壊れた左足
あの日曜日以来、俺は彼女とまともに話せなくなっていた。彼女と目が合えばドキドキして、彼女が遅刻してくれば、何かあったのかと心配する日々。
これだけ聞けば、初恋に心踊らせる初心な男の子だろうが、そうじゃない。
いつ彼女が、俺の目の前から消えていなくなるかわからない。俺の右手をぎゅっと掴んだあの手で、婚約者の手を取り、パリへハネムーンに行くかわからない。
嫉妬だ。
やれ俺のせいだの、彼女にイラついていないだの、幸樹を殴り倒したくはないだの、結局俺は綺麗ごとを並べながらも、そんな単純で醜い感情の塊なのだ。
吐き気がする。自分に嘘ばかりついている自分に、嫌気がさす。
だが由希のほうはというと、気まずさなんて微塵も感じていないようだった。いつもと変わらず、クラスの男女から解放された瞬間に、わざわざ俺の席まで来ては他愛もない話をして帰っていく。その度に、彼女を取り囲む男女からの視線が痛かった。
「あんたも人気者ね。ぼっち卒業おめでとう」
亮に付き合わされた購買の帰り道。教室へと向かう最中、彼が放送で職員室に呼び出された後、皮肉たっぷりに、アリスが横から茶々を入れてくる。
「代わってくれてもいいんだぞ」
「嫌よ。由希が興味あるのはあんただし。私じゃない」
いつの間にか「由希」と下の名前で呼んでいた。俺の知らないところで、二人の間で友情が育まれていたらしい。
十分に、彼女もぼっち卒業だ。
「……そういや、最近お前、やたら亮とも仲良くなったよな」
「映画に行ってからよ。よく亮から話しかけられて、最近じゃよくRIMEも送られてくるの」
RIMEというのは、SNSのメッセージアプリのことだ。友達登録をしておけば、いつでも連絡が取り合える。俺たちが普段スマホを通じて会話をするときは、いつもそれを利用していた。
「結構面白い人よね、亮って」
そう言ってうち笑う少女がとても美しく見える。俺は微かな敗北感と喪失感を覚えると、
「好きになったか? 亮のこと」
「なっ……そ、そんなんじゃないから! 私はただ普通に友達として好きなの!」
「どうだか」
「ち、違うわよ? ほんとよ? 私の好きな人は亮じゃないって!」
真っ赤になって騒ぎ立てる。
ほっとした。
嫌なやつだと思う、俺は。こうやって、彼女の癖を利用して本音を探り出すのだから、いやらしい。世間で騒がれている洗脳と、大して変わらない。
「……あれ……ピアノ?」
旋律に引き寄せられるように、階段の下で彼女がふっと立ち止まる。階段を上がってすぐ右側には音楽室があるはずだ。
「……誰か弾いてるんだろ。ほら、行くぞ」
ぼんやりと頭上を見上げる彼女に催促をする。
「……ねえ、上行かない?」
「嫌だ」
「もうちょっと悩んでくれてもいいじゃない」
即答する俺に不貞腐れて彼女はそっぽを向く。
「一人で行けばいいだろ?」
「……だって……」
まるでおもちゃを買ってくれない子供のように、俯いてその場に立ち尽くしている。「買わないって言ってるでしょ! 早く来なさい!」そんな母親の言葉が聞こえてきそうだった。
俺はじっくりと、天秤にかける。
由希に会う気まずさと、彼女から興味を失われる怖さとを、入念に。
「……はあ、すぐ教室戻るからな」
過ぎかけた階段の場所まで俺が戻ってくると、アリスの表情がみるみるうちに綻んでいく。
本当に、こいつはわかりやすい。
階段を一段上るたびに、その音は強くなる。
……ラ・カンパネラ。
踊り場に差し掛かったところで、俺は記憶に刻み込まれた旋律を思い出した。
「ラ・カンパネラ」
「……え?」
無意識に声に出ていたらしく、唐突なことに彼女はきょとんと首を傾げていた。
「この曲だ。由希がよく弾く」
「へぇ。じゃあ由希が今?」
「たぶん」
俺たちは階段を上りきり、何故か緊張した面持ちで、右に一つ目の教室の前に立った。
聴こえてくる音符の一つ一つが、俺の記憶の断片を磨き、その度にそれは眩い輝きを放つ。あのときと同じ旋律だ。懐かしい。
俺が思い出に惚けている中、アリスも口をぽかんと開けて突っ立っていた。おそらく彼女も惹き込まれているのだろう。俺にも過去にその経験があったからわかった。
波が二人をさらっていく。世界が支配される。そして俺たちはその世界の住人となる。
不思議と、嫌な気持ちはしない。
――音が一つ、弾け飛んだ。
それと同時に俺はその支配から解き放たれる。目の前に広がる草原も、気がつけば質素で古ぼけた木製の扉になっている。
違う。由希じゃない。
何かが違う。その違和感を、俺だけは捉えていた。アリスは相変わらず、あの世界にいる。
由希のピアノじゃない。では一体、なんなんだ、これは。
「――なんだ、君か、冬人」
目の前の扉が開け放たれており、そこに一人の青年が立っている。俺があれだけ嫌いだった青年が。
「……どうしたんだい、ぼーっとして。いつもみたいに、親の仇のような目で僕を見てくれよ、気持ち悪いなぁ」
「……なんでお前がここにいるんだよ」
「僕だって、一人のピアニストだからね。寸暇を惜しんで練習くらいするさ」
彼の額はじんわりと汗ばんでおり、両手首には湿布が巻かれていた。
「おや、こっちのお嬢さんは、もしかしてアリスかい? 水無月アリス」
「……へ、あ、はい……」
隣にいたアリスがおどおどと会釈をする。
「由希からの噂通りの美人だね。今は冬人とデートとか?」
「ち、違う! あ……違います!」
「はは、タメ口でいいよ。同い年だし」
「え……てっきり先生かと……」
「これはさり気に、僕は老けて見えるってディスられたのかな? 冬人」
「……俺に訊くな」
「はは」と彼は鼻で笑うと、
「そうだ。折角だし聴いていくかい? 藤野幸樹の演奏会」
「演奏会」という言葉に、片隅に追いやったはずの記憶がざわめき出す。
「……遠慮する」
「まあまあそう言わず。アリスはどうだい?」
アリスはチラと俺を上目遣いで確認してから、
「私は……聴きたい……かも」
「じゃあアリスだけでも聴いていくといい」
幸樹が自然にアリスの手を取る。「ひゃっ」という可愛らしい声と共に、アリスは途端に頬を紅色に染め上げた。
「…………」
いるはずもないのに、自分の家族を取られたような気がした俺が黙ってアリスの後に続くと、
「おやおや、遠慮するんじゃなかったのかい?」
「…………」
「……まあいいや。どうぞごゆっくりと」
観客に柔らかく一礼すると、彼はピアノのもとへ向かっていく。俺とアリスは近くの椅子を見繕って、彼の指先が見える位置に陣取る。
彼が白鍵の上を滑るようにして指を動かすと、音が一つ一つ滑らかに奏でられた。聴いたことのない曲だ。ゆったりとした曲調で、どこか切なさを感じる。
アリスは、あっという間に彼の織り成す世界の深みへとはまっていった。俺は最後まで抵抗したものの、あっけなく彼に堕とされる。
鼓膜を素早く振動させる高音を、低い和音がしっかりと支えていた。由希のレベルまでとはいかないものの、やはりプロだ。観客を惹き込ませる技術は、並大抵ではない。
しとしとと雪が降って、そこに立ち尽くす一人の少年がいる。彼は誰かを探しているのか、傘も差さずに街を歩いている。
ゆっくりと歩みを進める少年は、何を探し求めてるのだろうか。時折立ち止まり、じっと一点を見つめては、何事もなかったかのようにまた足を進める。
在りし日の面影を、きっと彼は探している。
そんな、「物語」を見せられた気分だった。
「――どうだった? 僕の演奏は」
ピアノの蓋を閉め、彼が俺たちのほうへと向かってくる。
「……すごく、切なくなった」
素直に感想を述べるアリス。心底感動したのか、彼女の呼吸が荒いのがわかった。
「冬人は?」
自慢げでもなく、はたまた自嘲気味でもなく、彼は素朴に、俺に意見を求めてくる。
「そうだな。由希には到底及ばない」
彼の見せるのはただの物語だ。由希はそんなのは軽く超越している。
由希の見せるそれはまさしく現実で、聴き手にそれをまざまざと見せつける、幻想的というよりも、現実的なピアノだった。
「……ふむ、どの辺が由希に叶わないと思った?」
「まずお前にはセンスがない」
「……詳しく」
ズバリと彼を切り捨てたつもりだったのだが、彼は気にする素振りも見せず、真剣な眼差しで次の言葉を待っている。
プロの目をしていた。
「……お前のは、由希に比べてぎこちなさがある。滑らかじゃないから、作り物みたいに感じる」
「やっぱり、そこか」
「ふむ」と顎に指を添えながら、彼は再び椅子に座り、楽譜に何やらペンで書き込みを入れていた。
彼のペン先を不思議そうに見ていたアリスが、
「……その数字は?」
「ああこれかい? これは指番号さ。一が親指、二が人差し指、三が中指、四が薬指、そして五が小指さ。これを楽譜に書き込んで、どの音をどの指で弾くかを明瞭にするんだ」
幸樹の楽譜には、音符の上に数字が大量に羅列されており、楽譜全体が黒ずんで見えた。
「こうやって最も滑らかに指が運べる弾き方を体に叩き込むんだ。こうでもしないと、由希には到底追いつけないからね。感情のまま、感性に任せて弾ける彼女とは違う。僕は天才じゃない」
彼は大きく首を振りながらもう一度、「天才じゃない」と繰り返した。
初めて見る彼の弱々しい部分に、
「そんなことしても、由希には勝てない」
俺はすかさずつけ込む。
「わかってるさ。勝てるどころか並ぶことすらできない、そんなのはわかってる。けれど、わかっていたとしても、僕はここで止めるわけにはいかない。だってこれが――ピアノだけが、僕と由希とを繋げてくれる唯一の架け橋なのだから」
彼は、使い古されたグランドピアノの埃を、赤子を撫でるようにして丁寧に拭き取る。
「僕は、由希が好きだ」
唐突に、誰に言うでもなく、彼は呟いた。
――俺が、最も聞きたくなかった言葉を、口にした。
「だからこそ、彼女に見限られないように、身を削っても努力を惜しんではいけない。彼女に好きになってもらうために」
しわくちゃな楽譜を脇に抱え、生暖かい風が吹き込んでくる窓を閉める。
「……すまない、変な話を聞かせたな。僕の他愛もない独り言だと思って、全部忘れてくれ。僕の演奏会は以上だ。最後まで聴いてくれてありがとう」
座ったまま重い腰を上げない俺たちを差し置いて、彼は入り口へと向かっていく。
「……そうだ。このことは由希には内緒にしておいてくれ。これからも、彼女と仲良くやってくれると、婚約者としては嬉しい限りだ。じゃあまた」
小さく手を振って、彼は古ぼけた扉の陰へと消えていった。
「……帰るぞ」
心ここにあらずなアリスに声をかける。
「ふぇ?」
「ふぇじゃなくて、帰るぞ」
「あ、うん……」
彼女は何かを深く考えているようで、常にほこりにまみれて汚れた床を見つめていた。
『僕は、由希が好きだ』
幸樹の言葉が頭の中でずっと、やまびこのように響き渡っている。
耳にしたくなかった。
どこかで俺は期待していたのだ。彼が由希のことなど何とも思ってなく、ただの金づるとして彼女との関係を保っているのだ、と。
しかし、彼は言った。俺がずっと言えなかった言葉を、平気で口に出した
彼が憎いのは変わらない。俺から由希を奪い去ったんだ。その認識は今も変わらない。
最悪だ。彼には、悪役を演じ続けてほしかった。
いや、演じさせたかった。ずっと、ずっと。じゃないと、俺のプライドが保てないから。俺の陳腐でやたら自己評価の高い誇りが、傷ついてしまうから。
もう、憎めないだろ……そんなこと言われたら。
彼は由希が好きで、そのために毎日毎日努力を欠かさず、彼女に尽くし続けている。
俺は――どうだ? 毎日何をしている? 由希のために俺は、今まで何をしてきた?
――何もしてない。ずっと逃げてきた。自分は由希が好きなんだって。その感情の中に、俺は彼女を押し込めた。堅くて頑丈なその箱に、俺は彼女をしまい込んだんだ。
「……ねぇ」
階段の踊り場で、アリスがふと立ち止まる。
「幸樹って……あんたの言うような悪いやつなのかな?」
「…………」
「精一杯由希のためを持って、湿布まで貼って練習して、文字通り身を削って……そんなにひどい人間なの?」
……やめろ。
「……あんたは……騙してない?」
……やめてくれ。
「あんたはそうやって……自分を騙してない?」
「……幸樹が悪いんだ」
「……え?」
そうだ、あいつが悪い。あいつさえいなければ、俺は今頃幸せに彼女と暮らしているんだ。
「あいつさえ邪魔しなければ、由希は幸せな人生を過ごせたんだ」
「……違う。あんたは間違ってる。そうやって……逃げるのはよくない」
彼女が声を押し込めて呟く。
《僕は、また逃げるんだね》
《僕》が嘲笑う。
「……逃げてない。逃げてなんかいない……! 全部あいつが悪いんだ。全部、ぜんぶ」
「……ねぇ――」
「――もうやめてくれよ!」
俺の肩に手をかけようとした腕を払いのける。
彼女の右腕が綺麗に流れ落ちた。その挙動につられ、彼女の体躯がバランスを崩す。美しい山吹色の髪の毛を残して、彼女の体が俺の視界から消えていく。
時間が緩やかに流れる。彼女の体が、どんどん遠くへ離れていく。
重苦しい音が、廊下中にこだました。
はっとして手を伸ばしたときにはもう遅く、彼女は数段先へと体から落ちていた。
「いっ――」
最悪の事態を想定したが、彼女の運動神経の良さが幸いして上手く足から着地をする。が、すぐに悲痛な表情を浮かべ、その場に倒れ込んだ。
何が起きたのかわからなかった。気がつけば階段の下に横たわるアリスの姿がある。
なんで彼女はそこにいる?
《君が落とした》
俺が……?
《そう。君の身勝手な理由で》
……嘘だ。
《はは》
違う。俺じゃない。彼女は勝手に落ちたんだ。そう、足を滑らせて勝手に――
痛みからなのか、時折手足を動かしてもがき苦しんでいるアリス。左の足首の辺りが、風船のように、異様なほど腫れあがっていた。
そうだよ。彼女が自分で、十数段下に落ちたんだ。ドジだなぁ、アリスは。
「くっ……」
苦悶の表情を浮かべる彼女。声にならない悲鳴が、時折その小さな口元から漏れていた。
自業自得だ。
俺は何事もなかったかのように、横たわる何かを通り過ぎる。
「…………」
背後で、バタバタと物音がした気がする。だがもう俺は気にならなかった。
「――アリスちゃん! どうしたの!?」
俺の足が、その声に反応して動きを止める。
「……別に、な、何でもない……」
「何でもなくないよ! だって……その足……」
早く逃げよう。逃げなきゃ。
俺の意思とは裏腹に、まるで地面に根を張ったかのようにぴくりとも動かなかった。
早く、彼女に見つかる前に、早く――
「――冬人くん……? なんで……そんなところにいるの?」
はは。
笑うしかなかった。乾ききった笑いが、とめどなく溢れてくる。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。
いっそこのまま世界が滅んでしまえばいい。そうしたら、俺は悪役にならなくて済む。
いや、いっそ、俺が壊してしまえばいいのか。悪役なら、そのくらいの力はあってもいいはずだ。
「……冬人、くん……?」
けれど、俺に与えられたのはせいぜい、か弱い何かを壊すだけの力だった。




