プロローグ
それはそれは、途方もない時間の連なりであって、止まることを知らない時の非情さであって、変えようのない運命の悪戯であって、どうあがいても変わらない帰結であって、僕らはそれを全て知っているはずだった。出会ったときから、まだ幼い二人の心の中に確実に存在していたはずだった。
越えられない壁と、超えてはいけない一線。見えない何かを境に、僕たちはいつも手を取り合おうとした。
僕には、彼女が見えない。彼女にも、きっと僕が見えていない。見えているのはお互いの影だけで、シルエットだけで、ぼんやりとした輪郭だけ。僕らにとってそれは、何も見えていないのと同然だ。
次第にその壁は光を遮り、それに応じて影も形も見えなくなる。とうとう僕らは、壁に残る微かな熱だけを頼りに相手を探すしか他がなくなった。でも、その温もりのおかげで僕はどれだけ救われたことだろうか、きっとそんなことを彼女は微塵も知らないのだろうけど。
壁はさらに厚みを増す。今度は熱さえ通さなくなった。もう、僕らにお互いを知覚する術はない。
僕は叫んだ。この想いが届くように。けれど、返ってくるのは自分の哀れで乾いた叫び声だけ。
そのうち、僕は叫ぶのをやめた。運命の壁に抗うのをやめた。彼女は消え、空っぽの僕だけがそこに残った。
いつしか、壁は消えていた。しかしそこに彼女の姿はない。広大な荒野に、ちっぽけな僕が一人。自分じゃ何もできない、惨めな僕が一人、立ちつくす。
《笑えるな》
……笑えねぇよ。
俺は《僕》に話しかける。自分の中の自分に、未熟過ぎた自分に語りかける。
……どうしようもないだろ。
それ以外、何もすることがないのだ。一緒に言葉を交わした少女は、もういない。ここには俺だけ、俺だけの世界に、俺が一人。口にするとわかったが、これはごく当たり前のことだった。
《彼女を探してみようか?》
僕が堕天使のように微笑みながら、俺の頭の中で口を開いた。
……彼女の意思で消えたんだ。わざわざ俺が追いかける必要はない。
《そんなこと言って、本当は探したいんだろ? 追いかけたいんだろ?》
そんなこと、訊かなくたってわかるだろ?
《ああ、わかるさ。僕は君だからね。わかるけど、それを口に出してみろよ》
きついこと言うんだな。
《そりゃあ言うさ。僕がはっきりしないのが嫌いなことくらい知っているだろう?》
……ああ。
《なら、僕はどうしたいんだ? はっきりさせよう》
俺は深呼吸して考える。いったい自分は何がしたいのか。彼女のことを――何も告げずに去った彼女のことを、どう思っているのか。
……何も、しなくていい。もう彼女のことは忘れた。
《そうやって感傷に浸っているのはずいぶんと気分がいいことだろう》
見透かされたようなことを言われ、眉間にしわが寄る。
……わかるなら、訊くなって。
《訊くさ、何度でも。僕の心がはっきりするまでは、何度でもね》
《僕》は少しサディスティックなところがあるようだ。
折れそうになる心を抑えて、俺は《僕》と話を続ける。
……投げ出したいよ。全部きれいさっぱり、記憶から消し去りたい。彼女と行った夜の裏山も、そこで見た満天の星空も、そこで見た彼女の笑顔も、怒ったときに見せる指の仕草も、嬉しいときに見せる照れた頬の色も、全部全部全部、丸めてごみ箱に捨て去りたい。
《じゃあ捨てればいいだろ》
……できないから困っているんだ。
《何故できないんだい?》
……忘れられないから、彼女のこと。
《何故忘れられない?》
……忘れたくないから。
《何故忘れたくない?》
…………。
《なんだ、ちゃんとわかってるじゃないか》
……僕は――。
《はっきりしよう》
……俺は――――彼女が好きだ。
《なら何をするべきか、僕ならわかるだろう?》
……でも、きっと拒絶される。
《されたらされたで、何度でもつきまとってやれよ》
心がもたない。俺は弱いから。
《知ってるよ。それでもやれって言ってるんだ。万が一、上手くいくかもしれないだろ? あの頃の彼女を思い出してみろよ》
彼女の腕を無理に引っ張って連れ出した外の世界で、さながら夢の国に迷い込んだお姫様のように、戸惑いながらも色々なことに興味を示した。僕は彼女が嬉しそうにするのを見ているのがとても好きで、彼女のおかげで今の自分はここにいる。そして当然、今の彼女もまた、自分のおかげでそこにいるのだ。
一歩、踏み出してみる。
「……久しぶり」
ガラリと音を立てて開いたドアの先にいる長い黒髪の少女は、放課後の夕日に照らされながら、読んでいた本をそっと閉じる。短かったあの頃の髪の毛を、最近はどうやら伸ばしているらしい。教室には、他に誰も残っていない。久しぶりの、二人っきりの空間だ。ずっとずっと大好きだった、夢にまで見たあの瞬間だ。
今からでも遅くない。ゆっくりでいい。やり直そう、二人で。
失ったはずの時間の空白を、これから二人で埋めなおそう。
僕が――俺が、必ずお前を……救い出してやる。
俺は彼女に微笑みかける。なるべく自分が変わっていないことをアピールできるように、昔の自分の笑顔を思い出しながら。
「…………」
彼女がすっと立ち上がり、自分の鞄を拾い上げた。外ポケットに本を突っ込み、ゆったりとした足取りで、教室の扉の側で震えながら立ちすくんでいる俺の方へ向かってくる。
そして一言、こう告げた。
「ごめん。君、だれ?」