表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君が奏でるのは  作者: 藤宮こん
本編
10/19

冷めて覚めて醒めてゆく

 朝起きたら、あるはずのものがない、いるはずの人がいないというのは、まだ子供だった僕にとっては、相当ショックな出来事だった。


 何気ない冬の休日の朝。起きてすぐは、家の中でさえ吐く息が白かった。朝食に並ぶのは、いつもと変わらぬメニュー。うちでは玉子焼きは基本、市販の和風だしを卵と一緒に溶き、それをフライパンで焼く出し巻き玉子が主流となっていた。これは僕の好みであり、同時に父親の大好物でもあった。

 反対に、母や妹は甘い玉子焼きを好んでいたが、それじゃあご飯が進まないだろうという僕たちの意見を、今では受け入れている。


 いつもと変わらない味。そう思って僕は玉子焼きを一切れ、口に放る。


「……うっ」


 口の中に広がる砂糖の甘味。僕は想像していたものと正反対の感覚を味わい、思わずそれを吐き出した。


「母さん。この玉子焼き甘いよ?」


 僕は低い声で母親を責める。


「……我慢しなさい」


 彼女は洗濯物を畳みながら、自分の子供のほうなど見向きもせずに答えた。


「僕、もういらない」


 そう言って箸を置き、足がふらふらと浮いてしまうくらい高い椅子からひょいと飛び降り、自室でゲームでもしようと、足早に階段へと向かう。


 パシンッ!


 甲高い破裂音が僕の鼓膜を刺激した。

 一瞬の出来事に、僕はいったい何の音か判断できなかった。頭がぼーっと霞んで、くらくらする。

ただ僕の目に映る、目を真っ赤に腫らした母の姿と、ぐしょぐしょのエプロンと、微かに走る右頬の痛みだけが、現実として知覚できた。


 なんで泣いているの?


 強い母の涙など今まで見てこなかった僕は困惑した。声にして問いかけたかったが、上手く言葉にならない。

 そして僕は重大なことに気づく。休みの日、いつもいる人――ずっと一緒に遊んでくれた人がいないことに。


「……ねぇ、お父さんは?」

「っ! …………」


 母が無残にも、みるみる崩れ落ちていく。ストンと音を立てて、両手をフローリングの床に投げうった。


「まだ寝てるの?」

「…………」

「今日は朝から、一緒にプラモデル作るって約束したのに、起こしてこなきゃ」

「…………」


 父の寝室へと体を向ける僕を、母のやせ細った指が力なくつまむ。


「……もうお父さんのことは忘れなさい」

「え、なん――」

「――いいから! 忘れなさいって言ってるでしょ!」


 先ほどと同じ破裂音が響く。今度ははっきりと痛かった。じんじんと頬が痛み、自然に涙がこぼれてくる。


「……ごめん、冬人。ごめんね」


 泣きじゃくる僕の頭を優しく撫でてくる。だが僕はそれをすぐに払い落とした。


 生まれて初めて、母に反抗した。


 ただひたすらに怖かった。今度は頭を殴られると思った。

 すると、彼女はそれが気に食わなかったらしく、


「少しは親の言うことを聞きなさい!」


 そう言って僕の頭を平手で何度も殴り打つ。感情に任せて放たれる一撃一撃の強い衝撃を与えられる度に、僕の脳はぐらついた。

 焦点の定まらない視線が、端っこに妹の姿を捉える。乱雑に放り出された洗濯物の先で、小夏がぼろぼろと大粒の涙をこぼし、わんわん泣き喚いていた。


 その両腕には、強く握りつぶされたような青あざがくっきりと残っていた。その他にも数か所、目新しい傷跡が目立つ。

 それでも母親の怒りは収まらないらしく、いまだに僕は殴られ続けている。もう感覚が麻痺してきて、心地良ささえ覚える。


「……ごめんね、冬人、小夏」


 気がつくと僕らは母の胸にすっぽりと収められていた。二人とも、恐怖という感情すら抜け落ちており、どうにでもなれと母に身を投げる。


 少しだけ冷静さを取り戻したのか、母が冷徹な声で囁く。


「由希ちゃんとは、今後一切関わらないで」

「…………」


 何故ここで由希の名前が出てくるのだろう。頭の片隅に浮かんだ素朴な疑問を口にできるほど、僕は冷静じゃなかった。


「お母さんとの約束、守れる?」

「…………はい」


 母がひたすらに怖かった。僕は言われるがまま、母の下僕となるしかなかった。




 その日から、僕は由希との関わりを一切絶つことにした。奇妙にも、彼女のほうからのコンタクトもなくなった。さらにはクラスでランダムにグループを作るときすら、僕は彼女と一緒の班にならないのだ。


 さすがにおかしい。


 偶然も、幾重にも重なればそれは必然なのだ。


 僕はこっそりと、彼女が一人になるのを待った。廊下で何時間も彼女の姿を探したこともあった。

真冬の廊下は凍えるように寒く、澄み切った空気を切り裂いて辿り着く西日だけが、放課後の廊下で唯一の暖かみを感じさせてくれる。凍えるような寒さに何度も手がかじかんだが、「彼女に会える」そう思うだけで、僕は耐えることができた。

 そして放課後、図書館でようやく彼女が一人になるのを見つけた僕は、足早に彼女のももとへと歩み寄った。


「……由希」

「……っ!」


 僕のかすれ声に気づいた彼女は、周りをぐるりと見渡し、誰もいなことを確認すると、読んでいた本を乱雑に投げ置き、僕のもとへと駆け寄ってくる。

 すると、僕の顔をまじまじと見上げるやいなや、途端にすすり泣き始めた。


「ごめん、ごめんね、冬人くん。私……わたし、もっといっぱいきみとはなしたいのに」


 涙で言葉が崩れていく。彼女の姿が急に子供っぽく見えた。


「落ち着いて、大丈夫だから」

「……君と話しちゃいけないってパパが……起きたらママいなくて……先生もみんな知ってるみたいで……」


 彼女が精一杯言葉を見つけては、文法などお構いなしにそれを羅列する。かなり混乱しているようだった。


「由希、大丈夫。僕の目を見て」


 僕は彼女の小さな肩に手を乗せ、じっと彼女の目を見つめる。すると、不安定に震え続けていた彼女の肩が、心臓の鼓動と同じ拍を刻み始める。


「深呼吸して」

「……うん」


「すー……はー……」と、大きく胸を膨らませ、中に溜まっているものを全て吐き出すと、徐々に彼女の目が据わっていくのが見て取れた。


「……ごめん、変な所見せちゃった」

「大丈夫だよ。それより、何があったの?」


 彼女はリラックスし、頭の中を整理する。


「あのね、この前の土曜日。朝起きたらママがいなくなってたの」

「うん。それで?」

「そうしたらね、パパが『ママは遠くに行ったから、今日からはパパと暮らすんだ』って。そして『それから、もう横山冬人には関わるな』って。私、わけがわからなくて、なんで冬人くんと話しちゃダメなんだろうって。でもパパは教えてくれないで、『もしあの子と話したら、パパもいなくなるからな』そう言われて、わたし……ひとりになるのがこわくて……」


 再び声が震えだす彼女の背中を優しくさする。


「僕も同じだよ。朝起きたらお父さんがいなくなってて、お父さんは忘れろって言われた。そして由希とも話すなって」

「なんで皆してそんなこと言うんだろう。ひどいよ……もっと、二人でいっぱいお話ししたいのに」

「……僕もだよ。僕も、由希とずっと――」



「――あれ、誰かいるのか?」



 廊下から、誰かの声がする。男の先生の声だ。だんだんと、その足音が近づいてきた。


「隠れなきゃ」


 考えるより先に僕は由希の手を取り、本棚と本棚との間へと体を滑り込ませた。


「……おかしいな」

「どうかしたんですか? 東条先生」


 透き通るような女の人の声も聞こえる。


「いや、誰かの声がしたんで、もしかしたら児童がまだいるのかなと」

「……気のせいじゃないですか? もう七時ですし、さすがに皆帰っているでしょう」

「そうだよな。ちと心配し過ぎたか」

「児童思いでいい先生じゃないですか。尊敬します」

「はは、口が上手いな坂本先生は。おや、こんなところに本が」


 しまったと思った。自分たちの体を隠すことに頭がいっぱいになって、由希が読んでいた本はそのまま机の上に放り投げたままだ。


「だらしないですねぇ。ちゃんと読んだ本はもとの棚に戻さないと」


 ガサゴソと、真後ろ本棚で何かをまさぐる音が聞こえる。僕の手を握る由希の力が、いっそう強まった。


 大丈夫。


 そう答える代わりに、僕は彼女の手を強く握り返す。


「……にしても、あの二人は可愛そうですね、東条先生」

「そうだな。親の勝手な都合で離れ離れになるんだから、同情してもしきれないな」


 僕らの背後で、何やら掴みどころのない話が始まる。


 掴みたくもない話が始まる。


「にしても、本当に起こるんですね。親同士の不倫なんて」

「……ほんと、あの子らは可愛そうだよ」


 由希の目から、光が抜けていく。残ったのは、まるで白黒写真のように色合いを失った彼女の、薄汚れた瞳だった。


 僕も、彼女の手を握り返す余裕がなくなってくる。


 二人とも、何かを感じ始めていた。


「最近は、やっと由希ちゃんにも信頼できる友達ができたのに、残念です」

「冬人は不器用だけど他人思いだからな。あいつも相当ショックだろうに。由希が東京に行くなんて知ったら」


 僕からも、得体の知れない何かが抜けていくのを感じた。あまりのショックに、彼女の手を握ることすら忘れて、恐る恐る少女のほうへと顔を向ける。

 彼女は俯いたまま何も喋らない。人形にでもなったかのように、瞬きさえしていない。


「……冬人君も由希ちゃんもまだ若いですし、辛いでしょうけど、お互いのことは忘れるしかありませんかね? 何か助けになってあげたいんですけど」

「やめたほうがいいよ坂本先生。由希のお父さんがわざわざ学校に乗り込んできて釘を刺していったんだ。二人を近づけちゃいけない」

「でも……」

「それに、由希にはピアニストになる才能がある。その天からの配剤を潰しちゃいけない」


 何故、僕らが一緒に居ることが、由希の夢を潰すことになるのだろう?


「なんで彼が一緒に居ると、由希ちゃんがピアニストになれないんですか? 冬人君は関係ないように思えますが」


 それを代弁してくれたのか、坂本先生が東条先生に疑問を投げつける。


「ほら、由希の家は決して裕福ではないし、ピアニストになるにはどうしてもお金がかかるから」

「……? お金と、冬人君とは関係ないのでは?」

「大ありだ。あの藤野家の一人息子が婚約者なんだぞ? それなのに一人の男と親しくしていて、相手に見限られでもしたら、大変だろう。なんたって、あの藤野財閥の御曹司だからな」

「藤野財閥って……あの藤野財閥ですか? CMでやってる、藤野フィナンシャルグループっていう」


 彼女同様、僕も何度もCMでその名前を見聞きしてきた。


 そして、藤野幸樹という名前。あの演奏会で鮮明に脳裏に焼きついた、あの忌々しい響き。


 頭が追いつかない。あいつと、由希が婚約? 東京に引っ越す?


「あそこの息子も相当ピアノが上手いらしい。由希と違って金の力で成り上がっただけだろうが。幼い頃から高いお月謝払って、パリだのなんだのから凄腕の講師でも呼んでいたんだろう。しかし彼の前に立ちはだかったのは、一般家庭から生まれた天才少女由希ときたもんだ。藤野家は相当悔しかっただろうよ。由希の父親もよく考えたもんだ、そこにつけ込もうだなんて」

「……その言い方だと、まるで由希ちゃんが、お金欲しさに冬人君を捨てたみたいに聞こえるんですけど」


 彼女はかなり怒っているのか、声質が先ほどとうって変わって、低く獣が唸るような音を発している。


「気に障ったか?」

「かなり」

「はは、すまんな。でも事実、赤の他人から見ればそう思うだろうよ。坂本先生みたいなお人好しじゃない限りね」

「…………」

「ほら、早く戸締りしないと、また学校はブラック企業だなんて世間に騒がれてしまう」

「……はい」


 それから二人はガチャリと冷たい金属音を立て、図書室から出ていった。


「…………」

「…………」


 いつも遅くまで鳴いている小うるさいカラスも空気を読んだのか、今日はしんと静まり帰っていた。

 嗅覚だけが冴えわたり、本のかび臭さが異常に鼻孔を刺激してくる。

 僕らを照らしてくれたお日様は、見る影もなく闇に覆われてしまっていた。窓の外は真っ暗で、おまけに先生が退出したと同時に電気と暖房を消されたせいで、一寸先すら見渡せず、あっという間に体の芯まで冷え切った。


 ただ、僕の左半身はずっと、何かの気配を感じていた。微かな温もりを、ずっと肌で感じていた。


「……全部、ほんとなの?」


 それから何時間たっただろうか。僕が静寂を破った。


「……うん」

「東京に行くって話も?」

「……うん」

「婚約者がいるってことも?」

「…………」


 少女の言葉が詰まる。


「……あいつのことが好きなの?」

「違う! 私本当は――」

「――もういいよ、言い訳なんて聞きたくない」


 僕を騙す詐欺師になんて、耳もくれたくない。


 僕はそっと耳に蓋をする。

 ああそっか、そうなのか。


 ずっと、彼女が僕を好いてくれていると思っていた。なんて言ったって、彼女を孤独から解放したのは紛れもなく僕だし、放課後はいつも二人でいたし、目が合うと照れて笑い合ったりもした。

 てっきり、彼女は僕のことが好きなんだと、勝手に思い込んでいた。


 全部、僕の身勝手な妄想だったんだ。


 捨てられた。僕は彼女の夢のために捨てられたんだ。結局、彼女にとって僕は、孤独を埋めてくれるだけの、都合のいい部品だったのかもしれない。

 僕はすっと立ち上がり、徐々にその熱源から離れていく。


「…………」


 僅かに鼻をすする音が聞こえた。だが僕はお構いなしにそれから離れる。

体が冷えていく。


「…………」


 本当に僕のことが好きなら、ここで「行かないで」くらい言ってくるだろう。

 微かな希望も打ち砕かれながら、扉に手をかけ、鍵を開ける。金属部分がひんやりと冷たい。それだけ、彼女とこの暗闇の中で過ごしていたのだと実感した。


「……さよなら、由希」


 震える声を押し殺し、それだけを言い残すと、僕はそれ以後、彼女との一切の関係を絶った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ