


 そんな単純な言葉で片づけてしまうのは、どうも野暮な気がした。


「それで?」

「怪我をした」

「それから?」


 淡々と事実だけを伝えていく俺に合わせるようにして、妹も素っ気なく返してくる。


「それを由希に見られた」

「それだけ?」

「そのことを亮に伝えたら、幻滅された」

「そりゃあ、人に怪我させといて謝りもしないろくでなし人間なんて見たら、引かない人間のほうが珍しいよ」


 彼女は「やれやれ」といった調子で首を振る。


「……それで、一人になった」

「それは違う」


 食い気味に、彼女が俺を責める口調に変わる。


「私がいるじゃん、目の前に。一人じゃないじゃん」


 精一杯胸を張って、ぽんとそれを叩く。「一人じゃない」という言葉が、何度も響き渡る。


「そういうとこなんだよ、お兄ちゃんが失敗する理由って。そうやって、何でもかんでも悪い方悪い方に考えちゃうとこ、よくないよ」

「……仕方ないだろ。事実、悪いことが芋づる式に起きてるんだから」

「そうじゃなくて!」


 彼女は綺麗な黒髪をぼさぼさに掻きむしる。生まれつき、つむじの辺りにあるくせ毛がぴょこんと跳ねた。


「ああもう……お兄ちゃんのばか!」


 突如として、唾が飛びそうな勢いで俺に罵声を浴びせてきた。


「どうしてわからないかなぁ?」

「何が?」

「その逆だってありえるってこと!」

「……何が言いたいかわからん」

「だ・か・ら! 逆だよ逆!」


 地団太を踏むようにして俺を叱責する彼女。兄への尊敬もへったくれもなかった。


 さっき、「誇れる最高の兄」なんて褒め称えたくせに。


 それを思い出すと、途端に恥ずかしくなった。


「芋づる式に悪いことが起きたなら、芋づる式に良いことが起きても不思議じゃないってこと! どうしてそれがわからないかなぁ……」


 心底呆れた様子で首を大きく横に振っている。


「つまりは、何かきっかけさえあればいいの! それさえあれば、後はきっと、お兄ちゃんなら上手くいくってこと! 私が言いたいのはそれだけ」


 小夏が指を俺の目の前に突き立てる。

 人を指差すなって子どもの頃から言われてるだろ……。


「まあどうせ、お兄ちゃんは自分からきっかけなんて作れないだろうけど……でも、だからこそ、誰かが与えてくれたチャンスを、ふいにしちゃ駄目」


 壁に寄りかかりながら、彼女は遠くの景色を見つめる。小うるさいカラスが一羽、遠くの木陰で鳴いていた。


「それだけは、目を見開いて、しっかりと捉えなきゃ駄目」


 しっとりとした口調で、彼女は静かに、諭すようにして呟く。


「……約束、覚えてるよね? 何でも言う事聞くってやつ」


 いつか彼女と小指を交わした日を思い出す。


「……百円分のな」

「百円以下だよ、こんなの。ただ目を開けていればいいんだもん。けどそれが何より、お兄ちゃんには、一番大切なことだよ」


 彼女が言葉を終えると、俺たちは再び静寂に包まれた。辺りは徐々に、陰りを増してきている。オレンジに燃える西日の透き通るような光が、絹のベールのように優しく纏わりつく。


 やるべきことはわかった。後はそれを実行するだけだ。

 今だけは、目を開けよう。真っ直ぐに、真摯に向き合おう。


 とんと、彼女が強めに俺の背中を押す。「何たそがれてんの?」とからかい、照れながら俺の目線に彼女が合わせる。


「もしお兄ちゃんが目を開けなかったら、今度はその背中、蹴り飛ばすから」


 ……西日が眩しい。


 俺は思わず目を伏せた。


「……久しぶりに、一緒に帰るか?」

「嫌だよ、ブラコンって思われたくないし」


 口を尖らせ、しっしと俺を追いやるようにして手首を動かす。即否定されると、正直傷つく。


「……でもまあ、今日だけ、ね。特別」

 はにかんだ妹は、とてもいじらしく見えた。まだ幼さの残った顔立ちが、とても愛らしく思える。


「寂しがり屋なお兄ちゃんに、少しだけ、甘えさせてあげるよ」


 彼女は目一杯背伸びをして、大人びた様子で微笑んだ。

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