プロローグ(飛ばしてもまったく影響ありません)
夢を現実だと錯覚することはあっても、現実を夢だと思うことは今まで一度もなかった。
ということは、今、俺は夢を見ているわけではなさそうだ。
しかし、状況は極めて不可解である。
霧が立ちこめている森の中の道を歩いているわけであるが、記憶がこの森の入り口につながっていない。
ギャアギャアとかクークルルとかケーケッケケとか、鳥系のよくわからない鳴き声があちこちでこだまする森。
薄明かりが差しているから、多分、昼間だろう。
生えている樹木も独特で、幹はわりと普通だが、葉の色が紫だったり水色だったりする。ペンキをぶちまけたような不自然さはなく、綺麗だし、葉っぱだけを取って手でちぎり、マヨネーズをかければサラダとして食べられそうな気もするが、特に空腹ではないのでただそう思うだけ。
湿気はあまり感じず、寒いとも暑いとも思わない。ただ、なぜか少し息苦しい。
昨日の夜、俺はパソコンでライティティングの作業を終えたあと、寝床に入って漫画を読み、うとうととなって寝たはずだ。
それなのに起きた記憶も、朝食を食べた記憶もない。
寝入ったあとに、森の中を歩いているという風になっている。
なぜ、俺の記憶は飛んでいるのだろう……?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目を開けると、垂れ下がった明るいオレンジ色の髪と、俺の顔を覗き込む大きな目が見えた。
「あ」
若い女の子だろうか。
笑顔になった。
とても愛らしく見えるが、エメラルド色の瞳、髪から突き出すように伸びた、肌色のなにかが、すごく変な感じがする。
「え?」
俺はなぜか疑問形でそう声を出し、ゆっくりと体を起こした。
また記憶が飛んだ。
森を歩いていたのに、なぜか寝ていて――。
手をついて気づいたが、やけに硬いベッドで腰が痛い。
ついさっきまで笑顔だった女の子は、ベッドからゆっくりと後ろに下がり、打って変わって不安げな表情で俺を見ている。
こちらも改めて彼女の姿を見る。
肩の下まで伸びたオレンジ色の髪。
大きな目にエメラルドグリーンの瞳。
やはり見間違いじゃない。
髪を突き抜けているのは耳か。驚くべきことに頭頂部付近まで伸びている。
触ればなめらかであろう、見た目的にはシルクのような生地でできたピンクのワンピース状の服をまとい、長くてすらりとした脚を見せている。
胸もそこそこ大きそうで、身長は160センチに満たない程度だが、女性としてはケチがつかない理想的なスタイルといっていいだろう。
――だが。
はっきり言おう。
どう見ても日本人ではない。
耳の形状から察するに人類かどうかも疑わしい。
「あの、すみません」
「はい」
しかしながら、日本語は通じる。
……。
「あの、えーと、すみません」
「……はい」
変だ。
かなり変だ。
洋画の吹き替えっぽいというのだろうか。
こちらが話したことに対し、若干のタイムラグがあり、口の形と合っていない日本語が話されているように見える。
「ここって日本じゃないですよね、多分」
「あの……ニホンっていうのは、土地の名前ですよね?」
「うん」
「では、違います」
――夢じゃないんだ。
それは感覚として間違いない。
でも、自分の家で寝たのに日本じゃないところで起きるというのは、よくわからない。
なんなんだ?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
耳の長い彼女と小一時間話して、ようやく俺は自分の状況を認識した。
いや、正確に言うと、あまりにもおかしな話で認めたくはないんだが、事実であれば受け入れるしかない。
そう楽観的に思えるのは、状況がさほど深刻ではないからだ。
ここは、俺が住む世界とはまったく違うらしい。
彼女の名前はエマヌエーレ。
エルフという種族なんだそうだ。
以前からここで一人暮らしをしているとのこと。
女性なので年齢は聞かなかった。
エマヌエーレ……長くて言いにくいのでエマと呼ぶが、彼女曰く、数カ月に一回、俺のような奴が来るらしい。男が一人で来るとは限らず、大集団、子供やカップルが来たこともあるとのことだ。単純に、森が世界と世界ををつなぐ橋のような役割を果たしているんじゃないかと。
そして、森を戻っていけば元の世界にも戻れると。実際、迷い込んできた奴らはみんなそうやって帰っていったらしい。
つまり、その気になれば、俺は今すぐ、この家を出て自分の部屋に帰れるというわけだ。
らしい、ばかりの話だし、「やけに耳の長い女性がいる変な世界に迷い込みました」と言っている人がいるというニュースを見たことがないので、本当に帰れるのかは多少不安だが、そこを厳密に考えると精神が不安定になってくるので、帰る途中、記憶が消えるんじゃないかという推測を立てておこう。
じゃあ、さっさと帰るかと思ったが、エマには世話になった。気がつくまでベッドに寝かせてくれたし、さっきは紅茶のような味の飲み物、そして、果物のジャムとパンをごちそうになった。
一宿一飯の恩義を受けたからにはきちんと返したい。
そう告げると、エマは顔を赤くし、「えっ、そんな、いいです、いいです!」と言いながら、両手を胸の前で車のワイパーのように振った。気持ちを表すジェスチャーは変わらないみたいで助かる。
ただ、人間の世界に興味があるようで、俺の話を聞きたがったため、少し話をすることにした。
懇談の時間は気分よく過ぎていった。
彼女の年齢はよくわからないが、女子高生ぐらいに見える女の子とこんなに楽しく話したのっていつ以来だろう。
今、俺は三十歳で、多分、高校生以来だから十二年ぶりぐらいか。
「仕事はどんなことをされているんですか?」
流行っている歌はどういうものかという話のあと、エマが言った。
「あー、WEBライターってやつ。わかるかな。まず、インターネットってのがあって――」
WEBライターというのは、簡単にいうと、サイトに載せる文章をひたすら書くライターのことだ。
たとえば、クライアントから『脱毛』というキーワードを与えられ、『脱毛』を含んだ600字の文章を100個書いてくださいってなことを頼まれる。
そして、脱毛の基礎知識やら体験談やらを100個書いて納品すると、それがブログに掲載され、脱毛という検索キーワードでアクセスした人の目に留まり、同じブログにある脱毛の広告がクリックされて利益が発生する、と、そんなシステムになっている。
具体的な名前は出さないが、肩こりの原因は幽霊とか、おかしな医療記事がどうとかこうとかを書いたのも、ぶっちゃけ、WEBライターだ。
俺が受け取る報酬は一記事辺りだいたい150円から200円。そのため、生活していくためには大量の記事を書かなければならない。
苦笑いをしてそう説明すると、椅子に座っていたエマは身を乗り出して顔を輝かせた。
なんだこの食いつきは?
「こっちの世界にも、そういう仕事ありますよ!」
「え!?」
椅子から立ち上がって別室へ行ったエマが、四角くて平べったいなにかを両手で持って走ってくる。
「ほら、これです。見てください」
エマはなにかの蓋をばかっと開いたが、俺は、その四角くて平べったいもの、そのものに驚いた。
液晶モニターっぽい画面とキーボード……、昔の電話帳並みに分厚いけど、ノートパソコンじゃないか!
エマに聞くと、10年ほど前にこの世界にきた数十人の人間たちが技術者で、一年ほど滞在して、ネットワークやサーバーの理論を教えていき、パソコンも数台置いていったらしい。
それからパソコンとともにインターネットも普及したとか。ま、日本でも、ポルトガル人が鉄砲持ってきてからあっという間に広まったし、異文化交流にはそういうこともあるか。
ただ不思議なことに、キーボードに書かれた文字、画面に表示されている文字、どちらも日本語とアルファベットだ。
エマが日本語を話しているのも不思議だが、技術者が来てパソコンが普及しているように、誰かの手によってなんらかの自動翻訳システムが構築され、動いているんだろうか。
画面にはたくさんの単語が並んでいる。
借金 脱毛 AGA インターネット スマホ アプリ……。
エルフってファンタジーの世界にいる種族だよな?
そのわりに、なんて現実的な……。
「キーワードの中から好きなのを選んで、そのキーワードを含む文章を書くと報酬をもらえるんです」
「いくら?」
「銀貨一枚」
「それってどれぐらいの価値?」
「えーと、そうですね……」
エマは部屋を見回して、テーブルの上の皿に載っている食べかけのパンを指した。
「あれを10個買えるぐらいです」
「100円として、だいたい1000円ぐらいってことか」
キーワードをいろいろと見ていると、『異世界』というのがある。俺が住んでる世界ではお目にかからない変わったキーワードだ。
クリックして説明文をチェックすると、
『異世界モノの小説のあらすじを、タイトル含めて書いてください』
と、ある。
記事の残り数は250。つまり、現時点で、異世界モノのあらすじを250募集しているということになる。
報酬は――。
銀三枚!
一記事3000円。
かなりの高額だ。
異世界モノの小説って、いくつか見たことある。最初読んだのは、なんだっけ、日本になんか攻め込んできて、自衛隊があっちへ行ってみたいな話だった。
ようは、今の俺の状況みたいな話だろ?
どれぐらい書けるだろう。あらすじだけだったら、結構いけそうな気がする。
「エマちゃん」
「はい!」
急に省略された名前を呼ばれて驚いたのか、エマの声がうわずった。
「寝袋みたいなもん、あるかな」
「あ、お客がきたとき用にベッドは二つあります」
「できればでいいんだけど、どっちか貸してくれる? 二、三日、泊まらせてほしいんだ。嫌なら外で寝るから」
俺は画面から、隣に立っているエマの顔に視線を向けた。
「いえ、いいですけど、なんで?」
「一宿一飯の恩義として、異世界物のあらすじを100個書いて、その報酬、銀300枚を置いていく」